呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 323 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

51.震為雷

□卦辞(彖辞)
震、亨。震來虩虩。笑言啞啞。震驚百里、不喪匕鬯。
○震は亨(とお)る。震來(きた)るとき虩(げき)虩(げき)たり。笑(しよう)言(げん)啞(あく)啞(あく)たり。震、百里を驚かせども、匕(ひ)鬯(ちよう)を喪(うしな)はず。
 震為雷は、上卦と下卦共に震雷。雷は造化八原子(天・地・山・沢・水・風・火・雷)の一つ。雷は大地から発生する生きたエネルギーである。乾坤(天地)が交わって雷が轟きわたる。震雷は動く性質を有して、万物の生育を鼓舞して支援する。
 陰氣は凝結すると激動して雷となり、天から地上に轟き渡る。その震動は鉱石も砕くほどの勢いである。雷が轟き渡れば天下の万物が震えて動く。すなわち雷は震動を為す。それゆえ、この卦を震為雷と名付けたのである。
 震は動き、働き、勉める。その勢いは力強く、振り子のような威力があり、忿怒しているようである。また、激しく興奮・発奮して決断力がある。震雷が轟き渡れば、万物が動揺する。
 雷は春に発生して、夏には激しくなる。秋には沢の下に隠れて勢いが萎(しぼ)み、冬になると大地の下に潜(ひそ)み隠れる。
 春になって雷が発生すれば草木が萌芽する。秋になって雷が隠れると草木の成長は止まり、冬が近付く頃には枯れ落ちる。以上のことから震を木の形とする。
 初爻から上爻の配置を見ると、陽爻陽位を積極的な雷。陽爻陰位を消極的な雷とする。上卦震雷は陽爻陰位なので消極的な雷であり、下卦震雷は陽爻陽位なので積極的な雷である。
 四爻の爻辞に「震(うご)き遂に泥(なづ)む」とあるのは、上卦震雷は消極的な雷なので、ずるずると泥の中に陥り奮い立つことができないと云う意味である。
 互体艮(二三四)は逆さまに動くという形である。この卦は上卦・下卦共に一陽が二陰の下に在って動きの原動力となっている。陽は上る性質を、陰は下る性質を有している。陰爻が二つ重なっていることから、坤の靜かな性質が極まって動きを発し、それが一陽となって現れ、一陽が原動力となって憤激し二陰を振り動かしている。雷のエネルギーが地下から湧き出てくる状態である。
 それゆえ震を雷に配当して、その性質を動くとしたのである。動けば何かを為し遂げる。陽氣が発動すれば必ず動きを伴い、動けば何かを為し遂げる。天下のあらゆる事業は動くことによって成り立っている。以上のことから「「震は亨る」と言うのである。

□彖伝
彖曰、震亨。震來虩虩、恐致福也。笑言啞啞、後有則也。震驚百里、驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷、以爲祭主也。
○彖に曰く、震は亨(とお)る。震來(きた)るとき虩(げき)虩(げき)たりとは、恐れて福を致す也。笑(しよう)言(げん)啞(あく)啞(あく)たりとは、後に則(のり)有る也。震、百里を驚かすとは、遠きを驚かして邇(ちか)きを懼(おそ)れしむる也。出でては以て宗(そう)廟(びよう)社(しや)稷(しよく)を守り、以て祭主と爲る可き也。
 震の時を人間社会に当て嵌めれば、君子が小人の為すことを忌み嫌って発奮し、小人と正面から衝突することで小人を打ち破り君子の勢いが伸長する形である。
 また、君子(一陽)の前に困難(二陰)が立ち塞がり、それを突破するために色々と計画を練り上げる形でもある。
 さらに、人々の心に動きがある場合は、それが具体的な活動勢力となって大きな問題が解決すると云う見立てもできる。
 震には二つの意味がある。一つは心が動くと云う意味であり、一つは物事が動くと云う意味である。何かに戦々恐々として臨むと云うのは物事ではなくて心が動いているのである。天災や敵国からの攻撃は心ではなくて物事が動いているのである。
 今は無事だからと安心してはならない。常に自戒して有事に備える心を持っている人は、物事が動いても動じない。
