戦略的に重要な拠点であった神戸は格好の爆撃のターゲットになり、本格的な神戸空襲は、昭和20年2月に始まり、そのうち大規模なものは3月17日、5月11日、6月5日の3回でございます。
3月17日未明の大空襲で、神戸市は兵庫区、林田区、葺合区を中心とする市の西半分が壊滅し、同年5月11日の空襲では、東灘区にあった川西航空機甲南工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われ、灘区・東灘区が被害を受けました。さらに同年6月5日の空襲では、焼夷弾による無差別絨毯爆撃が行なわれ、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化しました。これで神戸市域は壊滅状態となりました。
神戸とその周辺地域昭和20年1月3日から敗戦までの間に大小合わせて128回の空襲 を受けております。
被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、少なくとも8841名の市民が犠牲となり、15万人といわれる負傷者、焼失家屋15万戸延べ65万人もの人々が家屋に被害を受けたと言われております。これは人口および面積から換算した被害率としては、当時の五大都市でも最悪の数字でありました。
当時、山下初代團長は長崎で12歳、本田二代目團長は神戸で10歳でありまして、斯様な環境の中、小学生時代を過ごしておられた訳であります。焼け野原と化した故郷の姿は少年の目にどの様に映ったのでありましょうか。
【焦土と化した元町2丁目】
甲南も、應援團も全てはここから始まったのだという事を我々は忘れてはなりません。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会