タムさんの家で、軽く朝食をごちそうになったあと──
僕は速攻でタクシーをつかまえて寮へ戻った。
直接会社へ行ってしまってもよかったのだが、
タムさんと一緒に出勤しているところでも見られようものなら…いや、そんな想像はしたくない。
課長やほかのスタッフが何を言うかわからないし、余計な噂の種にもなりかねない。
実際には何もないのに、想像しただけで仕事に集中できなくなる。
だから、一度寮へ戻ることにした。
少しでも「いつも通り」に見せたかったし、余計な詮索をされたくなかったのだ。
頭がガンガンする。
こめかみの奥で脈打つ痛みが、昨夜の自分のだらしなさを容赦なく思い出させる。
完全な朝帰りだ。
情けなさと気まずさが胸の奥で重く沈んでいる。
寮に戻るとー
ちょうどみんなが朝食を食べているところだった。
その光景を見た瞬間、背中に冷たい汗がにじむ。
――ああ、絶対に心配かけた。怒られるかもしれない。
そんな覚悟を決めて、深く頭を下げた。
後藤:後藤です。おはようございます。そして、心配をおかけして大変申し訳ございません。
課長H「ん?心配なんかしてないぞ…」
その言葉があまりにあっさりしていて、逆に胸がざわつく。
後藤:え、そうなんですか…?
工場長「タムさんがちゃんと連絡くれたんだよ。」
後藤:は…?
思わず声が漏れた。
安堵と驚きが一気に押し寄せて、頭の中が一瞬真っ白になる。
どうやら昨日のうちに、タムさんが工場長へ連絡してくれていたらしい。
あのとき、まともに歩くことすらできなかった自分を見て、
タムさんが「近くの自分の家で休ませてはどうか」と提案してくれたという。
そして工場長も、それを快く受け入れてくれたらしい。
胸の奥がじんわり熱くなる。
迷惑をかけた恥ずかしさと、それでも支えてくれた人たちへの感謝が入り混じって、言葉にならない。
工場長「でも、心配してないと言ったら…うそになるかな。」
その言葉に胸がちくりと痛んだ。
迷惑をかけた自覚があるだけに、まっすぐ向けられた気遣いが余計に刺さる。
後藤:……はい。
工場長「朝食は?」
後藤:大丈夫です。タムさんのところでいただきました。
工場長「そうか。…でもな、――」
そこから先は、工場長にしっかりと注意された。
言われることは全部もっともで、反論の余地なんてひとつもない。
逆の立場なら、そりゃ心配するに決まっている。
工場長だけじゃない。みんなが気にかけてくれていたのだ。
タムさんが夜中に工場長へ連絡してくれていたことも、本当にありがたかった。
ここは日本じゃない。
もう子どもじゃないんだから、日本にいたときと同じ感覚で行動してはいけない。
ベトナムに来て早々、気が緩んでいた自分が恥ずかしくなる。
その後、課長が僕だけ寮の規則を“学校の生徒手帳並み”に厳しくして、
門限もきっちり引き締められた。
会社へ向かうバンの中は、なんとも言えない気まずい空気が漂っていた。
けれど会社に着くと、エンジニアのトゥさんやワーカーたちが
いつも通りに接してくれた。
その普通さが、胸に沁みるほどありがたかった。
後藤:……イエスタディ、センキュ、カモンニャ、ありがとう。
昨日の歓迎会のお礼を、僕なりの精一杯の言葉で伝えた。
そういえば今日の夕方、
日本の本社から専務がホーチミンに来るんだった。
昨日のことが専務に知られたら……
また頭が痛くなる。
そこへ――
……ん?
後藤:タ、タムさん……
Tâm「ダイジョウブデスカ? ゴトウサン」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。
迷惑をかけた申し訳なさと、会いに来てくれた安心感が入り混じって、
言葉がうまく出てこない。
後藤:家族に迷惑かけちゃったね。ごめん…
タムさんは、まるで何事もなかったかのように、
いつも通りの優しい表情で微笑んだ。
その自然さが、逆に胸にしみる。
Tâm「メイワク、ナイネ。ダイジョウブデスヨ。」
……ん?
Tâm「ドウカシマシタカ?」
後藤:タ、タムさ…ん……日本語、話せる?
タムさんは少しだけ照れたように笑って、
Tâm「ワタシ、 JLPTノ N2ヲ モッテマスネ。」
後藤: JLPTって日本語能力試験、、それもN2!!
Tâm「ハイ…」
後藤:それって、かなり話せるんじゃ……
Tâm「コウジョウチョウガ、ゴトウサント ハナス トキ、エイゴデ ハナスヨウ イワレテマス…」
後藤:え……
Tâm「エイゴヲ 、リカイシテ ホシイ ト オモイマスヨ…ソレヨリ、アタマ、マダ… イタイデスカ?」
後藤:え、あ、う、うん……そうだね。
それからタムさんは一度事務所へ戻り、
頭を抱えていた僕のところへ、小さな瓶を手にして戻ってきてくれた。
Tâm「スコシ、ニオイマス。デモ、ヨクキクネ。」
そう言って、香水瓶のような容器の蓋を開け、
指先に少しつけて、僕の額にそっと塗ってくれた。
その仕草があまりにも優しくて、思わず息をのむ。
緑色の液体には「風油精」と書いてある。

香港で買ったタイガーバームみたいにスーッとした。
どうやらシンガポール・マレーシア・中国南部の外用オイル (ハッカ油)らしい。
なんにでも効くらしいけど……
二日酔いにも効くのかな。
いや、効いたのは薬だけじゃない。