 震の卦を家族に当て嵌めれば長男である。長男は物事を引き継ぐ役割がある。国家を継続させ、位を引き継ぎ、先祖代々の労苦と功績を継承すべく努力する役割がある。責任重大である。
 常に己の為したことを振り返り、反省して改心し、改善を積み重ねていくことが求められる。そのような立場に居るのだから、事を誤れば自分が恥をかくだけでなく、先祖代々の労苦が一朝にして水泡に帰してしまうことになりかねない。
 慎んで物事に接してこそ、過失も少なく、周りの人々に信頼され、長男(事業継承者)としての役割を全うできる。
 震の時には物事の動きを心が察して、適切に対処できる人物でなければならない。そのような人物だからこそ、大事業に臨む時には、明敏果断で震が震える(雷が轟き渡る)ように、威厳を発して物事に対処できるのである。
 威厳を発して物事に対処できるので、周りの人々は懼れて慎むのである。これが「震來るとき虩(げき)虩(げき)たり」である。
 長男(事業継承者)は物事に対処すること迅速且つ果断であり、大事変が勃発しても、動揺することなく冷静さを失わない。常に真心を抱いてご先祖様や神仏を尊崇している。
 だからこそ、危ない状況を安定した状況に一転させる。すなわち、禍を転じて福と為すことができる。だから「震來(きた)るとき虩(げき)虩(げき)たりとは、恐れて福を致す也」と言うのである。
 「恐れて福を致す也」の「恐れる」とは心が動いて悄(しよう)然(ぜん)とする(しょげている)ことである。聖人ならば宇宙人生に安んじて常にもの寂しく色々なことを慮(おもんぱか)っているはずである。吉兆(良いことが起こる前ぶれ)が現れても、油断したりはしない。だから、災難や反乱は起こらない。何が起こっても従(しよう)容(よう)として(さらっと)対応することができるのである。
 それに比べて、われわれは将来起こりうる災難や反乱への備えを怠っている。その時になって対処法を考えることが多く、遠くで災難に遭遇したり、反乱が起こっても、それが自らに及ぶとは想像できないので、事が起こってから慌てて対応策を考える。
 われわれは、常日頃、災難に備えていないので、財政的にも対応できない。災難に一時的に対応できたとしても、バタバタとあわてふためいている。その場しのぎはできても、抜本的な対応策を打ち立てられないので、最後には行き詰まってしまう。
 何か異変が起こった時にあわてふためいて混乱するのは、日頃の戒めを忘れているからである。
 誰もが突然雷が轟き渡れば、恐れて不安になる。それが止(や)めば(雷が行き去ると)、ほっとして笑い合うものである。このことを「笑(しよう)言(げん)啞(あく)啞(あく)たりとは、後(のち)に則(のり)有る也」と言うのである。
 震の陽爻が活動のエネルギー源となって異変が起こるのは、エネルギーが蓄積されているからであるが、異変はやがて治まるので「笑(しよう)言(げん)啞(あく)啞(あく)」と言うのである。
 平時であっても、常に異変の発生に備えていて、油断するところがなければ、予想外の異変が起こったとしても、何とか対応できる。
 異変が起これば誰もがあわてふためくものである。できれば、常に異変に備えて落ち着いていたいものである。
 伝説の王さまである堯や舜の功績も常に異変に備えていた結果である。それゆえ卦辞・彖辞に「震、百里を驚かせども、匕(ひ)鬯(ちよう)を喪わず」と言うのである。
 歴史のある王朝は朝廷において祖先を尊崇しているものである。人が世の中に対処できるのは、常に色々な災難を経験して、対処法を学んでいるからである。予想外の災難に見舞われても、人事を尽くして天命を待てば、何とか対応することができる。それゆえ、震の時は、禍(わざわい)転じて福と為す時である。
 このことを彖伝に「震、百里を驚かすとは、遠きを驚かして邇(ちか)きを懼れしむる也。出でては以て宗(そう)廟(びよう)社(しや)稷(しよく)を守り、以て祭主と爲る可き也」と言うのである。

□大象伝
象曰、洊雷震。君子以恐懼脩省。
○象に曰く、洊(せん)雷(らい)は震なり。君子以て恐(きよう)懼(く)し脩(しゆう)省(せい)す。
