私、ジャスミンこと江戸紫のキウイは、のどかな田舎に生まれ育ち、様々な苦難辛苦を味わいながらも、心豊かに光と愛と、日々様々な楽しく、笑いあり、怒りあり、悲しみあり、憎しみあり、時には笑い、時には、落ち込み、時には、幸せな大変豊かな少女時代を過ごしてきました。
父方の祖父は裁判所の調査官をしておりましたが、家では、口数の少ない眼鏡をかけた物静かな、痩せたおじいちゃんでした。おばあちゃんは割とふくよかで、いつも着物を着ていた主婦でしたが、遊びに行くと、小さな台所には小さな鍋とフライパンとやかんだけがあり、とても小さな台所なのに、家族6人分そして、嫁や孫も含めて13人分の食事をそこで作って出してくれたのは今でも不思議でなりません。
おばあちゃんの父親は高校の先生で社会を教えていました。
その昔のおじいちゃんも先生でした。
先生と言っても江戸時代ですので、武士をしながらの先生で、当時、江戸幕府と明治政府が戦い、薩長同盟が結ばれ、それに対抗するように会津の白虎隊が江戸に討ち入りするそんな時代に生きていた人たちです。
世の中の人は自分の先祖にそんなことがあろうとも知らず、また、知ろうともしない中、江戸紫のキウイのお母さんは、江戸紫のキウイが子供の頃から、自分の先祖の歴史や親族の中の出来事、夫の家族や先祖について、何度も何度も江戸紫のキウイに話してくれたものでした。
江戸紫のキウイが大好きだった話の中にはお母さんの子供の頃の話で、お母さんがまだ小学校に入る前にお兄ちゃんにお母さんに会いたいよ と言って、お兄ちゃんを困らせ、お兄ちゃんは亡くな妹よ 妹よ泣くな と
その時代にはやった歌を歌って、お母さんをなだめ、泣き止まない妹をそりに乗せ、母親の働いている小学校に連れて行ってくれたのでした。
ところが、母親は職員会議中で、後者の下に置いてあった薪に乗って教室をのぞくとたまたま、母親に見つかってしまい、なぜ来た?来るな。仕事中だから着たらだめだぞ。かえれ。
という顔つきでにらめつけるのでした。
お兄ちゃんはみっちゃん隠れて。
と合図をして、服を引っ張るのですが、お母さんは母親の姿や顔を見たくて窓にしがみついてみて、母親の来るな。
という表情に頭を引っ込めて、また、お兄ちゃんが引くそりに乗って帰った。という話が大好きで何度も聞いてしまうのです。
そして、そのお兄さんがやがて大きくなり今でいう大学には入らず、牛を飼い、小さな小屋を建て、鶏を飼い、夜は星を眺めながらギターを弾いて姉やまだ、小さかったお母さんに麦踏をさせたこと。
そして、夏には全国から、色んなお客様が来て、星や宇宙、天体、化学、未来のこと、農業のこと、色んなことをお客様と話し、語り合い、家の鶏をつぶしてラーメンを作ってふるまったこと。
そして、兄さんの人柄はその地域の開拓者の若者の心をわしづかみにするほど魅力的で、心が豊かで、楽しい人柄であったことから、多くの若者がお兄ちゃんのことを好きにならずにはいられないほどの人柄だった話。
昔、戦後何もない大草原の小さな開拓の家にテレビがあったのも不思議で、当時、テレビを見に多くの若者がいえにあつまってきた。
何故テレビが買えたのかというと、飼っていた牛を一頭売り、それでテレビを買ったり、当時、人気俳優の物まねをして、エレキギターを片手に大きな牧草の塊に腰を掛け弾き語りをして、一日の作業の終わりに楽しく歌ったり、飲んだりしながら、開拓を楽しみ、若者たちとの交流をだいじにしていた、そんな話を聞くのが本当に面白くてたまらないのです。
これが、作り事ではなく実際に合った話なのだからさらに、好奇心がわいてくるというものなのです。
江戸紫のキウイが家を離れて数年して、また故郷に遊びに行ったときに、近所をめぐってみるとあるアパートの角に小屋があって、なんとなくのぞいてみると、そこには一等の黒毛の和牛が買われていました。
そこらへんは、民家も多く、牧場などないところなのに、牛を飼ってる人がいるんだと思っただけで、とても不思議な気持ちになり、親近感が芽生えました。
しばらく、ずっと見ていると、その牛の飼い主が寄ってきて、誰だ?と声をかけられました。
そこで、私の叔父も昔牛を飼っていましたが、もう何十年も昔です。私の叔父の名前はりょうさいと言って、本当に牛の大好きな人だったと母から聞いています。
ですから、こうして牛を見るときっと叔父のりょうさいは懐かしいだろうと思ってみていました。
と話すと、その老人はなんと良妻の友達だったのです。
りょうさいとは友達で、本当によく遊んだもんだ。
りょうさいには本当にお世話になった。
と話してくれ、その老人がりょうさいのことをとても親しげに語るのを嬉しく思いながら、ああ、本当にりょうさいは生きていたんだな、みんなに親しまれていたんだな。と感じることができました。
そのりょうさいのことをお母さんが話すとき、兄さんはよく、
ねえ、お母さん、みっちゃんってここらへんで、一致版かわいいよね。お嫁さんにするならみっちゃんと結婚するよ
と、おかあさんにも話すぐらい妹のみっちゃんつまり私のお母さんのことが大好きなのでした。
お母さんはそのことを何度も話してくれるので、私もその話が大好きになりました。
また、お母さんは母親に何か踊れ、と言われて、学校で習ってきた歌に振り付けをして家族の前で踊ると、おばあちゃんは水子は本当にかわいいなあ。
ととてもほめてくれるのです、だから、お母さんはもっとほめられたくて歌たり踊ったり、そして、家の手伝いをしたりと、ほめられると嬉しくて、家のことは何でも積極的にこなしたそうです。
そして5年生になると、家庭科の時間に着物を作りましょうと、先生から言われ、家で、着物を作ってくるようにという宿題で、
お母さんは、着物の袖や前身ごろの芯をつける常世など、難しいところになると、母親の着物をほどいて、どうなっているのかを見て、同じように縫って学校にもっていったそうです。
すると、ある時、母親も学校の先生をしていたし、姉も学校の先生をしていましたから、担任の先生が姉に、みっちゃんの着物の宿題は誰がやったの?
