戦後10年が経過し、復興が進んでいる途上ではありますが、まだまだ貧しい時代でありました。鉄製の揃いのバッジを、当時、兼部を含め百名にも及ぶ團員に配布する事を考えると、費用的に当時の我が團の財政では到底、賄い切れるものではございませんでした。
【バッジ制作の為、奔走したと伝えられる元町商店街(昭和30年)】
現在の元町通3丁目の神戸風月堂周辺。まだアーケードもありません

当時の團長という立場は後年のそれとはやや性格が異なり、クラブの代表という以上に一家一門の総領といった方が正確で、同期生であっても絶対的な権限を持っておりました。
創團当初の山下初代、本多二代目の人格的迫力がそうさせたとも言えますが、その反面、責任も極めて大きく、こういう難事に直面しこれといった解決策が見出せない場合、團長がそれを預かり自らの器量で解決する、という事になる訳であります。
本多團長が打った事態打開の策は、本多團長の生家が営んでいた事業で使用していたバッジを使用するという奇策でありました。
本多團長の伯父にあたる人物が本多仁介翁でありまして、神戸で手広く倉庫業、建設業を営み、配下5千人と言われた本多会の総帥であるという、神戸ではその名を知らぬ者はいないと言われた超大物でありました。
この本多翁が代表を務める本多建設工業、大神倉庫、本多会で共通で使用されていたバッジが大量にある事を目につけた本多團長が本多翁に直談判し、了承を得て晴れて我が團初の團バッジが制定された次第であります。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会