 この卦は内卦・外卦共に震雷なので「洊(せん)雷(らい)・洊(しきりに)雷が轟き渡る」形である。「洊(せん)」は繰り返すこと。「雷」は天地に閃(せん)光(こう)を放つエネルギーであり、陰陽の相互作用で轟き渡る轟音だから、畏(おそ)れ慎むべき時である。震は内卦・外卦の雷が繰り返して轟き渡り、畏(おそ)れ慎むべき時の極限状態である。
 大体において、懼(おそ)れ慎むのは天災によって大損害を被った時である。あるいは、人災によって引き起こされた大災害に襲われた時である。全く想定しなかった災害が自分の身に降りかかった時に、人々は恐れ戦(おのの)くのである。
 以上のような災難に遭遇することを「洊(せん)雷(らい)」と言う。懼れ慎むのは一人ひとりの心の中の作用である。
 人間の力が及ばないような災難に遭遇した時に自然の偉大さが身に浸みるのである。これまでは信じていなかった「天」や「神仏」を尊崇する気持ちが芽生えるのである。
 「君子以て恐(きよう)懼(く)し脩(しゆう)省(せい)す」の「脩省」とは、実践が伴うこと。「脩省」の「脩」とは、善行を積み上げて人格を磨いていくこと。「省」とは、善行を積み上げていく過程の中で不善がなかったかと反省して不善を改めることである。懼れ慎む(恐懼)と云う意味を内卦の震の形から読み取り、脩省と云う意味を外卦の震の形から読み取っているのである。
 君子は「恐懼」や「脩省」を意味する震の形を見倣って、天災に遭遇しても、それを乗り越えていくぞと確信するのである。
 人間は、誰もが一度は快楽を追求して快楽に溺れ、痛い目に遭って反省する経験を経なければ、善行を積み上げて人格を磨いていこうなどとは思わないものである。
 人格を磨いていく過程で人智を越えた存在に気が付くのである。すなわち、「天」や「神仏」を尊崇するようになるのである。
 人格を磨くための努力を重ねれば重ねるほど、自分の未熟さを痛感して反省するようになる。
 終には人格を磨いていくために、発奮して生まれつき備えている無限のパワーを引き出すことができるようになる。
 誰一人として完璧な人間はいない。様々な困難や災難を経験して苦しみながらもそれを乗り越えていく経験を積んでいくうちに、「天」や「神仏」を尊崇して、人に対する慈しみの心が芽生えてくるのである。
 災難を乗り越えていくためには、「恐懼」する心と「脩省」の努力を怠ってはならない。「恐懼」する心は「天」や「神仏」を尊崇するようになったから生じるのである。「脩省」の努力は「天道」や「神道」を全うすることである。以上を「君子以て恐(きよう)懼(く)し脩(しゆう)省(せい)す」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。震來虩虩。後笑言啞啞。吉。
象曰、震來虩虩、恐致福也。笑言啞啞、後有則也。
○初九。震來(きた)るとき虩(げき)虩(げき)たり。後に笑(しよう)言(げん)啞(あく)啞(あく)たり。吉。
○象に曰く、震來(きた)るとき虩(げき)虩(げき)たりとは、恐れて福を致す也。笑(しよう)言(げん)啞(あく)たりとは、後に則(のり)有る也。
 「虩(げき)虩(げき)」とは、驚いて顧みる時の形容である。「啞(あく)啞(あく)」とは、笑う時の声を形容した言葉である。
 震の時は生きている氣(エネルギー)の力が流れて進み行く時である。暴走する時ではない。
 初九と九四の陽爻が上の二つの陰爻の下で震え動くのである。二、三、五、上の四爻は、初九と九四の陽爻が震源地となって、大きく震える動きに吃驚(びつくり)して恐懼するのである。
 初九は陽爻が初と云う正しい地位に居る剛健な性格の震の時の主人公である。それゆえ、初九の爻辞は彖辞を用いているのである。
 陽剛の性質で震え動いて、あるいは震え動く時に、恐懼(恐れおののく)するものの、自分を戒めて慎ましくしているので、自分の分を失わない。すなわち、正しく動いて、動くことによって起こることを予測して、自らを戒め不測の事態にて備えているから、動きが発生しても適切に対応することができるのである。
