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「コモンズ」とは-アイヌ民族と対等になるために

小宮朗 2008/02/20
「アイヌ民族の文化遺産・自然遺産について」と題するセミナーが東京のアイヌ文化交流センター開かれ、アイヌ民族博物館の学芸員・野本正博さんと、チコロナイの森を買い取り植林を行っている貝澤耕一さんが講演をし、活発な討論も行われました。


 2007年12月1日、先住民族とコモンズ公開セミナー「アイヌ民族の文化遺産・自然遺産について」 (主催:先住民族に関する首都圏ネットワーク)が、東京八重洲にあるアイヌ文化交流センターで行われました。40名ほどが参加し、熱気に包まれました。

 このセミナーは、昨年2月から続く「先住民族とコモンズ」と題した連続学習会の一環です。「コモンズ」とは、文化的遺産、伝統的知識や自然遺産を含む共有の「財産」のことです。しかし、このような日本語で考えた場合、「財産」は「形ある物」に限定されてしまうし、「遺産」は「亡くなった方が残したもの」といった意味合いが強く、この場合の「コモンズ」にうまく対応する言葉が日本語にはありません。

 つまり、「コモンズ」とは、そういった「形ある物」や「受け継がれてきたもの」だけでなく、「無形のもの」や「受け継がれたものが発展したもの」あるいは「これから発展するもの」をも含む包括的な概念なのです。では、アイヌ民族にとっての「コモンズ」とは何なのでしょうか。 (以下は講演の内容と、それについての感想です)

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博物館における観光とアイヌ文化
 まず、野本正博さん(アイヌ民族博物館 ・学芸員)による講演「博物館における観光とアイヌ文化」では、北海道白老にあるアイヌ民族博物館(ポロトコタン)の位置づけと、そこでの取り組みについての話がされました。

 ポロトコタンがつくられた当初(1976年)の目的は、観光収入による経済的自立でした。これにより博物館が建てられ、アイヌ民族自身によるアイヌ文化の収集・保存、研究が可能となりました。それまでアイヌ文化の研究をしていたのはほとんどが他民族の研究者。いつも「見られる側」であったアイヌ民族が、自分たちの文化を「見る側」に変わったのです。

 しかし、このような取り組みが行われていたのはごく一部の話、それ以外の場では、抑圧者であるヤマト民族にとって都合の良いものだけが「アイヌ文化」とされてきました。アイヌ文化振興法はその最たる例です。この法律では、「アイヌ文化」が、定められた枠組みで分断されてしまっています。また、ヤマト民族だけでなく、アイヌ民族自身もそのような枠組みに縛られ、アイヌ文化を発展させてつくられたような新しいものは、まだ受け入れられない傾向にあるそうです。以前アイヌ民族の工芸家の作品を展示した際、伝統的な作品は集まりが良かったけれど、斬新な作品を集めるのにとても苦労したとのことでした。

 このことは、基礎がしっかりしていなければ、応用までは至らない、ということだと思います。それほどアイヌ文化はダメージを受けているのです。最近では、お祭りの講演内容をアイヌ民族自身が選択するなど、アイヌ民族の自己決定の場が少しずつ広がりつつあるそうです。このようにアイヌ民族が自らの力でアイヌ文化を伝えるようになれば、発展的なものも生まれてくると思います。

 それから、博物館では1年のテーマを決めて、アイヌ文化の実践に取り組んでいるそうです。今年のテーマは「船」。参考とするモデル(資料として残っているものの中から選択)を決め、森に入って木を選び、船底の位置まで考えてから木を切り、船を形成し、川に浮かべ、祈りを捧げる。この一連の流れの中には、歴史、知恵、技術、宗教、すべてが含まれています。このように、断片ではなく総合的なアイヌ文化の実践を通じ、「船」という形ある物だけでなく、その周辺にある、エカシやフチの知恵、アイヌ語など無形のものも大切にしていきたいそうです。このようなことの積み重ねがアイヌ民族の「コモンズ」になっていくのだろうと感じました。

アイヌ文化の保全、再生、継承
 つぎの貝澤耕一さん (NPOナショナルトラスト・チコロナイ理事長)による講演「沙流川流域におけるアイヌ文化の保全、再生、継承」では、たくさんの写真を見ながら、その活動についての話がされました。

