一瞬後。
警棒が風を切って、横に払われ―。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180528/23/kon-kon-boox/0d/6e/j/o0607108014200309552.jpg?caw=800)
目をギュウっとつむっていた柏原雅志の耳に、一際大きな悲鳴が聞こえた。
自分の悲鳴だ、殺られたんだ、と思い。けれど、いつまで経っても一向に痛くならないので、恐る恐る目を開けると。
ほんの一メートルあるかないかほどの背後で獣(けもの)の―絶え絶えな―息づかいを感じ。
たまらず、振り返るとそこには。
小型の―とは言っても、犬や猫などの身近にいる人類の古くからの友人達とは、明らかにサイズが違う、大きく見慣れない異形の生物―イノシシが一匹仰向けに寝転がり、四肢を空に向かってバタつかせ。時おり痙攣もしていて。
「―何ボケッとしてんだ!? 逃げるぞ、雅志!」
その大自然の迫力に身動き―や声を上げる事も―出来ず、呆然とするばかりの柏原雅志は、怒号を上げて急かす―初めて見る冷静でない様子の―藤木黎に手を引かれるまま、その場から逃げ。
走って走って走り続け。何度か石につまづき転んだ挙げ句。気がつくと藤木黎におぶられ、彼の背中にしがみつき、例の小高い丘の上まで戻ってきていた。
…ここまで来れば大丈夫だろ、と黎が振り返りながら。
「…こんな夜中に、あんな山奥に入ってくなんて―。正気の沙汰とは思えねえ。
エアガンなんて物騒な物使ってきやがったから、イタズラが過ぎるぞ、ってゲンコツの一つでも落としてやろうと思ってたら、いきなり逃げて…。おまけに、俺が『行くな』って叫んでんのに無視して、イノシシや野生動物がワンサカいるかもしんねえ山奥に飛び込んでくなんて…」
バカだね、お前。マジで一回死んでくれば?、とハアハア息も絶え絶えな様子の藤木黎の毒舌に。
彼の背中から草の上に移動し、ペタリと座り込んだまま静止している雅志は、当分の間返すべき適切な言葉もなく。
ただ、黙って恋敵の男の言葉を聞き続ける。
「夕食に牡丹鍋―シシ肉が出たって事は、その食材になってる動物が身近にウジャウジャいるって事に気づけよ…。人間のテリトリーに迷い込んできたにせよ、結果的には人間(俺ら)の命を脅かしてんだから、駆除されても仕方ねえし、俺らはその命を無駄にしないように、後からありがたくいただいてる、って事を分かってねえから、ウッカリ山奥に入り込んでまた―今度は人間の命を守るために―駆除しなきゃなんねえ事になるんだよ。
これは、人間VS動物のテリトリー争いだから。一触即発の事態になれば、殺るか殺られるかしかねえんだ。野生動物は俺ら人間と違って、見逃してやったからって恩義を感じてくれるワケじゃないからね。逆に『弱い生物』と認識して襲ってくるかもしんない。だから、無駄な殺生したくなきゃ、そうならない―遭遇しない―ように注意しなきゃなんねえの」
「―」
「案の定、お前イノシシに突っ込まれかけてたし。山奥の細い道―『獣道』は、あいつら専用の道路だから、絶対に入っちゃいけねえのに、そこに隠れて落ち着いてるし。
さっきお前見つけて、その背後にイノシシ見た時はゾッとしたよ。ヤベえ、殺られる、って」
『うるさい、分かってるよ!』
あの時。
柏原雅志は咄嗟に立ち上がったおりの自身を凝視してくる恋敵の男の視線に殺気さえ感じ、殺される、と身の危険に震えたのだが。
よくよく聞けば自分自身の背後にいたイノシシに驚き、どうにかして目の前にいる少年を助けなければ、と義務感にかられていただけに過ぎなかった事が分かり。
自身の情けない思い違いに消えたくなった雅志の落ち込みを知ってか知らずか、藤木黎が「…この警棒が役に立ってくれて良かったよ」と息を整えながら、振り返り、話し続ける。
「闘牛みたいに走ってくるイノシシを、お前が襲われる前に一瞬の横払いで仕留めなきゃなんないから、超緊張した…。剣道習ってて良かったよ―。
これ、いいだろ?