 それゆえ、最初は動揺しても、最後には楽しみ笑い合うような吉運が到来する。このことを「震來(きた)るとき虩(げき)虩(げき)たり。後に笑(しよう)言(げん)啞(あく)啞(あく)たり。吉」と言うのである。
 「後に」すなわち、「最後には」と表現している理由は、最初は震雷の動きは、さほど激しくないので動揺も大きくないが、やがて、その動きが激しいことを実感するようになると、誰もが声を出して驚き慌てるようになる。そのような状態になると、誰も笑う者はない。誰も物を言えなくなるほど動揺するからである。
 けれども、初九は冷静に震雷の動きに備えて何が起こるか予測しているので、最後には笑って吉運が到来するのである。
 震雷の始めの時に恐懼したとしても、冷静に対応すれば、身が引き締まって自らを戒めるようになる。すると必ず安定調和するようになり、笑い飛ばして吉運を招来するのである。
 大体において、油断している人は禍を招き易く、懼れ慎む人は福運を招き易いものである。
 象伝に「恐れて福を致す也」とあるのは、恐懼して戒慎すれば、禍を転じて福を招来することを云う。
 また、「後に則有る也」とあるのは、初九は陽剛の性質なので、震雷の動きに対応する場合の原理原則を踏まえて行動することができると云うことである。
 君子は大事業に対処するに中って、よく思慮して慎んで事を始めるので、概ね予想通りに事が進んで行くのである。そして、進退が問われるようなミスをしないので、複数の大事業を実施しても災難を招き寄せたりはしないのである。
 初九が変ずれば雷地豫となる。豫は悦楽する時である。これは「笑(しよう)言(げん)啞(あく)啞(あく)」と云う形にも通じる。震雷の動きにバタバタすることなく、冷静な心を保って自分の身を修めることにより、家や会社組織を安定させることが、国を治めることにつながり、また、天下泰平を実現するのである。
 どんな大事業を実施する際にも、恐懼して自戒することが成功の秘訣である。中庸に「君子は其の睹(み)ざる所に戒(かい)慎(しん)し、其の聞かざる所に恐(きよう)懼(く)す」とあり、詩経に「戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」とあるのも、恐懼・自戒することの大切さを述べているのである。
 また、震の卦には二つの意味がある。一つは、震えて動くと云う意味、もう一つは震えて懼れると云う意味である。初爻と四爻は上に載せている陰爻を震えて動かす存在であり、二爻・三爻と五爻・上爻は震えて懼れる存在である。

六二。震來厲。憶喪貝、躋于九陵。勿逐。七日得。
象曰、震來厲、乗剛也。
○六二。震來(きた)るとき厲(あやう)し。憶(おもんばか)りて貝(ばい)を喪(うしな)ひ、九(きゆう)陵(りよう)に躋(のぼ)る。逐(お)ふ勿(なか)れ。七日にして得ん。
○象に曰く、震來るとき厲(あやう)しとは、剛に乗れば也。
 「憶(おもんばか)る」とは「度(はか)る」ことである。「貝(ばい)」とは財貨のことである。「憶(おもんばか)りて貝(ばい)を喪(うしな)ひ」とは、震雷が動くと実に危ういので、立ち向かっても勝ち目はないことを予測して、財産を投げ出しても避難することを優先することである。
 「九(きゆう)陵(りよう)に躋(のぼ)る」の「九(きゆう)陵(りよう)」とは、震雷の動きは危ないので財産を投げ出して丘へ避難することである。互体(二三四)が艮山であることから、このように解釈するのである。
 この卦は初爻と四爻をエネルギー源とする震雷が震え動いて何かが起こるという形になっている。
 六二は陰柔の性質で震雷のエネルギー源である初九に乗じている。実に危険な災難が差し迫っているので「震來(きた)るとき厲(あやう)し」と言う。危険が差し迫っている時に財産を守ろうとして真っ先に避難しない人は、危険から逃れることはできない。
 財産を守ろうとして財産を守れないのみならず自分の命も失うことになる。自分の命と財産は、誰もが守りたいものである。しかし、その度合いは天と地のような違いがある。僅かな財産を守るために大切な命を失うことになるのは愚の骨頂である。