 NPOナショナルトラスト・チコロナイでは、20ヘクタールほどある土地(チコロナイの森)を買い取り、植林を行っています。貝沢さんの言葉を借りれば、「自然空間は文化装置」。開拓による森の伐採は、アイヌ文化の伝承の場を奪いました。以前のアイヌ民族が文化を育んできたような北海道らしい森が残っているところは、今はもうほとんどないそうです。元来の北海道の森は、育つのに長い時間のかかる広葉樹の森で、再生には200~300年かかるとのこと。「本当はそこで育つ木が自然に出てくるのを待ちたいが、しょうがないので木を植える」という言葉が印象的でした。

 また、これらの話の中で、アイヌ民族に癒しを求めてやってくるヤマト民族のひとびとの話題が出ました。これに対するコメントで、今自分の住んでいるところから1歩出て、外地に癒しを求めるのはまさに帝国主義的である、といった話や、先住民族は「自然に優しく、みんなに優しいひとびと(?)」ということが強調されている部分があるが、先住民族のトータルな文化の中に自然保護の要素が入っているのであって、その部分だけを強調した偏った見方をするのはおかしい、といった話があり、私もその通りだと思いました。このようなことは、先住民族の問題を考える上で避けて通ることのできない話題であると思うので、自戒も含め、ここに記しておきます。

白老・二風谷から~イオルと今後の展開
 そして、野本さん・貝澤さんお2人による「アイヌの伝統的生活空間(イオル)再生事業をめぐって~白老・二風谷から」では、イオルと今後の展開についての話がされました。

 イオル再生事業とは、国の新しい施策の1つで、すでに白老で先行的な取り組みが行われています。これに対する中間報告がこの9月にありましたが、その内容は「壮大なスケール観に欠ける(土地が狭いから当たり前)」「即時利用が困難(木を植えたばかりなので当たり前)」といったものでした。

 イオルはこの先7つ(白老、平取、札幌、旭川、静内、十勝、釧路)の設置が検討されていますが、白老なら海・川、平取なら森林など、その地域にあった在り方であること、そして、地域同士のネットワークを築くことが重要になってきます。

 イオル再生事業の問題点としては、特定の財源がないこと、アイヌ文化の権利をアイヌ民族自身が有していないことなどがあげられます。財源がなくて事業が続けられるのか?空間だけが再生されればそれで良いのか? このへんのことを今後よく考えていかなければ、何のためのイオルなのか、わからなくなってしまいます。

 それぞれの第1線で活躍する方と話ができる機会ということもあり、質疑応答及び会場との議論では、いろいろな話題が出ていました。

国有林の利用について
 会場から、国有林を利用できれば良いのに、といった意見が出され、貝澤さんより、一部では利用しているが、申請から許可が出るまでに3ヶ月もかかる、といったお話がありました。このような役所の体質、どうにかならないのかなぁと思います。

今の日本の学校教育とアイヌ民族の学校について
 会場から質問が出て、貝澤さんより、日本国籍をもっているのに、アイヌ民族の子どもたちが自らの歴史や文化について学ぶ機会がないのは差別だが、学校でアイヌ民族の歴史や文化についてまともに教えられるような教員がいないこともまた事実であり、せめて文部省認定の教科書に一定の割合できちんと記載されることが望まれる、といったお話がありました。

 また、アイヌ民族の学校については、学校は欲しいけれど、維持をするのに莫大なお金がかかる、しかし、国によるアイヌ民族の位置づけがはっきりしていないので、お金を出す企業などもない、まずは国がアイヌ民族を認めることが先決だ、といったお話がありました。

 教育とは、「文化を使った個人の発達の支援である」ということを学生時代、教育学の授業で習いました。だとすれば文化を奪われたことは教育的に見ても、かなりの痛手である、ということが言えると思います。

次世代の育成について
 野本さんから、残念ながら現在、「個人の自由が確保されなければ、文化の担い手になれない」といった現実があり、今アイヌのことをやっている若者も、結婚など状況が変われば、続けていけるかわからない。そこでアイヌ文化を担うことを強制することはできないといったお話がありました。しかし、担い手になりたいと思った時に、アイヌ文化が残っていなければ、担い手にはなれないので、文化の繋がりはきちんと残し、担い手になりたいと思った時に利用できるようなシステムをつくりたい、とのことでした。これが、最初にあった博物館での取り組みに繋がっているのだと思います。

文化を分断してしまう「縛り」について
 野本さんから、アイヌ文化祭では一様に皆着物を着て踊りを踊る、民族博物館の展示はどこも同じで、最初チセがあり、民具が展示され、現在のことは少ししか紹介されていない、アイヌ文化は明治以降の変容が認められておらず、このような「一部のアイヌ文化」をアイヌ文化のすべてとしてしまう傾向が、和人にもアイヌ民族にもある、といったお話もありました。