さちこ、お前が縫って持たせたのか?
と 母親に言われたのですが、彼女はそんなの、知らないので、知らないよ。と答えたそうです。
そして、母親は、担任の先生にあれは子供の宿題ですから、歌子先生がいくら母親だからって、手伝わないでください。
と叱られたそうです。
でも、母親は、仕事で忙しくてそんなことをしてる暇もなく、誰が着物を塗ったのかわからなかったそうです。
それで、本人に聞きました。
瑞子、お前の着物の宿題で担任の先生からおしかりを受けました。着物の宿題を手伝わないようにと言われたんだけれども、一体誰に手伝ってもらったの?
と言われたお母さんは、
それ、私が縫ったんだよ。
と答えました。
おばあちゃんはびっくりして、どうやって、縫ったの?本当に瑞子が縫ったの?と聞きなおしました
お母さんは、
そう。お母さんの着物をほどいて、どうなってるのかな?と思ってみたら、こうなっていて、同じように縫ったの。
だって、お母さんもみんな仕事に行って、誰も教えてくれないでしょ。だから自分で縫ったんだよ。
そういいました。
江戸紫のきういですら5年生で着物を縫えって言われたら縫えないのに、自分のお母さんが5年生で、一人で、着物を本当に縫ってちゃんと学校にもっていったこと。そして、その出来栄えが、大人が縫ったのと同じようで、誰が見ても子供が縫ったとは思われない出来栄えだったこと。
それを聞いて、また、私はお母さんのその着物のお話が大好きになりました。
それから、何年もして、もう年老いた江戸紫のキウイのお母さんとお姉さんの幸子が二人で、過ごしてるとき、
姉のさっちゃんが、お母さんに言いました、
ねえ、みっちゃん。昔母さんがみっちゃんが学校で着物の宿題があって、それを幸子が手伝ったんじゃないかって、言われて、私、そんなの知らないよ。って答えたんだけど、
あれって、誰かに手伝ってもらったの?どうしたの?
と当時から、もう70年後の話ですが、二人はその時のことを話していました。
みっちゃんは、あれは自分でやったんだよ。お母さんの着物をほどいて、どうなってるのかを見て、難しかったから、見ながら同じように縫ったんだよ。そういえば、母さんにも同じことを言われたけど、どうしたの?
と話したんだと、お母さんは江戸紫のキウイにはなしてくれました。
何故、このはなしがすきかというと、江戸紫のキウイのお母さんとお母さんのお姉さんがとても仲良く話している情景が目に浮かんで、姉妹同士が仲良く七ス姿を思い浮かべるだけで心が温かくなるからなんです。
そして、江戸紫のキウイのお母さんはとても正直な人であること、とても賢くて、器用な人であること。
分からなかったら工夫して何とかやり切ったり、問題を乗り越えることが出いる人だとわかるからです。
時々、人ってわからないことや難しいことがあるとあきらめたりするけど、私のお母さんは困ったときにどうしたらいいかを考えて、ちゃんと宿題ややらなければならないことを期日までにやるんです。
それも、とても上手に。
だから、この話を書いたり、読んだり、思い出すとき、人は必ずできる方法があって、子供でもやり方がわかればなんだってできるってことを理解させてもらえるので、希望が持てます。
だから、この話をお母さんから聞くのが好きなんです
江戸紫のキウイはできることとできないことの差がとても激しくてとても不器用だったり、みんながたまにイライラするようなことがよくあるんです。
で祖その原因が私にはあまりわからないので、私もみんなも困ってしまうから、仕事が長く続かないんです。
それで、今、いろんな仕事を探しているんだけれど、私の娘が言いました。
お母さん、お母さんは書くことが上手だから、芥川賞とか直木賞に応募してみたら?
物語を書いてみてよ。
といったのです。
私に何が書けるのか本当にわからないのですが、あまりにも娘から何か書いて、お母さんの書くものがとても面白いから。
そういわれて、それじゃあ、何か書いてみようかな
と思い、今こうして書いている次第です。
だから、小説を書くことを習ったわけではないので、文章もまとめられないのですが、心に出てくる言葉をとにかく書いて書いて、書きまくる。
そして、いつか、これが、誰かの目に留まり、心に留まり
認めてもらえるようになるなら、とてもうれしいことだし、喜ばしいことだなと思うのです。
そして、これが、本になる日が来ることを願っています。
障がい者になっても、できることはまだまだある。
それを娘が後押しをしてくれた。
これが、生きるってことだと思います。
これが、いきるよろこび。
本当に娘を生んでよかった。
そして、結婚して、子供ができて、よかった。
こんな私でも結婚してくれた主人に感謝してます。
私の色んな弱さで今は一緒に生活するのは難しいのですが。
でも、いつか、物語や文学、小説。歴史、カルチャーなどを書いてそれをみんなが楽しんでもらえるように、
これから本を読みたいと思います。
ぜひ、よろしくお願いします。
よき娘たちに恵まれ、