俺の友達が作った警棒型スタンガン。…機械イジリが趣味のヤツがいてね。そいつが、綾さんのバイトの送り迎えが出来そうになくて悩んでる俺に、作ってくれたんだ。綾さん用にって。
『彼女が深夜のバイトに行くなら、これ持たせたげなよ』って。
実際、スーパーのバイト、綾さんこれお守り代わりにしてバッグに入れて持って行ってたから。それが条件で深夜のバイトも許可したし。
今回の旅行にも、備えあれば憂いなしで、持ってきてもらってたんだ。何か危ない事があってもいけないからさ。だから、綾さんが寝た後、バッグからコッソリ取り出して、今俺が持ってる、ってワケ」
「…」
「日頃はお手頃サイズなんだけど、イザッて時にガーッって伸びて、その先端にスタンガン機能がついてんの。―ああ、大丈夫。そんな怯えなくても、お前に使った時はちゃんと電源オフにしといたから。あまりのお前の性悪ぶりに、少し脅かしてやろうと思って使っただけだから」
「…性悪、って…」
「性悪だろ? お前は。俺、間違った事、言ってないよ。
何にせよ、便利だよね。機械はうまく使いこなす事さえ出来れば、百人力だよ。使う人間の意識によっては、問題が起きたりもするけど―。
…そろそろ部屋に戻ろうか。俺、もう眠たくて死にそ。宿の出入り口は鍵がかかってたけど、お前、どっから出てきたの? 」
「―窓から」
「木の枝をつたって、か。俺と同じだね」
じゃあ、お前が部屋に戻るのを見届けてから、俺も入るよ―。
丘の上から民宿までの短い道中。風が吹くたびに雲間から月や星の天体が現れ。
けれど、二人の男は星がまたたく夜空を見上げる事もなく黙々と歩き続け。
やがての事に、雅志がためらいがちに口を開く。
「…黎くん…」
「んっ?」
「…いつから、本当は渉じゃなくて俺のが綾ちゃん好きだ、って気づいてた?」
高知にみんなで行った時からだよ、と黎がわずかに星空を眺めながら答える。
「お前の綾さんへのなつき方、普通じゃなかったから。誰にも触らせない、誰とも喋らせたくない―渉の態度とは似て非なる違いがあったからね。
キレイなお姉さんに憧れる―いや、好きでたまらない、子供ってより少年(おとこ)の目。
すぐに分かったよ。どっかで見たような―観察なんかする必要ない、データがなくても断言出来るほどのあからさまな態度。
こいつは俺のライバルだ。子供だからって、油断出来ないって」
「…そっか。とうに見抜かれてたんだね。なのに色々小細工して…、間抜けだな、俺。
…つか、―怒ってないの? 俺の事―、イタズラ好きで嘘つきなクソガキ、殺すぞ、って」
怒ってるよ、と黎があっさりと答え。
「イタズラ好きで嘘つきなクソガキ、殺すぞ、ね…。言い得て妙じゃん。殺してもいい?」
「えっ…」
「って、嘘。お前には嘘つかれっぱなしだったから。これで、おあいこだよ。
―俺は、あいにくお前を殺したいほど怒ってないし、お前なんか殺って大切な将来―これから待ち受けてる薔薇色になるだろう人生を棒に振るほど、酔狂な人間でもねえんだよ。
だいたい、お前には他人(ひと)の人生を狂わせるほどの―そこまでの価値、全然ないから」
「…きつ…」
「ゲンコツもらわなかっただけ、ありがたく思えよ。俺じゃなかったら、お前もっと怖い目にあってるよ。少しは反省しなさい。
まあ…、さっきお前もイノシシ見て腰が抜けそうになって、それなりに罰も受けたみたいだから、もう許してやるよ。
イノシシ、マジすげえ迫力だったな。俺、あんな至近距離で見たの初めてだったから―、正直ビビった」
「俺も…。絶対、ムリ…」
「山奥でヒッソリ暮らしてるっぽいし、まあ、あれぐらいしとけば、人間は恐ろしいから近寄らないでいよう、って認識してくれたかな…。
ねえ、雅志。
これ、守くんに返しといてよ」
と、例の携帯電話をポケットから取り出し。戸惑う雅志へと手渡す。
「…渉や守くんには、お前がした事、謝んなきゃなんねえけど。今夜の―イノシシに遭遇した―事は内緒にしといてやるよ。お前の頭の中でせいぜい、怖かったなあ、って何度もリピればいいじゃん。
…お前のした事は許される事じゃないけど、ほんの少しなら理解出来るし。お前はまだ、大丈夫だよ。全然、大丈夫…」
そこで、藤木黎はなぜか、言い淀み。
ただ、雅志が一言、小さな声で「…ごめんなさい。『死ななきゃ治んねーレベル』で」と謝ったが、聞こえなかったのか何も答えず。
その後、二人は宿に帰るまで一言も口を利かなかった。
柏原雅志は、振り返る事なく数歩先を行く藤木黎を、本田綾の恋人として認めざるを得なかった。悪魔のような禍々しさと、化け物じみた雰囲気を持つ男。そのくせ、綾の前では猫をかぶっているのか、その禍々しさを消し去った上、何食わぬ―慈悲深い―顔で彼女に接している油断ならない男だけれど。本当に悔しいけれど。
