いじめやセクハラについての話 | 米の心

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ジャニーズの性被害の話題がずっと続いていますね。個人的には、この問題は業界全体の問題だと思いますし、ジャニーズだけがどうなれがいいとかそういう話ではないとは思うのですが、ちょっとテレビ関係者の発言などがネット上などにあがっていて思うのは、そこでされる表現のこと。セクハラ被害という表現が使われるんですよね。

まぁ確かにセクハラ被害ではあるんですが、実際のところはセクハラというよりは性被害者が出ており、レイプなどといった犯罪行為であるという認識の方が正しいのではないかなと思います。

にも関わらず、テレビ関係者がセクハラという表現を使っているのは、事件、起きたことへの認識の甘さなのか、あるいは、強い表現をしないことによって問題を軽く見せようとしているのかどちらかなのか、結局は問題そのものを解決しよう、自分たちがどう変わっていこうではなく、この先のジャニーズの関係者との繋がりも意識しての発言のようなものが感じられるのは残念というか、世間とのズレというのを感じるところかもしれません。

まぁそのジャニーズについても事務所名を変えるだとか、事務所にお金を落とさずに所属しているメンバーに直接お金が行くようにするだとか、それははっきりいって自分たちが生きるためにどうやろうかということを後手後手にやっているに過ぎず、このところの動きでそもそも根本的な問題である少年に対して性加害をしたということに対してどうであるかということへの動きというのを見せていない以上、国際社会的に認められる状況とはすでに言えないような印象を受けます。

それでも生ぬるい日本でガラパゴスケータイのごとく生き延びるかもしれませんが。

さて、セクハラという言葉についてですが、性的嫌がらせともいわれるこれについては、    悪質な場合においては刑法などで裁かれるという話になります。よって、刑法にかかる水準でないという認識がされればそれはその組織内での判断での処分となります。

セクハラそのものについては広義的なところがありますので、そうなってしまうのは仕方がないのかもしれません。しかし、そのセクハラという言葉の広義性というのが今回のジャニーズの事件のテレビ関係者の発言に現れているように問題の重大さを軽くしようとしている表現のごとく使われているというのもまた確かなところです。

言葉遊びではありませんが、この手の言葉による表現、印象操作なところもある上で、よりその言葉がもつ重みがより強くなければならいのかなという気がしますね。

例えばセクハラにしても、上述のように重い処罰の場合は刑法に対象となり得ますが、そうではない場合は、組織内の処分程度ですので、いってみれば認識の違いとか、つい魔が差してとかその程度の認識で問題が解決されてしまう傾向が出てしまいます。つまりは、その行為をした加害者側に反省が十分ではなく、罪を犯したとはおそらく思わないケースが出てくるというわけです。

ちょっとやらかしてしまったな、くらいの認識とでもいうのでしょうか。

確かに、罰金なり懲戒処分なりを受け、相応の処分に対して社会的な制裁があるのかもしれませんが、それでもなお、本質的に自分の行動に犯罪意識がないがゆえに、納得しない、あるいは、被害者に対して不満が残るというケースも出てしまうわけです。

そうなるのはセクハラという行為そのものが、悪いこととはされていても、その重みというところの認識レベルが低いからであり、その低い認識というのを上げていく必要性というのを個人的には感じるところですね。

例えばそれはいじめなどでも同じではないでしょうか。

いじめは犯罪行為とされるケースもありますが、ハラスメントとされることもあります。犯罪認識された場合はそれ相応の性分がされるかもしれませんが、犯罪とされるには学校関係者もそれを認める必要があり、重い処分をする必要があるために、よほどの形で明るみにならなければなかなかそのような思い処分とはならず、ハラスメント程度と扱われることも多い印象を受けます。

そしてハラスメントと見なされるのであれば、当初は口頭注意くらいの軽い処分で処理されることも多いのではないでしょうか。

いじめの場合、実際いじめをしている側は、それをしている認識がないということはよく耳にするところです。ただいじっているつもりだったくらいの認識とでもいうのでしょうか。

まぁ、このいじめられている側といじめている側で認識が違うというのは、セクハラなどのハラスメントといった行為ともある意味では共通するところがあるかもしれません。

ただ、そういうグレーなゾーンとされるところがあるがゆえに、その行為の重さへの認識を弱めている印象があります。

いじめが悪いという教育はしばしばされますが、いじめていた側はそれを得意げにする人すらいます。まぁ昔やんちゃしてましたよアピールとでもいうのでしょうか。陽キャアピールとでもいうのでしょうか。

つまりはそう認識する程度にしか、いじめというものを重いものだと認識していない人もいるというのが事実なところです。

万引きなんかもそうですね。明らかにこれは軽犯罪なわけですが、万引きが青少年時代のやんちゃアピール、仲間内でのポジションを確保するために行われる行為というケースは少なからずあるように思います。

それは軽犯罪という表現もされるように犯罪として軽いものであり、逆にその程度の犯罪であればどうにでもなるという認識がその犯罪を行うハードルを下げているというのもまた確かなことかもしれません。

もちろん、そこで罰則などを強化するというのも一つの手かもしれません。しかし、例えばいじめなどを見ても実際にそれが刑事処分されるほどに重く認識されるまでに至るばかりとは限らないわけです。

そのあたり、言葉が隠れ蓑になってしまっているという問題についてはどうにかした方がいいのではないかなという印象がありますね。

そして、そういう隠れ蓑にしてはならないという中で、それをしたテレビ関係者というところはやはり根元的に問題があるように感じるところではありますね。刑事罰化となっていない以上セクハラという表現になるのかもしれませんが、それはあまりに日和見な表現になってしまっているのかなと思ってしまう側面があるのは確かなところです。