行政法判例なう。
重い。行政法の判例は、量が多く、非常に重く感じる。同じ公法の憲法の倍はあるだろう。
まぁ、でも、判例をやっていると、ただ暗記に頼っていた知識がより定着する、というのは感じる。択一対策ならば必要ないんだが、他肢選択式では、判例を知らないと手も足も出ない問題もあり、そういうのは避けたい。知ってるのに対応できない、というのは本当にもどかしい気持ちになるので。
時間対効果はさほど良くはないのかもしれないが、行政法という主要科目の判例なので無駄の度合いは低いかなと思っている。もしかしたら記述式で出るかもしれない。もちろん、択一対策として考えても前に比べて"より落とさない選択"ができそうだ。
あと二ヶ月くらいだが、これを続ければかなりの効果が期待できる。
さて、次は民法なり。(・_・;
まぁ、でも、判例をやっていると、ただ暗記に頼っていた知識がより定着する、というのは感じる。択一対策ならば必要ないんだが、他肢選択式では、判例を知らないと手も足も出ない問題もあり、そういうのは避けたい。知ってるのに対応できない、というのは本当にもどかしい気持ちになるので。
時間対効果はさほど良くはないのかもしれないが、行政法という主要科目の判例なので無駄の度合いは低いかなと思っている。もしかしたら記述式で出るかもしれない。もちろん、択一対策として考えても前に比べて"より落とさない選択"ができそうだ。
あと二ヶ月くらいだが、これを続ければかなりの効果が期待できる。
さて、次は民法なり。(・_・;
新司法試験の合格発表日
そういえば、今日は新司法試験の合格発表だとか。北海道のロースクールからは約60人くら いが合格したらしい。
落ちた人で、受験資格を失った人が千人くらいだっけか。多分、司法書士や行政書士試験に流れるか、国家公務員を受けるか、もしくはまだ未定か、まぁ、色々いると思う。
個人的には、司法書士を受けるのがいいと強く思う。それは、試験科目がかなりかぶっているからだ。新司法試験組はほぼ、登記法だけをやればいいという状態。今からでも間に合うだろう。
せっかく身につけた法律の知識、無駄にしてはもったいない。
落ちた人で、受験資格を失った人が千人くらいだっけか。多分、司法書士や行政書士試験に流れるか、国家公務員を受けるか、もしくはまだ未定か、まぁ、色々いると思う。
個人的には、司法書士を受けるのがいいと強く思う。それは、試験科目がかなりかぶっているからだ。新司法試験組はほぼ、登記法だけをやればいいという状態。今からでも間に合うだろう。
せっかく身につけた法律の知識、無駄にしてはもったいない。
英語は必要か?
例えば、行政書士の業務には外国人の入管業務の申請だっけか、その手続きの代行もできるわけで。それをメインにやっていく場合は、相手が外国人なわけだから、英語というのは勉強しなければいけないとは思う。
これからの日本はグローバル化が必須で、外国人を相手に商売をする、そのために英語は必須だ、というのも今や当たり前のように叫ばれている。
ただ、それをみんながみんなやった場合、そこには過当競争が生まれるわけで、そこに自分が参入することには相当なリスクがあることを考慮して、覚悟してやらなければいけないだろうとも思う。
しかも、英語ができる、という意味は、英文法がわかる、ではない。
論理的に物事を考えて、それを英語を通じて相手に伝える、という意味である。だから、そもそも論として、論理的に物事を考えることができ、アイデアが満載で、とかっていう、"デキル人間"になってることが前提条件なのだ。英語ができるだけ、であれば、アメリカ人なら誰でもいいのか、子供でもいいのか、となってしまう。そうではないだろう。
だがそこを分からず英語さえできればいい、と勘違いしてる雰囲気が非常に強い。学校教育がその良い例。中学や高校みたいな英語教育を小学校からやったって、まるで意味がないのだ。英語を使えるようにするならば、英語を使わなければ、絶対に使えるようにならないわけで。
これからは、学校教育をただ受けただけの子供と、積極的に塾やら海外留学やらにいった子供とで、英語ができる人とできない人の差は本格的に二極化するだろうな、と思う。
さて、そんな大変な英語を勉強する前に、国内にもまだまだやらなければいけないことはあるし、行政書士業務でもできることはたくさんあるはずだ。それこそ、相続関係は需要は増えていくわけだし、産業廃棄物関係、自然エネルギー関係だって、これから増えていくだろう。ペット関係もそうだし、まぁ、色々あるわけで。
国内でもまだまだやれることはあるのに、苦手な英語を"必要だから"という根拠もよく分からずに周り流されて勉強する、というのは危ない気がする。ちょっと立ち止まって、自分には本当に必要なのか?と考えることも大事な作業ではないか、と思いましたよ、と。
これからの日本はグローバル化が必須で、外国人を相手に商売をする、そのために英語は必須だ、というのも今や当たり前のように叫ばれている。
ただ、それをみんながみんなやった場合、そこには過当競争が生まれるわけで、そこに自分が参入することには相当なリスクがあることを考慮して、覚悟してやらなければいけないだろうとも思う。
