政治と宗教 | 米の心

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安倍元総理がなくなったことにより、山上徹也容疑者が母親の統一教会との関係性などの発言もあったことから、政治と宗教、統一教会との関係性などについてクローズアップされる記事が増えているように感じますね。

安倍さんについては国葬にするべきかどうかみたいな話も出ていますが、この点については結局のところ政治利用としてどうであるかというところでしかないかなと思うので、それが国益につながるのであればやればいいのではというくらいの認識でしかありません。

ただ、薄暗い話などもいろいろと解決されたわけではないので、国葬をするにしろ、英雄視ではないですが、安倍さんのことを単純に褒め称えて、薄暗いところはなかったことにするというようなことが正しいかというのはわかりません。まぁ、その辺りこそジャーナリズムを掲げるような人が行動すればいいのではとも思います。

そもそも政治家という人たちで清廉潔白、薄暗いところがないという人が一体どれほどいるであろうかという話でもあったりします。というよりはそもそも彼らにも求められるのはその行動がどのような利益をもたらすのかということにすぎません。その意味で言えば、たとえ賄賂をもらっていた誰か、政治家がいたとしても、それによりより国家、その地域にとってより良い結果が生まれるのであればそれはアリだと考えています。

清廉潔白さを求めるというのは、単純に賄賂をもらえる立場への嫉妬的なところもどこかあるのかなという気もします。

まぁですから薄暗いところがあってもその政治家としての行動、政策が有用であるものであったかというところで評価されるべきかなという話にもなりそうです。それについても人それぞれ考えるところがあるでしょうから、素晴らしい業績であるととらえる人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。だからこそ、国葬どうのというのも議論になるのかもしれません。

さて、政治と宗教の話についてですが、これについて分離すべきという考え方も当然あるものとして、一方でそこの分離をするというのは基本的には難しいと個人的には考えてます。海外の政党だと政党名にキリスト教などの名前も入っているものもありますし、公民党などもモロに宗教との絡みが強いですね。

なぜ分離をできないのかといえば、正直に言えば、だれがどの政党に入れるかというところについては自由であるからです。統一教会であるから選挙権がないという話にはなりません。となると、自由意志という名の下であれば、どのような宗教的思想があろうとも選挙に参加できるわけです。

そして、個人間の付き合いについても、宗教上のことを理由に付き合いを禁じるということも難しいかと言えます。もちろん、その宗教がテロ組織と一般的に認知されているなどであればべつかもしれませんが、反社と付き合うなどといったことであったりしないかぎり、政治家といえども付き合いそのものは否定していいのかという話になります。

一方で、それぞれがつながることについてはメリットがあります。宗教は規模に応じた信者を抱えていますから、それが自分のたちの党に投票してくれれば選挙で有利になるからです。公明党が一定技数を安定してとれるのもこれが理由ですよね。

別にこのような繋がりというのは宗教に限った話ではありません。特定の団体会員はどこそこの党に入れることを求められるというのは聞く話であったりします。政党が政党の立場を有利にし、そのために議員数を確保するために、利害の一致で宗教や団体などの一定の投票数を確保するために繋がりを持つというのは当然にある話と言えます。

一方で、その団体はそれをもって保護、自分たちの行動がよりやすいようにとなるわけですね。

これは、前述のように表現上は、自由意志という形であればそのような繋がりを持つことを否定するのは難しいかと思います。ゆえに、宗教と政治の分離は難しく、ある種の宗教団体などは政治家の保護下になりやすいということにもなります。

また、これは一度関係ができてしまうと、その関係を壊すというのも難しくなります。それだけの投票数、議員数の確保に貢献してくれているのであれば、そこに膿があろうともそれを吐き出すというのは議員数を落とすリスクを受け入れる必要があるからです。

また特定の政党を支持している団体側からしもそれを変えるのは、保護してくれる人たちがいなくなるともなりますし、かといって他の政党にうまく鞍替えができるかというのも簡単ではありません。今は自民党一強ですから、よけい鞍替えするにもどこにすればともなるわけですね。

ただ、今回のような事件が起きたということは、嫌が応にもそのことは注目されるようになります。そしてメディアなども報道するのであれば、統一教会、現世界平和統一家庭連合も、自民党もまたある程度の対応というのは求められる可能性もありそうですね。

(まぁ、個人的にはどこの政党とどの宗教も繋がる可能性はあるわけですが、朝鮮半島を土壌としたキリスト教の亜流とが繋がるのはどうだろなという気もしますが。別に統一教会と関係があるのは自民党だけではないですけどね)

統一教会に限らず、宗教と政治家の関わりというのは正直なところ排斥するのは難しいかと思います。また、そもそも新興宗教であれそれがまともであるかどうかの基準を示すというのは非常に困難かと思います。客観性の証明をする必要があるからです。しかしながら、宗教的ものに対してどこからどこまでを客観的に受け入れられるものとするかは難しいかと思います。より一般的に普及しているカトリックなどのキリスト教の教えすら、一部については今の時代の考え方には合わないところがあります。またキリスト教の特定宗派の考え方が正しいとするならば、それ以外の宗派、あるいは宗教の考え方は正しくないとなるでしょうか?

哲学的な要素もあっての話ですが、そこらは結局のところ教えに対して矛盾があるかないかという話にもなるかもしれません。そして、そうなるとその宗教はおかしいということを客観的に証明するというのはやはり難しいのかなという風に感じます。

今回のことも山上容疑者の家庭崩壊の原因が統一教会にあったにせよ、その責任どこにどうあるかというのは簡単な話ではありません。例えば統一教会のトップはそのような非道なことはしていないと否定してしっぽ切りをしてしまえば、そこに携わったその部署の誰かが問題のある人間だったということで片付けることも可能かもしれません。組織的に逸脱した行為としてそれを行なっていたということを証明するのもまた、難しいように思います。

信じるものは救われるということは、その上では真にしか哲学上なり得ません。それが偽でとなる時点て信じるものではないからです。また、信じているのに救われていないというのであればそれは本当に信じていないといわれたそれに対しての答えというのを持ち合わせているような人は多くはいないでしょうし、それに答えられる人ならば冷静にその現状を判断できるということにもなります。

周りが信じているかはまた別の話です。

なので宗教というのは厄介なところがあるのですが、上述のように信じることで救われている誰かがいるのであれば、それは宗教としての役割を果たしているともいうことできます。

この辺り非常に難しい話ですが、今回のことがあり、たとえ統一教会に何かしらのダメージがあるような話になっても、他もあるわけで結局現状の何かが変わっていくということにはおそらくならないように思いますね。