 また、コメンテーター(上村英明・市民外交センター代表)からは、これらのことを日本文化で考えてみると異様なことで、日本人は、江戸時代の展示を見たからといって、日本人が今もちょんまげをしているとは考えないし、地域によって違いがあることも、博物館の中だけではなく、生活の中に文化が根付いていることもわかっているが、ことアイヌ文化となると、同じような目線で見ることができない、といった指摘がありました。

 さらに両者より、これはアイヌ文化が長くヤマト民族によって規定されてきたからで、民具が収集された時代のアイヌがいいアイヌ、有名な伝承者のすることが正しいアイヌ文化、博物館に展示されているアイヌ文化が本当のアイヌ文化で、それ以外はアイヌ文化でないといった誤った認識があるからである、といったお話がありました。

 違いを認めることは、多様性を認めることや変化を認めることと相反することではないのに、このへんのことがどこか対極のように扱われていて、うまい具合にバランスがとれておらず、このことがいろいろなことがうまくいかない原因のような気がします。

洞爺湖サミットとの関わりについて
 野本さんからは、まず、白老町としては各国首相の妻たち(ファーストレディー)を呼ぶという計画があるようですが、博物館としては修学旅行生の多い時期にサミットのためだけに博物館で特別に何かをするということは今のところ考えていないし、若い人たちから何か動きが出てくれば協力するが年長者から押し付けてやらせるつもりはない、とのことでした。

 また、今回のサミットに関しては、「一部の人たちの間での動きという印象」といった話も出ました。貝沢さんからは、この機会をうまく利用して世界のマスコミに日本の先住民族のことを訴えられればいいとは思っている、といった話がありました。

 洞爺湖サミットは、先住民族アイヌの土地である北海道で開かれるサミットなのにも関わらず、当のアイヌ民族を置き去りにしている、この国の在り方について考えてしまいました。また同時にアイヌ民族に関わる運動の在り方(新法制定以前はアイヌ民族全体の運動として盛り上がっていたのに、新法制定以降アイヌ民族が分断されてしまったような印象を受ける)についても考えてしまいました。

オーストラリアで労働党が勝利したことについて
 直接の影響はないが、国連の先住民族に関する動きで進展があるかもしれない、といった話が出ました。ここではこれ以上のことは書きませんが、善きにせよ悪しきにせよ、時の政権によって状況が変わってしまうということも、先住民族が被抑圧者であるがゆえなのだと思います。

「和人」または「ヤマト民族」という言葉について
 コメンテーターより、これまで、アイヌ民族と対になる概念として「和人」という言葉を使ってきたが、「和人」とは実は北海道の道南地域に入っていったヤマト系の人々を指す言葉であるので、最近は意識的に「ヤマト民族」という言葉を使うようにしている、というお話がありました。アイヌ民族に対して「日本人」という言い方をすることもできますが、日本人の民族的概念は曖昧であり、「日本国籍を持っている人」とイコールで使われることもあるので、これもアイヌ民族と対になる言葉として使うことは適切ではありません。

 いずれにせよ、確かにこのような概念的にしっかりしていない言葉を使っていたのでは、私たちはいつまでたってもアイヌ民族と平等になることができません。このようなことからも、アイヌ民族と対になる概念として「ヤマト『民族』」という言葉を使い、自分たちは「ヤマト民族」なのだと自覚し、その上で歴史の反省と、現在の不平等を考えることが大事であると思います。この記事では、迷いながらも「ヤマト民族」という言葉を使いました。

 会場からは「自分たちは地球市民だから民族など関係ないのでは?」といった趣旨の発言があり、それを巡っていろんな意見が出ました。
 
 私個人としては、野本さんの言った「ではなぜ差別がなくならないのか」という一言にはっとさせられました。また、会場の別の人から出た「現在も差別を受けているアイヌ民族を目の前に、自分は地球市民で民族など関係ないと言うことは、現状を無視しており、暴力的である」という意見に共感しました。そして、アイヌ民族に対して少なからず関心を持つ人が集まるこのような場所ですら、こういった発言が繰り返されることに、アイヌ民族の苦労と、同じヤマト民族として憤りを感じました。

社会でどのようなシステムをどのようにつくっていくのか
 私たちがアイヌ民族と対等な関係になるためには、対個人としてではなく、対集団としての態度が必要になってきます。つまり、一人ひとりの心がけに頼るのではなく、この社会でどのようなシステムをどのようにつくっていくのか、ということが重要です。アイヌ文化とは何か、十分議論されないまま、文化振興法が制定されて早くも10年、「コモンズ」がそのキーワードの1つとなることは間違いないでしょう。