昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦致しました。しかしながら市民生活は安寧を迎える事はなく、益々、混迷の度合いを深めて行ったのであります。
当日の正午、玉音放送にて国民は終戦を知りましたが、同日19時、国鉄湊川駅構内で貨車から物資が不良三国人によって略奪される事件が発生、これを皮切りに市内の至る所で略奪が起こったのであります。
不良三国人は略奪した物資で闇市 を形成しました。国鉄三ノ宮駅高架下で1個5円の饅頭が中国人の手で売り出されたのが神戸における闇市の走りと言われております。当時の米一升の公定価格が5円でございますので、闇市での料金設定がどういうものかご理解頂けるかと存じます。
そしてこの饅頭屋を契機に三宮、新開地、湊川、大正筋、長田等神戸市内17ヶ所に闇市が開かれ、昭和20年10月には国鉄三宮駅の高架から神戸駅北東に至るまで、延々2kmに及ぶ日本一長い闇市が生まれていたのであります。(参考資料「神戸市史 第3集」)
【現在の三宮交差点付近。そごうより西を望む。左手がジャンジャン市場。画像上部に連なっているのが三宮駅高架の闇市】
こうした戦勝国民と喧伝する不良三国人以外にも、神戸には脇浜小学校を始め6カ所の捕虜収容所がございましたが、そこから解放された中にも不良分子が多々おりまして、白昼、強盗、略奪等が公然と行われていたのであります。さらに同年9月25日に米軍第33師団1万7千名が進駐して参りますと、治安は更に悪化し、神戸は酸鼻を極める地獄絵図そのものと化しておりました。
斯様な世相の中、我が應援團の創設者達は多感な小中高生時代を過ごされた訳であります。そこには正義も道徳もなく、ただ力が全ての時代でございました。その中で愛するものを護る為には相応の力が必要である事を実感すると共に、日本古来の他者を思いやり、家族を最小単位とした共同体の中で援け合いながら生きてゆく姿を希求する心が強く芽生えたと言えましょう。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会