しかも、英語ができる、という意味は、英文法がわかる、ではない。
論理的に物事を考えて、それを英語を通じて相手に伝える、という意味である。だから、そもそも論として、論理的に物事を考えることができ、アイデアが満載で、とかっていう、"デキル人間"になってることが前提条件なのだ。英語ができるだけ、であれば、アメリカ人なら誰でもいいのか、子供でもいいのか、となってしまう。そうではないだろう。
だがそこを分からず英語さえできればいい、と勘違いしてる雰囲気が非常に強い。学校教育がその良い例。中学や高校みたいな英語教育を小学校からやったって、まるで意味がないのだ。英語を使えるようにするならば、英語を使わなければ、絶対に使えるようにならないわけで。
これからは、学校教育をただ受けただけの子供と、積極的に塾やら海外留学やらにいった子供とで、英語ができる人とできない人の差は本格的に二極化するだろうな、と思う。
さて、そんな大変な英語を勉強する前に、国内にもまだまだやらなければいけないことはあるし、行政書士業務でもできることはたくさんあるはずだ。それこそ、相続関係は需要は増えていくわけだし、産業廃棄物関係、自然エネルギー関係だって、これから増えていくだろう。ペット関係もそうだし、まぁ、色々あるわけで。
国内でもまだまだやれることはあるのに、苦手な英語を"必要だから"という根拠もよく分からずに周り流されて勉強する、というのは危ない気がする。ちょっと立ち止まって、自分には本当に必要なのか?と考えることも大事な作業ではないか、と思いましたよ、と。
民法の判例を読込み中
前に買った司法書士試験の民法過去問の答えに載ってる判例を使って民法の
判例を適度に読み込んでいる。判例の勉強は択一と記述式の、両方の対策になるからいい。それに、ほとんど知ってる判例だらけで、あまり苦労もしないのだが、そこは記述式対策を意識し、ある程度文章も覚えるようにしている。深入りはしない程度に。
あまり深くいくとまたこんがらがる。この時期にこんがらがると致命的。それは避けねば。
判例の勉強をやって、択一の正解率がまた上がった気がする。民法は条文だけでなく判例も必要だと改めて実感した。
判例を適度に読み込んでいる。判例の勉強は択一と記述式の、両方の対策になるからいい。それに、ほとんど知ってる判例だらけで、あまり苦労もしないのだが、そこは記述式対策を意識し、ある程度文章も覚えるようにしている。深入りはしない程度に。
あまり深くいくとまたこんがらがる。この時期にこんがらがると致命的。それは避けねば。
判例の勉強をやって、択一の正解率がまた上がった気がする。民法は条文だけでなく判例も必要だと改めて実感した。
他者との比較は楽しい?!
最近、脱力感がある。それも、他者と比較してるから、他人を見て自 分をしっかりみていないから、という、それだけのことで、頭では理解してるし、比較しないこともできないわけではない。
だが、そうもなかなかできないわけで。それが人間の難しいところかと思う。いや、やろうと思えばできるんだが、もう少し他者と自分を比較する、ということをしていたい自分もいたりして。なんか、よく分からないな。。
他者と比較することは、もちろんメリットもデメリットもある。そこをしっかりと知った上で、上手くモチベーションをコントロールするためにあえて比較する、というのは、今の自分にはいいことだと思っている。
時に強い脱力感を感じる代わりに、モチベーション維持を持続させているという、トレードオフでやっているのだ。最終的に脱力感が勝るか、モチベーションが勝るか、という綱渡り的ではあるが、今はこれが最適だ。
比較対象が存在するおかけでモチベーション維持ができているのはいいことだが、対象の存在が大き過ぎれば、到底適わないレベルなのではないか、というプレッシャーに近い感情も入ってきたりすると、けっこう辛かったりもする。
だが、そこは、自分には絶対できる、という強い意志との闘いでもあり、そういう自分をどこか楽しんでいる節もあり、これが癖になったりするのだ。
だが、そうもなかなかできないわけで。それが人間の難しいところかと思う。いや、やろうと思えばできるんだが、もう少し他者と自分を比較する、ということをしていたい自分もいたりして。なんか、よく分からないな。。
他者と比較することは、もちろんメリットもデメリットもある。そこをしっかりと知った上で、上手くモチベーションをコントロールするためにあえて比較する、というのは、今の自分にはいいことだと思っている。
時に強い脱力感を感じる代わりに、モチベーション維持を持続させているという、トレードオフでやっているのだ。最終的に脱力感が勝るか、モチベーションが勝るか、という綱渡り的ではあるが、今はこれが最適だ。
比較対象が存在するおかけでモチベーション維持ができているのはいいことだが、対象の存在が大き過ぎれば、到底適わないレベルなのではないか、というプレッシャーに近い感情も入ってきたりすると、けっこう辛かったりもする。
だが、そこは、自分には絶対できる、という強い意志との闘いでもあり、そういう自分をどこか楽しんでいる節もあり、これが癖になったりするのだ。