浜口首相狙撃事件後の国会で国立公園法は成立した | 国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

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[国立公園鉄道の探索]

浜口首相狙撃事件後の国会で国立公園法は成立した

 

 

東京駅 9番10番線ホーム直下の地下通路には、重苦しい昭和前期の記憶が遺されています。

 

 

 

 

階段を下りて、東京駅中央連絡通路に進みます。

郵便ポストの向こう側の柱面に浜口雄幸首相遭難の概要が記されたプレートが掲げられ、その前の床面に遭難現場を示す印があります。

 

 

 

 

 

1930(昭和5)年11月14日、浜口雄幸総理大臣は、天皇統監の下岡山県で行われた陸軍大演習陪観のため東京駅午前9時発の特急「つばめ」に乗車しようとしていた時、午前8時58分、暴徒によって銃撃されました。

 

碑文には、

かけつけた医師により応急手当が行われ、東京帝国大学医学部付属病院で手術を受け、一時は快方に向かったが翌昭和6年8月26日に死亡したこと。

犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、ロンドン軍縮条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行に及んだことなどが記されています。

 

 

 

 

 

丸の中に六角形の印があり、その直上部が遭難現場である、といわれています。

当時は東京駅第4ホームで、その後改修工事により今は東海道線の9番10番ホームとなっています。

遭難番場は、このホームの8号車乗り場付近とみられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10番線から宇都宮線から東海道線に直通する各駅停車の電車が出発しました。

 

浜口首相が遭難当日乗車予定であった特急「つばめ」は、事件の前月・昭和5年10月から運行開始され、流線型C53蒸気機関車が牽引、最高時速95km/hを誇り、超特急と呼ばれていました。

 

 

 

 

田中義一内閣総辞職後に成立した浜口雄幸内閣は、周知のとおり、「国際協調」「財政規律」「軍縮平和」が標榜されました。

さらに内政においてもリベラルな政策実現が目指されました。

 

しかしながら、浜口首相狙撃事件の後開かれた第59回帝国議会(1930 昭和5年12月26日~1931 昭和6年3月27日)では、

事件後の動揺も影響してか、与党民政党が議会で圧倒的多数を有していたものの、浜口内閣が重要政策と掲げた、労働組合法、小作法、婦人公民権法などが不成立となりました。

 

その中にあって、国立公園法は、1931(昭和6)年2月20日に衆議院本院に提出の後、読会による審議を経て原案通り可決、貴族院での採択の後、4月1日に公布されました。

 

 

国立公園法案について、提案者の安達謙蔵内務大臣は4項目からなる提案理由を説明しています。

4番目の項目の中では、「国際親善上寄与するところが大きい、ひいては国際貸借改善上に資する・・・・・」という理由も述べられています。

 

 

国立公園法には、「傑出した風景地の利用と保全の調整をどうするのか」という重大な問題が明確化されていない、という批判もありますが、法案そのものに反対意見がなかったことから、国立公園に対する期待は大きかったものと思われます。

 

軍部による有形無形の政治介入が顕著になって行く時代の中で、国立公園法は「ツーリズム振興を通して国際相互理解に役立てていこう」という理念も内在させつつ1931(昭和6)年10月1日に施行されます。