甲南大學應援團が生まれた時代【1】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

以前にも本ブログでお知らせさせて頂いた通り本年は私共、甲南大學應援團が結成されて、ちょうど60周年の年にあたります。節目の年に関する行事の意義は様々あろうかと存じますが、私共の場合は、まずは現役應援團の再建の契機とするという目的が第一に挙げられます。

 

それと同時に創團の意義を再認識し、現代の世に創團の理念を伝えるという点も挙げられます。我が團の源流は昭和28年に見る事が出来ますが、当時はまだ敗戦の爪痕が色濃く残っておりました時代でありまして、社会全体が今日の様に豊かな時代ではございませんでした。

 

その中、大学で学び、且つ應援團を創設しようという先輩方の意気を我々は継承し、その理念の実現へ向けて飛翔せねばなりません。

その意味を含めて、我が甲南大學應援團が生まれた時代を振り返ってみる事は意義深い事だと思います。

 

甲南大学の前身は大正12年に建学された旧制甲南高等学校 であります。大東亜戦争後の学制改革で昭和22年に新制甲南中学 が、昭和23年に新制甲南高校 が開校され、昭和26年に甲南大学が建学されるに至るのであります。

 

大東亜戦争が我が校設立に至る大きなターニングポイントになっております。当時の神戸は、人口100万人を有する日本で6番目の大都市でありまして、日本最大の港であり輸送の拠点でございました。同時に日本国内最大の造船と船舶用エンジンの集積地帯でもあったのであります。

 

また交通目の面から見ましても下関からの幹線鉄道である山陽本線と大阪や東京へ向かう幹線鉄道である東海道本線との結合点が神戸だったのでございます。加えて兵庫県内には、川崎航空機(現・川崎重工業)、川西航空機(現・新明和工業)といった航空機メーカーが存在しておりまして、米軍の格好の爆撃対象となったのであります。

 

八代目甲南大學應援團OB会

團史編纂委員会