本日、最後の出勤の日を迎えていた。

ガイドのチャンさんとの半日ツアーを終えて、
工場へ戻ったあの日から――
気づけば、もう数日が過ぎていた。

あの日、
工場長と帰国の話、新しい事業の説明を終えたあと、
僕は、共に働いてきたワーカーの仲間たちへ
日本へ帰ることを打ち明けた。

その瞬間から、時間は急に速くなった。
ホーチミンの街を流れるバイクの群れのように、
追いかける間もなく過ぎ去っていった。

そして今――
気がつけば、この日を迎えている。

昨日は、ワーカーやエンジニアのみんな、寮のみんなが
僕のために送別会を開いてくれた。
炭火の煙の向こうで揺れる笑顔が、
夜の闇にゆっくり溶けていった。



ささやかなプレゼントと、
あたたかい笑顔と、
忘れられない思い出をもらった。
胸の奥がじんと痛むほどに。

記憶とお酒の余韻……
工場のみんなの寂しそうな顔が、まだ頭の中に漂っている。
そんなまま、最後の出勤の朝を迎えている。

ここはホン・ハーの寮。
毎朝欠かさず見せてくれた、お手伝いさんのやさしい笑顔。
僕のお腹を満たしてくれた、あの温かい朝食。
工場へ向かう車窓から見てきた、見慣れた風景。
耳に馴染んだクラクションの音。
この街の強い日差し。

そのすべてが――今日で終わる。

ベトナムでの日常、風景を、
少し痛いほど胸にかみしめていた。

工場長「後藤君、今日は工場に着いて後片付けをしたら、そのままこの車を自由に使っていいよ。」
朝、工場へ向かう車内で工場長が言った。

工場長「運転手のソンも、今日は後藤君のためにフリーにしてある。」
後藤:……え?

工場長「最後の買い物だってあるだろうし、まだ行きたいところもあるんじゃないか?」
後藤:うん、でも買い物は、もうほとんど済みました。

工場長「そうか……」
後藤:荷物も、部屋にまとめてあります。

課長H「でもまだ、気持ちの荷物のほうは、まとまってないんじゃないのか?」
課長が、ぽつりと言った。

ソンさんが僕の方を見て、
“どこまでも付き合いますよ”とでも言うように、静かにうなずいた。

 

車窓の外では、朝の光がまだ眠そうに街を撫でていた。
その柔らかな光の中で、通い慣れた道が、今日はなぜか帰り道のように遠く感じる。
まるで旅の続きが、まだどこかで呼んでいるみたいに。

 


いつもの道、いつもの場所での渋滞で車が止まると、 
ふと視線の端に、カラフルな衣装をまとった人の姿が映った。 

その鮮やかさが、まだ旅の余韻を引きずる僕の心に、 

ほんの少しだけ温度の違う色を落としていく。

 


そのすぐそばでは、朝早くから路上で髪を切る散髪のおじさんが、
静かな手つきでハサミを動かし、落ちていく髪が風にさらわれていく。

 


道の片隅では、湯気を立てながら朝食を準備する人がいて、
その温かい匂いが車内までほんのり届く気がした。

 


ビルの影は長く伸び、街の色をゆっくり飲み込みながら、
昨日の余韻を静かに片付けていく。
その影の動きが、まるで「もう戻らなきゃいけないよ」と告げているようで、
僕はただ、流れていく景色の中に、
終わりと始まりが触れ合う、ほんの一瞬の切なさを見つめていた。


タントアン工業地区のゲートを過ぎると、車はゆっくり速度を上げた。
この前ここを歩いていたとき、タムさんに声をかけられたのが、
まるで昨日のことのように思い出された。

後藤:……!

後藤:工場長!
工場長「ん? どうした?」

後藤:ウチの作業服を着たワーカー達を見かけないんです。

いつもなら、この道でバイクや自転車通勤するワーカー達を窓越しに見かける。
今日は誰ひとり見えない。
エンジニア達の姿さえない。

北沢「確かに、見かけないな……」
北沢さんが言った。

課長H「そうだな。」
課長も不思議そうにうなづいた。

後藤:……まさか、昨日の今日で全員遅刻なんてこと、ないですよね?
北沢「昨日の酒が残ってるとか?」
後藤:いや、それはないと思います。だって、誰も見かけないなんて…
課長H「我々より早く全員出勤してたら、スコールが来るな。」
北沢「確かに。」
みんなが心の中でうなずいた。

しかし――
工場に着くと、そこには思いもよらない光景が広がっていた。

ワーカー、エンジニア達が工場の外にずらりと並び、
僕らの車を待っていたのだ。

後藤:……え、あ、あれ、、なに、、、工場長…

工場長「あ、あ〜……何をやらかす気なんだ、連中は?」

後藤:知らないんですか? 工場長。
工場長「何にも聞いてないぞ。」

日本人スタッフも誰も知らなかった。

工場長が先に車を降りると、エンジニアのトゥさんが駆け寄り、
工場長に何か耳打ちをしている姿が映った。

……何を話してるんだ?

