トゥイと別れたあと――
夕暮れのあの笑顔が、まだ胸の奥でふわっと灯っている。
……手、離した瞬間の温もり。
いまも指先に残っている気がして…
気づけば、チョロンの覚林寺(ヤック・ラム寺)へ向かう前に歩き回った
あの市場の匂いが、風にまぎれてふっとよみがえった。
……あぁ、ビンタイ市場だ。
トゥイと待ち合わせをした、あの場所。

ビンタイ市場
ホーチミン市内ならベンタイン市場が有名だけど、
チョロンではここが“メインマーケット”。
観光地として定着したベンタインより、値段もわりと安い。
回廊式の市場は1階・2階と続き、
通路からはみ出すほど日用品や化粧品、雑貨がぎっしり。
中庭は広場になっていて、活気がすごい。

✉️トゥイがくれた小さなメモ
Chủ nhật tuần sau, chúng ta hãy hẹn nhau ở chợ Bình Tây nhé.
Ở đó, hãy tìm tôi nhé.
(次の日曜日にビンタイ市場で待ち合わせをしましょう。
そこで、私を探してね。)
あの日、トゥイとハンさんの実家を出る間際、
トゥイがそっと手渡してくれた小さなメモ。
「ビンタイ市場で待ち合わせ」
それだけで、どこで待つかまでは書いてなかった。
でも――僕はすぐにトゥイを見つけた。

Thúy「ヨク、ココガワカッタネ……」
後藤:……うん。中庭にいると思った。

トゥイは、少し照れたようにうつむいた。
“すぐ見つけてほしい”って、きっと思って――
いちばんわかりやすい場所に、
目立つ民族衣装アオザイをそっと羽織って立っていたんだろう。
そしてアンドン市場へ
アンドン市場は、チョロンの中心から少し離れた場所にある。
ビンタイ市場とは対照的で、近代的な建物がまず目を引く。

入り口のエスカレーターは、動いているのを見たことがないくらいで、
今では少し古さを感じる市場になってしまったけれど――
中の売り場はきれいに整っていて、布製品なら何でも揃う。
Thúy「ココデ、マチアワセシテモ、ワタシ…サガスコトデキマスカ?」
後藤:……できるよ。
Thúy「ホント?」
後藤:……本当。ここでかくれんぼしてみる?
Thúy「・・・・・」
トゥイは、ぱっと顔を赤くしてうつむいた。
後藤:ビンタイ市場で、トゥイがどこを見て、何に心を寄せていたのか――
ずっと見てたから。
だから、ここでもきっとすぐ見つけられると思う…
Thúy「……ウン。ゴトウ、スグ…ワタシ、ミツケル。」
安心したように笑うその顔が、なんだか胸にしみた。
そう、そうなんだ、鬼ごっこじゃ捕まえられなかった彼女。
かくれんぼなら、きっと僕は見つけられたと思う。
そんな思いが、トゥイのあの安堵した表情から
ふわっと胸に広がっていった。
市場、マーケットで不安そうに僕を見上げた顔。
覚林寺(ヤック・ラム寺)で見せた、あの穏やかな表情。
両手いっぱいに鳥を放した瞬間の、あの無邪気な笑顔。
……あれらのトゥイの表情は、全部、僕のために見せてくれたものなんだ。
オレンジ色に染まったサイゴンの街を歩きながら、帰り際――
Thúy「ツギ、マタアエルネ。」
後藤:……もちろん。
Thúy「ウン。ゴトウ、マタ、クル。ワタシ、マツ。」
その言葉は、本当は僕が言いたかった言葉だった。
街灯りに照らされたトゥイ。
そこには、いつの間にか少女から大人へと変わった彼女がいた。
後藤:……トゥイ。
Thúy「……ナニ?」
後藤:……今日は、ありがとう。ほんとに。
トゥイは、少しだけ寂しそうに笑った。
そして――今日はずっと、片言の日本語で精いっぱい僕に近づこうとしてくれていた。
その気持ちが、帰り道の空気にまだふわっと残っていた。
その空気を胸いっぱいに吸い込みながら、
僕はゆっくり寮へ戻った。
