駐車場はありました。自動車は10台以上は停められそうです。
こちらの神社の由緒は以下通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。
「群馬県佐波郡境町下渕名の旧郷社。延喜式内社。祭神は大国主命・日葉酢媛命 渟葉田瓊入媛命・罔象女命・素盞鳴命。例祭は10月22日で獅子舞の奉納がある。7月25日には神輿渡御がある。
垂仁天皇朝に丹波国から勧請したと伝える。
五護宮・第五姫明神と称し、国内神名帳に従一位と記される。
淵名三十六郷の総鎮守となる。」
群馬県神社庁伊勢崎佐波支部著「伊勢崎佐波の神社誌」よると次の通りです。
「延喜式神名帳に『上野国大國神社』、上野国神名帳に『従一位大國神社』と記されるのが当社である。
縁起によれば、第十一代垂仁天皇の九年(約ニ千年程前)四月より天候不順で大干魃が続いたために、疫病が流行り人蓄共に大半が死亡したという。これを深く憂い給いた天皇は、諸国の名神に祈雨のため奉幣し、東国には奉幣使として百済の車臨を遣わした。垂仁天皇十一年九月、その車臨が当地に来て老松の樹下に一夜の宿をとった。翌朝、前の池で手を洗う白髪頭の翁を見つけ名を尋ねると、『吾は大国主命なり。』と答えた。それを聞いた車臨は、『私は疫病平癒と降雨祈願のために、天皇の勅を奉じて遣わされた奉幣使です。どうか国家の大難をお救いください。』と嘆願した。翁は『よし、よし。』と答えるやいなや、その姿は立ち消え、しばらくすると巽(東南)の方角から風が吹き始め、雨が降り始めた。この降雨のおかげで草木は蘇生して五穀豊穣となり、疫病もおさまった。天皇は車臨を賞して左大臣の位を授けると共に、当地を下賜して大国主命を奉斎せしめた。
同十五年九月、丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して配祀神とした。その後、称徳天皇の御代の神護景雲元年(767)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位釆女が、大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として当社の社殿を修造した。
光格天皇の文化元年(1804)現在の社殿に改築し、明治七年には熊谷県北第十六第区の佐位・那波両郡四十二ヶ村の郷社に列せられた。さらに、同四十年三月二十五日、無格社御手洗神社、八坂神社を合祀して今日に至る。
【古老の伝説】
当神社は古くは五護之宮、五后之宮とも称され、また第五姫大明神と世俗に言われているのは、垂仁天皇の十五年九月、丹波国穴太郷より日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)・淳葉田瓊入媛命(ぬはたにいりひめのみこと)・真砥野姫命(まとのひめのみけと)・薊瓊入媛命(あざみにいりひめのみこと)・竹野媛命(たかのひめのみこと)の五姫の宮を奉遷して配祀神としたためと伝えられ、『第五姫大明神』と書かれた古い額面が現存している。」
普段は無住の神社になります。延喜式内社なのに残念ですが1月1日に参拝した折、社務所には氏子さんが詰めていました。
一の鳥居になります。
二の鳥居
社殿
主祭神は「大国主命」、配祀神は「日葉酢媛命 淳葉田瓊入媛命 真砥野姫命 薊瓊入媛命 竹野媛命 罔象女命 素盞鳴命」になる。
五護之宮や五后之宮と呼ばれたのは「日葉酢媛命 淳葉田瓊入媛命 真砥野姫命 薊瓊入媛命 竹野媛命」の五姫を祀ったからとも言われている。
上野國五宮を「若伊香保神社」とするか、こちらの「大國神社」とするかどうなのだろうか?
参道左には天満宮が鎮座をしていた。社号額には「渕名天満宮」と揮毫されている。
こちらの渕名天満宮の由緒は次の通りです。
「天満宮
祭神 菅原道真公
平安前期の貴族学者。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、醍醐天皇の時、右大臣となったが894年(寛平六年)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議し、廃止。901年(延喜一年)藤原時平の讒言により太宰権師(従三位相当)に左遷され九州に流される。
九州にあっても忠義は少しも変わることなく、無実の罪は必ずはれる時がくるに違いないと確信しつつ 903年(延喜三年)2月死去した。時に59歳であった。
死後、種々の怪異が現れたため御霊として北野天満宮に祀られ、のち天神様・学問の神様として尊崇される。(845〜903)
渕名天満宮 は昭和五十七年7月社殿を建設し遷宮鎮座した。
菅原道真公の右手に持った笏には、学力・体力・努力と記されている。
文武両道、又何事も努力が第一の教えである。」
どうも菅原道真公の生涯のみの説明で、肝心の渕名天満宮の由緒ではない。詳細は不明なのであろう。
浅間神社
御朱印は、社務所にて頂きました。御朱印代は500円。
神社名:大國神社(おおくにじんじゃ)
鎮座地:群馬県伊勢崎市境下渕名2827番地
主祭神:大国主命
配祀神:日葉酢媛命 淳葉田瓊入媛命 真砥野姫命 薊瓊入媛命 竹野媛命 罔象女命 素盞鳴命
社格等:延喜式内社 上野国五宮 旧郷社