 礼(らい)記(き)に「仁者は財を以て身を發(おこ)し、不仁者は身を以て財を發(おこ)す/仁者は財を私せずに世のために使うから、人々から尊敬される。不仁者は財を私して立身出世するから、人々から軽蔑される」とあるように、財産を守ることと命を全うすることのどちらが大切であるかをよく考えて行動すべきである。
 六二は中庸の徳を具えて正しい位に居るので、身の危険が差し迫っている場合は、命と財産とどちらが大切であるかを適切に判断し財産など顧みずに、速やかに避難して大切な命を守る。それゆえ「憶(おもんばか)りて貝(ばい)を喪(うしな)い、九(きゆう)陵(りよう)に躋(のぼ)る」と言うのである。
 初九が陽氣に乗じて昇っていくのは、「九(きゆう)陵(りよう)に躋(のぼ)る」形である。六二は六五と応じていないが、立場は同じである。共に中庸にして正しい位に居るのだが、剛健の性質に欠けているので、事に対して恐れ戦(おのの)くところがある。
 災難から逃れて大切な命を守ることができれば、財産を失ったとしても、やがて取り戻すこともできる。それゆえ「逐(お)ふ勿(なか)れ。七日にして得ん」と言うのである。
 動くか静かにしているかは時に依る。陰陽は補い合っており、物事は全て循環しているからである。
 「貝(ばい)を喪(うしな)ひ/財産を失う」とは、初九の震動は驚異的であることを明確に表現したのである。
 「七日にして得ん」とは、初九の驚異的な震動によって緊急避難的に財産を失うが、それは一時的なことであり、やがては財産を取り戻すと云うことである。
 象伝に「剛に乗れば也」とあるのは、六二は陰柔の性質なので明智に欠けており、物事を深く考えないところがあり、また、才能が不足しているので、物事に適切に対処することができない。その上、初九の陽剛に乗じている。それゆえ、初九の震動が予測できない形で起こると、自分を失って冷静さを保つことができないと云うことである。
 例えれば、柔弱な性質なのに剛強な人と対等に勝負しようとして、予想もしていなかった事態に追い込まれ、頭の中が真っ白になるようなものである。

六三。震蘇蘇。震行无眚。
象曰、震蘇蘇、位不當也。
○六三。震(しん)して蘇(そ)蘇(そ)たり。震して行けば眚(あやまち)无(な)し。
○象に曰く、震(しん)して蘇(そ)蘇(そ)たりとは、位(くらい)當(あた)らざる也。
 「蘇(そ)々(そ)たり」とは、神仏への信仰心が揺らいで、恐れ戦(おのの)き、自分を失ってほとんど死にそうになった後で、また蘇ることである。震源地である初九の震動が六三に大きく及ぶ上に、すぐ上に居る九四の震動もまた六三に及ぶ。それゆえ「蘇(そ)々(そ)」と言うのである。
 六三は陰爻陽位で中庸の徳に欠いており位も正しくないので、志を為し遂げようとしても才能不足で成就できない。
 しかも、下卦の最上に居て上卦に接しているので震雷の影響を最も受ける。初九が震源地となる震雷の動きで大きく揺れている中で六三は陰柔の性質で危機に対応する。しかし、陰柔ゆえ震雷による大きな変化に対応できないのである。
 下の初九と上の九四に挟まれて為す術がない。ほとんど死んだようなものであるが、再び蘇生することができる。それゆえ「震して蘇(そ)々(そ)たり」と言うのである。
 今は震雷の危機に伴う災難に悩み苦しんでいるが、自分が招いた災難に悩み苦しむわけではない。震雷の危機が過ぎれば、災難も収まり悩みも解消する。だから「震して行けば眚(あやまち)无(な)し」と言うのである。「眚(あやまち)」とは、人災(人が招いた災難)のことを云う。
 互体(三四五)坎を「眚(あやまち)」と見立てる。すなわち、天下国家が災難に見舞われた時には、誰もが悩み苦しむのである。それなのに、悩み苦しむことなく、自らを修めるということもしないので、反省することもない。以上のことを心配しているのである。
 人間は、塗炭の苦しみを味わい、震雷の動きに死んだように追い詰められても、再び蘇生すべく、自らを奮い立たせて毅然として正義を貫ぬけば、震雷の災難を乗り越えることができる。
