の後、

阪急芦屋川駅に向かいました🚶







のんきに川を見ているが、この時、

この男は、まだ気づいていない……



お前が行こうとしている喫茶店は、





阪急芦屋川駅、
ではなく、

お前がさっきまでいた
JR芦屋駅
だということを………。






いや、
妻にパンが美味しい
芦屋の喫茶店の話を聞きましておいで

わかった、行ってみる👍

てね………




全然、👍やないし。

完全に
「阪急芦屋川駅」と思い込んでたという😅


スマホで検索もせず
ただただ、ここまで歩く、というね。
(平和なやつでございます🐾)


↓現実に気づいた瞬間です。



楽しみにしていただけに、空腹感……真顔

て、仰いだ空。


さらに、
この男は、まだ気づいていない……





空から、
刀を持った男に、流し目されていたことを。






冗談はさておき、

この日は、なんか気になり、

ちょくちょく、空を撮りました📷️💦





喫茶店 → 芦屋神社
の予定が、
芦屋神社 → 喫茶店
に。

こういう時は、
こっちから行った方がよかった

と思うようにしている、
負けず嫌いねー


でも、川と空が、気持ちよし🐾
でした。




ぐだぐだなスタートですが、


「明石」
「ホツマツタヱ」
「柿本人麿」


私的に勝手な歴史妄想、
を歩くシリーズ🌀🚶


本日も、スタート。






江戸時代に万葉集を研究された
賀茂真淵、契沖。

柿本人麿は、若くて官位は低い (六位以下)

という解釈をされています。




理由の一つは、
柿本人麿、その人の名が、
正史に全く記されていないこと。

そして、もう一つは、
万葉集、最期の歌、の前に記された、
――――――――――――――――――――――
柿本朝臣人麿、石見国に在りて、
死に臨みし時、自ら傷みて作れる歌一首
――――――――――――――――――――――

「死に臨みし時」の部分。

死去に関して律令で、
三位以上は薨、
四位と五位は卒、
六位以下は死
と表記することとなっていた、らしく、

このことによるのだとか。





「水底の歌」の梅原猛さんは、
これに対して、こう考えます。

柿本人麿は、罪人となり、
変名されて、国史に記載された、

と。




注目したのは、

日本書紀、
681年、小錦下の位になった
柿本臣猨(さる)という人。

続日本紀、
708年、従四位下で卒した
柿本朝臣佐留(さる)という人。


柿本人麿(ひとまろ) → 柿本猨(さる)
「ヒト」 → 「サル」

に変えられた、
と書かれています。





梅原猛さんは、
持統天皇が変えられたのでは、
とされていますが、

「はじめてのホツマツタヱ」
の今村聰夫さんは、
藤原不比等によるものでは、
と書かれています。



柿本人麿が流罪、
罪人になったとされるのは、701年。

持統天皇が崩御されるのも、701年。

それを考えると、自分も、
藤原不比等の影響の方が、
大きいようにように思います。

持統天皇に
そんなことを嘲る体力があっただろうか、
というのと、後の古事記・日本書紀に関わる記載となると、藤原不比等の影響の方が、
と考えてしまいます。





梅原猛さんは、
変名だけではないと書かれています。

柿本人麿は、

708年、戊申(つちのえさる)、申年(さるどし)

申(さる)年に、
柿本臣猨(さる)が
去る(さる)

