配偶者の東京出張が来月に予定され、東京の弟とビデオでお喋り。そこへ姪#2登場、更に姪#1、弟が画面から退場して3人でお喋りしているところへ甥も登場。少しして姪#2がお風呂タイムで退場して再登場。エクササイズやストレッチの話題から今年の抱負に始まり人生についてにも渡る、なかなかに深めの時間となりました。
弟とビデオチャットを始めたところからだと2時間半以上。珍しく3姉弟揃っての、それぞれの言葉で語られるあれやこれやに、まずは彼らの仲良し振りや健やかな関係が嬉しくてならず、眩しいばかりの成長にしみじみともなりながら、叶う限りにオトナの本気で考えての思うところを言葉にする時間にもなりました。
「またねーっ!」と画面に向かって手を振って、自分の気持ちや思うところを話してもよいと思えるオトナ、彼らにとって、そんなふうに安心して自分を出せるオトナでいられることができたなら…と切に願いもしたかしら。
そして。
どれほどに望んでも、どれほどの時間と費用と労力とを費やしても子どもを持つことが叶わなかった私たち。それがたまらなく悲しくて切なくてやりきれなかった長い長い時間もありましたし、今でもごくごく稀にチクリと胸に刺さる哀しみもありますが、自分たちに子どもがないからこそ今の私があり、だからこその姪甥と築ける関係や持てる時間もあるのだと知ったことで、子どもを持てなかったという哀しみの中にも小さな光を見るような気持ちになることがあります。
長い長い、傷ついたり失ったりばかりでひとつの実りもなかったように思えた不妊治療の歳月からでさえ、そこを抜けた今振り返れば、それゆえの学びやそれで変わった自分がありますしね。
もちろん、哀しみや切なさを味わうことなくいけるのであればそれに越したことはありませんけれど。
何を幸せだと感じるか、考えるか。
それもまた、個人の経験とそこから生まれる価値観とによるものだと思うフロリダ南端、日曜日。そして、姪×2と甥が、明日も明後日もそのまた先のいつまでも、健康で笑顔に溢れた日々の中にあることを願いつつの「とっても楽しかったわよ、ありがとうね。」