 人間世界における大きな病や心配事は、人々が自暴自棄になるから起こるのである。神仏の存在や天の道を尊崇することを忘れると傲慢になり、懼れて慎む気持ちがなくなり、何事に対しても反省しなくなるので、真心を失ってしまうのだ。周りの人々のアドバイスにも耳を傾けなくなり、自らを制御することができないので、極めて危ない状況に追い込まれるのである。
 何事に対しても深く思慮することをしない人は、災難を招き寄せて死に至るほどにまで追い詰められるのである。
 震雷には様々な動きがある。天の震雷、地の震雷、事の震雷、心の震雷などである。雷が轟き渡るのは天の震雷である。驚くような大変革は事の震雷である。懼れて自戒するような動きは心の震雷である。心の震雷は懼れて自戒することによって、禍を転じて福と為すことができるのである。

九四。震遂泥。
象曰、震遂泥、未光也。
○九四。震(しん)遂(つい)に泥(なず)む。
○象に曰く、震(しん)遂(つい)に泥(なず)むとは、未だ光(おおい)ならざる也。
 「震(しん)遂(つい)に泥(なず)む」の「遂(つい)に」は、往ったけれども返って来ないと云う意味。「泥(なず)む」は、陥って抜け出せないと云う意味である。
 賢明な王さまが一人ぽつんと小人の群れの中に陥ってしまい、その才能や実力を発揮することができない形である。
 九四は初九と共に震雷の時の主爻である。また互体(三四五)坎の主爻でもあり、初九の陽氣に乗じて動く震雷であることから、六五と六三の間に陥って泥のように溺れる形である。
 初九は震雷の動きの中心(震源地)である。その勢いは四方八方に及んでいる。九四は初九の震動に乗じているので、存在感が薄く、発奮・勉励する意欲があっても勢いが削がれる。震雷は震雷でも弱い震雷である。
 以上を人間に当て嵌めれば、剛健の徳性を具えているが、世の中に認められない人間である。しかも位が正しくなく、中庸の徳に欠いているので、動くべきではない時に動いてしまう。世に轟き渡ることができない震雷のような人間である。
 陽爻なのに陰気なイメージを纏(まと)っている。それゆえ泥のように溺れる形である。泥は互体(三四五)坎の水が土に混ざって泥のように滞る(から溺れる)のである。
 意欲(氣力)が乏しいので、未だ志を発揮することができない。心配事を抱えて苦しみのたうち回る。それゆえ「震遂に泥(なず)む」と言い、「悔」や「吝」と云う言葉を用いないのである。
 象伝に「未(いま)だ光(おおい)ならざる也」とは、陽爻陰位で初九に乗じており、陰気なイメージで力が弱いから、何事に対処しても溺れて沈没してしまう。だから、再び蘇るように復帰して光り輝くことはできないのである。

六五。震往來厲。億无喪事有。
象曰、震往來厲、危行也。其事在中、大无喪也。
○六五。震(しん)して往(ゆ)くも來(きた)るも厲(あやう)し。億(おもんばか)りて事有るを喪(うしな)ふ无(な)し。
○象に曰く、震(しん)して往(ゆ)くも來(きた)るも厲(あやう)しとは、危(き)行(こう)也。其の事、中(ちゆう)に在り、大いに喪(うしな)ふ无(な)き也。
 六五は初九と九四の震源地が震え動く時に中って、その上に位置している。初九の震雷は終わったが、九四の震雷が始まる形である。震雷の災難は繰り返し起こるのである。
 六五は震雷の災難の中に居て自分を見失わない。震雷の震源地は震え動いて周りを驚かせるが、それは一瞬の出来事で長くは持続しない。国家に起こる災難も同じである。
 六五は君位に在り柔順な性質で中庸の徳を具えているが、権威に欠けており、応じる関係である六二の忠臣も微力なので六五を補佐できない。比している九四は虎視眈々と君位を狙っており、六五の地位を揺さぶり続ける。
 初九の震雷もまだ完全には収まっていない。そのような状況の中にあるが、六五の王さまは何の手も打つことができない。それゆえ「震(しん)して往(ゆ)くも來(きた)るも厲(あやう)し」と言うのである。
 「往(ゆ)く」とは国政を執行すること、「來(きた)る」とは国政から退いて自分を守ることである。初九は六五の王さまから遠く離れており、比している九四は泥のように溺れてのたうち回っている。誰も六五を助けることができないのである。
