ホーチミン――
いや、今ではサイゴンと言ったほうがしっくりくる。

そのサイゴンに来て一年。

部長もここを去り、僕も寮へ戻った。
季節の移ろいを感じることのないこの土地で、
時間だけが、静かに積み重なっていった。


日本のように、夏が来て、秋が深まり、冬が訪れる――
そんな節目がないぶん、
自分の中の“変化”だけが、

季節の代わりを務めているようにも思える。

とはいえ、暑さに甘えて仕事を緩めるわけにはいきません。
ここで働く人たちには、日本のような長い休暇はない。
だからこそ、僕は僕の役割を果たさなければならない。

そんな折、テト(旧正月)の連休に、
日本人スタッフとフーコック島へ出かけた。


ヌォックマムの産地として知られる、
タイ湾に浮かぶ大きな島です。

潮風はやわらかく、海はどこまでも穏やかで、
ホーチミンの喧騒とは別世界のようでした。
テトの最中にも、黙々と手を動かす職人たち、


無邪気に走り回る子どもたち。
その姿を眺めていると、ここに来た目的を曖昧にしたままの自分が、

気づけばふっと恥ずかしくなっていた。


ホーチミンに戻ったとき、
胸の奥にひとつ、静かな芯のようなものが残っていました。
“Made in Vietnam” であっても、
“Made in Japan” と同じ誇りを宿す製品をつくる。
そのために僕はここにいる。
その思いを、改めて確かめる旅になった。

■サイゴン工場の日々


Tâm「ゴトウサン、コレ、ココ、オイテオキマスネ。」

タムさんは、毎日帰り際に僕の机へそっとノートを置いていく。
「オサキニ、シツレイシマス…」
そう言って小さく手を振り、
“タン・ビェッ”ではなく、笑いながら “Mai gặp nhau nhé” と…

一年一緒に働くうちに、
彼女の日本語は驚くほど自然になった。
学校に通ったわけでもなく、
独学でN2の日本語能力試験でここまで身につけたというのだから、
その知性には頭が下がる。

課長が言った。
課長H「最近、ますますきれいになってきたと思わないか…」

台湾からのお客さんも、
アオザイ姿の彼女を褒めていたそうだ。

僕も、そう思う。

エントランスの椅子にちょこんと座っていたタムさんは、
あどけなさの中に、いっそうこの工場を華やかにしていた。


そして課長は言った。

課長H「あのさ、タムさんが帰りに後藤へ渡すあのノート、ちょっと見せてくれないか?」

後藤「課長……」

一拍置いて、僕は小さく首を振った。

後藤「ごめん。
これだけは……ごめん。」

課長H「そうか……」

そのノートは、タムさんと僕の交換日記のようなものだ。
すべて英語で書かれている。
英語が苦手な僕のために、彼女が提案してくれた習慣だった。

寮で英会話を学び、
タムさんから筆記の英語を学び、
ワーカーたちから日常のベトナム語を学び、
トゥイから基礎のベトナム語を教わる。
これ以上ないほど恵まれた環境なのに、
どれも習得に時間がかかっている自分が情けない。

だからこそ、
あのノートを他人に見せるわけにはいかないのだ。
タムさんの日常、好き嫌い、
笑顔の裏にある小さな悩み、
そして――僕への想いが滲む言葉まであるからだ。

■トゥイのこと


課長「でもな、俺には隠さず何でも話してくれよな。トゥイちゃんのことだって…」

課長の不用意な一言に、
胸の奥がざらりと波立った。

誤解はもう解けている。

僕がトゥイと会わなくなったことを課長に相談したとき、
課長はトゥイのお母さんに話してくれた。

それでも、僕はまだ彼女に会えていない。
日本から来ていた彼女のことを、
トゥイには話していなかったからだ。

結局、嘘をついていたことに変わりはない。

会いたくないと言えば嘘になる。
今でも気になる。
同じホーチミンの空気を吸い、
同じ街を歩いているのだから、
避けて通れるはずがない。

それでも、会わないと決めた以上、
戻ってはいけない。
そう思っていた矢先――

課長H「今日、寮の夕食キャンセルして飯でも行くか。」
課長が言う。
後藤:どこへ?


課長「宮廷料理店…」
後藤:……え?


課長「トゥイちゃんの店だよ。」


後藤:……はぁ?

胸の奥で、
何かが静かに揺れた気がした。