前回 の続きでございます。
さて、応援会場での絶えないトラブルへの対応策を検討する本多團長の悩みが本多仁介 翁の耳に入った事により我が應援團親衛隊編成の動きが加速致します。
本多團長のアイデアは奇抜でありまして、今風に言えば「親衛隊業務のアウトソーシング」であります。応援の都度、本多翁配下の精鋭で親衛隊を編成し、プロパー團員は応援業務に集中するという、極めて合理的な分業制でございます。
親衛隊業務も合理化され、本多團長が親衛隊隊長を兼務し、本多翁配下の若者を動員し指揮する訳であります。
先手必勝とばかりに、相手方が50名の勢力ならこちらは100名、相手が100名ならこちらは200名を揃え、圧倒的な兵力と火力で一気に相手方を沈黙せしめる戦法を得意としておりました。
本多翁の配下には28人衆と呼ばれる大幹部を筆頭に実戦経験豊富な精鋭が綺羅星の如くおり、そんな精鋭が本多翁の一声で数千名は集まりましたので、当時の我が應援團親衛隊は極めて高い戦闘能力を保持しておりまして、「百戦して百勝、向かうところ敵なし」と豪語していた程でございます。
【創設期の我が團を支えた本多仁介翁】
当時の我が應援團親衛隊の活躍の場は応援会場に留まらず、広く学生生活の裏方を支える存在でございました。應援團が結成された昭和20年代後半という時代は、まだまだ治安が良いとは言えず、とりわけ我が校は「お坊ちゃん」が多いというのが世間一般の共通認識でありました。
当時はまだ大学生の殆どが詰襟の学生服を着用しており、襟には校章を付けておりますので、どこの学生かは一目瞭然であります。街中で甲南生が歩いておりますと、金品を要求する不逞の輩の餌食になっていたのでございます。
そんな事態を憂慮した本多團長は、被害に遭った学生の相談窓口を設け、可能な限り報復行動に出ておりました。その時にも活躍したのが親衛隊であります。三宮などでは大規模な不良狩りが行われた事もございました。相手が不良学生であれ愚連隊であれチンピラであれ、親衛隊は悉くそれらを制圧したのであります。
不思議なもので1件1件とトラブルを解決していくうちに、甲南生の恐喝被害は激減したのであります。
八代目甲南大學應援團OB会
團史編纂委員会