それでも。
この男が、綾―従姉を愛しているだろう現状だけは、認めざるを得ない。
『黎くん、お願い…。
黎くんだったらきっと、あのコを救ってあげられる。コーちゃんやミッちゃんをあやす時みたいに、ハトのヒナを助けてあげて』
『―犬と鳥は違うよ。でも、まあ、いいけどね。俺で役に立つなら、喜んで何でもするよ』
『…本当? ありがとう、黎くん。本当に、ありがとう…』
あのハト騒動のおり。
綾に頼まれ、感謝された瞬間の―そっけない返事とは裏腹な心底―嬉しそうな―子供のような素直な―表情に、柏原雅志は自身の目を疑い。しばらく言葉が出なかった。
それはおそらく―愛想はいいが、誰に対しても本心を見せない―藤木黎が滅多に表に出す事はないだろう、と簡単に推測出来るような表情で。
けれど。
一瞬後、暗転し。代わりに濁った眼差しを綾に向けた事に雅志は、再度驚き。
その理由は、すぐに見当がついた。おそらく、いや絶対これだ、と雅志が胸を張って言える理由が。
いや、それより何より。
悪魔でありながら菩薩のように慈悲深く。大人でありながら子供。何ともアンバランスな人間だが、それでも。
この男―藤木黎には、敵わない。あの異形の野生の獣―イノシシから自分を救い出してくれたぐらいなのだから、きっと、これからも彼女―綾が危機に晒されるたび、かけつけ、彼女を助け出すことだろう。
それは、まだまだ子供の自分には不可能な事実で。自身が大人になるまでは、―仕方がない。この男に綾を委ねよう。
そして、自身がいつの日かこの男に追いつく事が出来、それでもまだ綾を好きでいたならば。
その時、改めて戦いを挑む。そんな日が万に一つでも訪れるまでは、綾への想いは封印して。
一方。
藤木黎は。
冴え々えとした月の光の中、歩きながら考え続けていた。自身の過去の経験と照らし合わせ―同じように年上の女を愛した―この子供と彼自身の違いを。
それは似ているようで、わずかに異なった愛し方。
一方は、愛する女に振り向いてもらおうと、周囲を利用し、相手の男に手酷い痛みを与えようとし。
他方は、愛した女を手に入れようと、周囲を利用し愛した女自身を罠にかけ、傷つけようとした。
どちらがより他者―第三者―の理解と共感を得られるかと言えば、前者―柏原雅志―の方であるのは、明らかで。
一般的な人間は、振り向いてもらえなかったから、とは言え、愛する対象自身を傷つける行為になど走らないだろうし、また考えつかない事だろう。
それは、―好意―愛が嫉妬や憎しみにすり変わる―一瞬に芽吹く罪深い感情で。
越えてはならない一線を易々と越えた―普遍的な人間と異なる『怖さ』を抱える―実のところ、先ほどの獣(ケモノ)と何一つ変わらない、異形の姿を隠し持つ自身と比べれば。
『僕は、したくなかったんだ…。なのに、アイツ が―ワタルくんが、…ハトのためならしてやんなきゃ、ってダメだって…。緑色のタオル、持ってこい、って…』
『ワタルくんって、どんなヤツ?』
『髪の毛…、襟足をちょっと結んでる…、ヒョロっとした六年生―』
“―携帯電話に録音させてもらったから”
『―何で』
“うん?”
『何で、そんなの録音して―』
つい先ほど。
ポケットから出したスマートフォンのボタンを押し。数秒の静寂の後。一人の―泣きじゃくる少年の―声が流れ。
暗闇の中、黎自身と対峙していた柏原雅志が声を震わせながら、当然の疑問を呈した時。
藤木黎は、素直なヤツだな、あっさり認めすぎ、と内心吹き出し。そのあっけないほどの―かわいそうで笑えるぐらいの―驚愕ぶりに、も少し無駄な抵抗して俺を楽しませてよ、と願い、物足りなさすら感じていた。
あんなにあっけなく“自供”し始めるのならば、最後の逃げ場を塞ぐ―切り札となる―メールの罠(トラップ)なんか全くいらなかったな、と苦笑してしまったぐらい。
―仮に同じような事が、彼の子供時代に起こった、として。
彼自身ならば、それほどに早く電話の内容を認めたりはしない。しらばっくれるだけしらばっくれて、それでも知らないを押し通し、無理だと分かれば誰でもいいから、犠牲となる理屈に合う子羊を選び出し、その哀れな誰かに責任転嫁をなすりつけた事だろう。
その後、犠牲となった子羊が未来を失おうがどうなろうが、彼の知った事ではないから。
そんな過去の自身と照らし合わせるにつけ。
『お前はまだ、大丈夫だよ。全然、大丈夫…』
『死ななきゃ治んねーレベル…』
までじゃあない、って言いたかったんだけどね。あいつは、大丈夫。まだ、全然やり直せる―。と。
傍にいる少年のしでかした事など、全く許される範囲の可愛らしい話じゃないか、と。
藤木黎は一人自嘲するのだった。
to be continued