あなたの名誉のために、あなたの名はここで明かさずに申し上げましょう。
私はあなたのブログに二度とコメントを書かないとお約束しました。
だから自分のブログで書いています。
あなたは私の鏡です。
私があなたの記事に、コメントは残さずともたびたび訪れているのと同じように、
あなたもまた私のブログに密かに訪問しているだろうことは、
私が出した記事に呼応するようにあなたが記事をアップすることから推定できます。
私は確かに統一協会を批判しています。
それは聖書を、キリストの福音を歪めているからであり、
キリスト教徒として見過ごすことが出来ないからです。
私は統一原理そのものに異議をとなえます。
しかし元々ひたむきに、神を求めようとする赤ん坊のような純粋さのゆえに、
あたかも本当の神にみせかけた、本当の神ではないものに迷わされ惑わされてしまったひとりひとりの方々に、
悲しみの気持ちを覚えるんです。
そのせっかくの心根のよさや、熱心さが、
本当の神でないものに向けられているのを本当に残念に、ふがいなく思っているんです。
あなたの祈りの言葉には、
いい意味での楽観や安らぎがないんです。
もっと努力しなきゃ、
もっと熱心に信仰しなきゃ、
もっと悔い改めなきゃ、
と常に自分に何かを言い聞かせるような悲壮感に満ちていて、
ちっとも幸せそうじゃないんですよ。
のんきにしてるキリスト教徒がいようものなら、『イエス様に「十字架につけてごめんなさい」も言わない、イエス様の救いにあぐらをかいた不信仰者』と言わんばかりじゃないですか。
どうしてあなたはキリスト教徒とおっしゃりながら、
何かキリスト教徒を目の敵にするような言い方をするんだろうとずっと疑問だったんです。
そしてご自分を正しいものとする割には、
ご自分は、人から異端者と蔑まれる運命を負っている、とおっしゃる。
イエス・キリストも迫害されたから、
真実をいう自分も迫害される、
という言い分で懸命にご自分を保っていらっしゃるのです。
あなたは以前の私のコメントに
「あなたは単なる批判ではなく、思いがある」という主旨のお返事をくれましたね。
あなたは、「私は言葉の裏にある心を見抜く」とおっしゃいましたよね。
私はあなたのブログに二度とコメントを書かないとお約束しました。
だから自分のブログで書いています。
あなたは私の鏡です。
私があなたの記事に、コメントは残さずともたびたび訪れているのと同じように、
あなたもまた私のブログに密かに訪問しているだろうことは、
私が出した記事に呼応するようにあなたが記事をアップすることから推定できます。
私は確かに統一協会を批判しています。
それは聖書を、キリストの福音を歪めているからであり、
キリスト教徒として見過ごすことが出来ないからです。
私は統一原理そのものに異議をとなえます。
しかし元々ひたむきに、神を求めようとする赤ん坊のような純粋さのゆえに、
あたかも本当の神にみせかけた、本当の神ではないものに迷わされ惑わされてしまったひとりひとりの方々に、
悲しみの気持ちを覚えるんです。
そのせっかくの心根のよさや、熱心さが、
本当の神でないものに向けられているのを本当に残念に、ふがいなく思っているんです。
あなたの祈りの言葉には、
いい意味での楽観や安らぎがないんです。
もっと努力しなきゃ、
もっと熱心に信仰しなきゃ、
もっと悔い改めなきゃ、
と常に自分に何かを言い聞かせるような悲壮感に満ちていて、
ちっとも幸せそうじゃないんですよ。
のんきにしてるキリスト教徒がいようものなら、『イエス様に「十字架につけてごめんなさい」も言わない、イエス様の救いにあぐらをかいた不信仰者』と言わんばかりじゃないですか。
どうしてあなたはキリスト教徒とおっしゃりながら、
何かキリスト教徒を目の敵にするような言い方をするんだろうとずっと疑問だったんです。
そしてご自分を正しいものとする割には、
ご自分は、人から異端者と蔑まれる運命を負っている、とおっしゃる。
イエス・キリストも迫害されたから、
真実をいう自分も迫害される、
という言い分で懸命にご自分を保っていらっしゃるのです。
あなたは以前の私のコメントに
「あなたは単なる批判ではなく、思いがある」という主旨のお返事をくれましたね。
あなたは、「私は言葉の裏にある心を見抜く」とおっしゃいましたよね。