中興の祖【後編】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

牧村團長の治世で特筆すべき事項としては、ノンポリの象徴とも言える我が甲南大学で最初で最後の学生運動が起きた事でありましょう。学友委員会が学費値上げ反対でバリケードストライキを決行したのであります。キャンパスが占拠される様な事態は後にも先にもこの一度きりでありますが、今から考えれば隔世の感があります。余り知られていない我が校の歴史でございます。


ところが当の委員長が腰砕けで、左翼学生を放置したまま、当局に折れて、学友委員会は敗北宣言をするという異例の事態が起こります。左翼学生らは当然の事ながら怒り、委員長と激しく対立する様になりました。

当時の学生運動の内紛はかなり激しいものに発展しがちな傾向にありましたので、牧村團長は苦境に立った委員長を應援團で保護し、学内では應援團親衛隊が委員長のボディガードを務め、また牧村團長の自宅を提供し学友委員会の会議をさせたり、と全面的に学友委員会を援助しました。


当時、学生運動と應援團・体育会の対立は全国的に見られた構図でありますが、自治会の委員長を應援團が保護するなど、余り聞ける話ではありません。政治的立場を超え、困っている者を放置しない牧村團長の男気は高く評価されておりました。


我が應援團での代目の数え方は、團員がいない代がありますと、その空位の代を1つ下の代の者が代行するという方式を採っております。我が團では本来、18代目を継承すべき代の團員がおりませんでしたので、その1つ下の織田團長が3回生で18代目を継承しました。そして4回生になっても引き続き團長を務める事になりましたが、通常であれば、3回生時代は18代目代行、4回生時代は19代目となるべきところを、その2年間をひっくるめて18代目を名乗りましたので、牧村團長は19代目團長として歴史に記録されております。


1代が抜けてしまう事態は48代の歴史の中で3代しかございませんが、この変則的な代目の数え方をしたのは18代目だけでありまして、通常通りカウントすれば牧村團長は20代目團長だった訳であります。

歴史にifは禁物でありますが、20周年の節目を牧村團長の比類なき統率力の下で迎えていたとしたら、その後の我が團の歴史は変わっていたやもしれません。


いずれにしましても歴代の名團長を論ずる時、外せない一人が牧村團長である事は間違いございません。


甲南大學應援團OB会

八代目甲雄会團史編纂委員会