僕が車を降りると、
トゥさんが集まった全員に向かって声を張り上げた。

Tú「チョウレイ、ハジメマ〜ス!」

はっきりした日本語だった。
課長をはじめ日本人スタッフも、ただ呆然と見つめていた。

部署ごとの朝礼はあるが、
こうして全員が集まって工場の外で朝礼をするなんて、異例だった。
しかも夜勤のメンバーまでいる。

トゥさんが日本語で挨拶を終えると、
僕の方を見て言った。

Tú「ミスターゴトウ、プリーズ……スピーキング!」

……え?

Tú「イエス、スピーキング、プリーズ!」

僕は工場長に助けを求めた。
……こ、これって……

工場長「最後の朝礼だ。みんなが後藤君のために作ったステージだよ。
応じてやらなきゃ失礼だよ。挨拶してやんなよ。」



工場長が背中を押した。

課長H「ほら、がんばれ、後藤。」
課長も静かに言った。

言えない……急に言葉なんて出てこない……
拳をぎゅっと握りしめた。
こういう場面が一番苦手なのだ。

工場長「……ほら、後藤君!」
工場長の声が背中を押す。

僕はゆっくりステージの前に立ち、
飲み込んだ言葉を少しずつほどくように口を開いた。

……Xin cam on……I am truly grateful for everything you have done for me.  
(ありがとう、皆さんがしてくれた……)

知っている限りのベトナム語と英語を織り交ぜながら、
みんなに感謝を伝えた。
トゥイとのベトナム語レッスン、
タムさんとの英語の交換日記――
その積み重ねが、自然と口をついて出た。

しかし、言葉は途中で詰まり、
その先がどうしても出てこなかった。

沈黙が落ちた。

すると突然、
みんなの拍手が湧き上がった。



僕は深く頭を下げた。

後藤:Thank you… truly… for everything. 
(本当に……すべてに、ありがとう。)

心の中でベトナム生活のすべてに「ありがとう」と叫びながら、
ひとりひとりの顔を焼き付けるように、もう一度深く礼をした。

こんなにも胸が熱くなったことは、
生まれて初めてだったかもしれない。
頭を上げられないほど、涙が止まらなかった。

工場長がそばに来て、肩を軽く叩いた。

工場長「おつかれさま。」

そして工場長が、僕の横でみんなに向けて話した。
日本での僕の今後の活躍、
そしてベトナム工場の成長と発展を願っていること。

話が終わり、僕はまた一礼した。

頭を上げると、
花束を持ったタムさんが目の前に立っていた。



Tâm「Thank you… truly.  ……オツカレサマデス……」

後藤:……タムさん、、、ありがとう。
Tâm「イツマデモ、ワタシタチノコト、ワスレナイ……イイデスネ……
ヤクソクデスネ……ワスレナイコト……」

その声が震えて聞こえたのは、
僕の涙のせいだったのか、
タムさんの声が揺れていたのか、
もう分からなかった。

僕はタムさんの顔をまともに見られなかった。
見てしまったら、
きっと心が崩れてしまう気がした。

工場へ入る途中、北沢さんが静かに言った。

北沢「本当に、後藤がうらやましいよ。
知らない間に、こんなにも大勢の心をつかんでいたんだから。」

後藤:……北沢さん、そんなことないですよ。
北沢「このサプライズ朝礼が証明してるじゃないか。」

後藤:うん、そうなのかなぁ……本当に、みんなの心をつかめてたかなぁ…

課長H「それはどうかな。」
後藤:え?
課長H「いつも、手を伸ばせば届く場所にいるのに、
それを躊躇してる後藤がいるんじゃないのか。」

後藤:……課長。

課長H「午後にでもあの娘(こ)に会いに行ってこいよ。手が届くうちに。
俺が後藤に言える、最後のアドバイスだ。」

その言葉が、
胸の奥でゆっくりほどけていった。