という企みの中、水死刑にされたのでは、
と書かれています。





しかし、皮肉なもので、

藤原不比等、
自身が亡くなるのは、その一巡り後の申年。

720年、庚申(かのえさる)、申年(さるどし)。

しかもこの年、大きな地震があったり、
大蔵省の蔵での音鳴り騒動をはじめ、
数々の変事が重なったそうで、

元明上皇もこの翌年亡くなられ、

まわりは、
「さる」の怨霊に震えたのだとか。






菅原道真が、
神として祀られたこと、

少なからず、このことが
関係しているのではないでしょうか。


903年、菅原道真が亡くなられた後、
変事が重なり、
923年、右大臣に復し、正二位が贈られています。

それでも、まだ、
930年、清涼殿の落雷、醍醐天皇の崩御。
と続き、
947年、北野天満宮に、神として祀られます。





藤原氏が台頭し、繁栄していくと同時に
これら怨霊に対する信仰も語り継がれ、

菅原道真は、
復権、さらに、神として祀られた

のかなと。





それは、

柿本人麿の時にも、
あったのではないでしょうか。





まだまだ、藤原氏の世の中、
国史を変えるとはいかないまでも、

誰もが認める、人麿の歌。

歌の世、歌集の中だけでも、
その名を語り継ごう、

と。




平城天皇の時代、

753年、「第一次万葉集」
万葉集、巻一・巻二において、
柿本人麿の鎮魂を目的に撰集され、


醍醐天皇の時代、

905年、「古今和歌集」
勅撰和歌集において、
柿本人麿の復権を目的として残された

のではないでしょうか。






「古今和歌集」

醍醐天皇の命で編纂され、
905年に奏上された日本最古の勅撰和歌集。
(なんか歴史の時間に出てきた🤔)

仮名で書かれた、仮名序
漢文で書かれた、真名序

があります。




その真名序の中で、

柿本人麿は、「柿本大夫」

として記されています。
(復権されています☝️)




そして、

真名序の中で、

もう一人、
同じく「大夫」の官位で、

それまで登場しなかった詠み人、
柿本人麿と同じく、謎の多い方、

が記されています🤔




その方の
神社とお墓が、
こちら、芦屋神社の境内に。





猿丸大夫を祀る神社。

そして、
猿丸大夫の墓。


猿丸大夫の末裔が
この辺りにいたそうです。






百人一首(五番)
猿丸大夫
―――――――――――――――――――――
奥山に  紅葉踏みわけ  鳴く鹿の  
声きく時ぞ  秋は悲しき
―――――――――――――――――――――




猿丸大夫、
実在したかもわからない歌人🌀
として語り継がれています。

柿本大夫
と、関係はあるのでしょうか。



私のよく参拝している柿本神社。
その山を、人丸山、と呼び、
その町は、人丸町、といいます。

猿丸大夫

猿にされた人丸、

どうなんでしょうか。



梅原猛さんは、
同一人物として、推察されています。




柿本人麿、

さらに、古今和歌集、

仮名序において、

歌の 「ひじり(聖)」 と記されています。
(神として崇められています☝️)





同じく、仮名序に

「人麿は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」


柿本人麿は、山辺赤人より上に立つのは間違いないが、その下に立つのは、山辺赤人しかいないだろう。


柿本人麿を讃えながら、
山辺赤人も唯一の歌人としています。



百人一首、
一番、天智天皇
二番、持統天皇
三番、柿本人麿
四番、山辺赤人


五番、猿丸大夫
六番、大伴家持

と続きます。

大伴家持は、
万葉集の編纂に関わった方。






ちなみに、菅原道真は

百人一首、二十四番です。

菅家、という名で。




百人一首(二十四番)
菅家
―――――――――――――――――――――
このたびは  幣もとりあへず  手向山 
紅葉のにしき 神のまにまに
―――――――――――――――――――――




芦屋神社、
御祭神、天穂日命。

菅原道真は、
天穂日命の末裔、と云われていて

芦屋神社は、
阿保天神社の山の上にあります。




そして、この神社のさらに山側、
六甲山の山頂。



そこには、
天穂日命の磐座、

と云われる磐座があります。





ちなみに、ちなみに、
ホツマツタヱは、

大神神社の若宮社に祀られる
オオタタネコの氏族により

景行天皇に奉呈された
全てが、五七調で記された叙事詩。




もしかしたら
古今和歌集、万葉集、より前の
最も古い歌集なのかもしれません。


柿本人麿、
菅原道真、
歌集


今回は、そんな歴史妄想😌
でした。











📝追記

行きたかった喫茶店。
「ユーカリ」さん。

たどり着いたえーん




自分でカスタムできるサンドイッチに。

↓↓このバターとパン、美味しかった笑い泣き

ほんのり柚子を感じる💡



スクランブルエッグのバターの風味も✨


お店はゴージャスな時計台の
すぐそばでした💦

スタート地点やないか~い👋











お読み頂きありがとうございます🌳