 六五一人では王さまとしての役割は全うできないが、よく、震雷の災難に対処して天下国家は瓦解するには至らない。やがて社会の混乱は収まり、王さまとして一定の役割を果たす。震雷の災難に右往左往する人々とは一線を画するのである。
 六二は震雷の災難に対処するため財産を棄ててまで自分の命を守るが、六五の王さまは命を捨てる覚悟で天下国家を守ろうとする。卦辞・彖辞にある「震、百里を驚かせども、匕(ひ)鬯(ちよう)を喪わず/雷が轟き渡るような大事変が勃発すると大衆は驚愕して自分を失うが、祭主の天子は神前の料理を掬(すく)う匙(さじ)と香りのよいお酒を決して落とさない/とは、六五のことである。それゆえ「億(おもんばか)りて事有るを喪(うしな)ふ无(な)し」と言うのである。
 「事有る=有事」とは、大事なこと、すなわち祭祀の事である。沢地萃と風水渙の彖辞には「有廟」と言い、この爻には「有事」と言う。いずれも宗廟の祭祀のことである。
 大事変が勃発すると大衆は驚愕して自分を失うが、祭主の天子=六五は神前の料理を掬(すく)う匙(さじ)と香りのよいお酒を決して落とさない。「億(おもんばか)りて事有るを喪(うしな)ふ无(な)し」の「喪(うしな)ふ无(な)し」とは、天下国家は瓦解するには至らないと云うこと。「事有る=有事」とは、政治の力で治安を維持すると云うことである。
 象伝に「危(き)行(こう)也/進んでも退いても危ない時である」とある。六五の王さまの志が揺らいで行動力に陰りが見えれば、あっという間に天下国家は崩壊する。恐懼・自修・反省して、王さまとしての徳を磨き続ければ、国家の崩壊をくい止めることができる。天下国家の秩序は回復して、復興に向かっていくのである。
 陽爻(震雷の震源地)の立場に立てば、陽爻の存在は「善」であるが、陰爻(震雷の被害者)の立場に立てば、陽爻は「暴力的で天下国家に災難を及ぼす」存在である。
 六五の王さまの立場から九四の震源地を見れば、九四もまた、天下国家に災難を及ぼす存在である。
 九四は陽爻陰位。陰気で力が弱く、何事に対処しても溺れて沈没するので、天下国家に害悪を及ぼさない。だが、六五の王さまにとって九四は「暴力的で天下国家に災難を及ぼす」危険な存在である。それゆえ「往(ゆ)くも來(きた)るも厲(あやう)し」と言うのである。

上六。震索索。視矍矍。凶征。震不于其躬、于其鄰、无咎。婚媾有言。
象曰、震索索、中未得也。雖凶无咎、畏鄰戒也。
○上六。震(しん)して索(さく)索(さく)たり。視ること矍(かく)矍(かく)たり。征けば凶。震、其(その)躬(み)に于(おい)てせず、其(その)鄰(となり)に于(おい)てすれば、咎(とが)无(な)し。婚(こん)媾(こう)、言有り。
○象に曰く、震(しん)して索(さく)索(さく)たりとは、中(ちゆう)未(いま)だ得ざる也。凶なりと雖(いえど)も咎(とが)无(な)しとは、鄰(となり)を畏(おそ)れて戒(いまし)むる也。
 「索(さく)索(さく)たり」とは、茫然自失の状態である。驚愕のあまり、意気消沈して心ここに有らずと云う状態を云う。「矍(かく)矍(かく)たり」とは、安定していない状態である。恐怖のあまり目は血走り精神状態が錯乱して視線の焦点が定まらない状態を云う。
 物事がキチンと見えているのは、精神状態が安定しているからである。キチンと見ることができないのは、精神状態が不安定なことを現わしている。
 上六は陰柔な性質で震動の時の極点に居る。初九と九四が震源地となった震動に二回も見舞われて、恐怖のあまり精神的に追い込まれている。まるで小さな子どもが厳しい父親を恐れてひれ伏してしゃべることもできないようである。あるいは小心者が絶壁に立って人と虎の決闘を見物しているようである。
 気持ちは不安定この上もなく、視線は虚(うつ)ろな状態である。それゆえ「震して索(さく)索(さく)たり。視ること矍(かく)矍(かく)たり」と言うのである。
 六五が王さまの位だとすれば、上六は天の位である。王さまは天を畏れる。しかし上六の心は錯乱しており、視点を逢わせることすらできない。
 このような状態では何事も成し遂げられない。それゆえ「征けば凶」と言うのである。「征く」とは「征くことによって何かを為し遂げる」ことが前提になっている。
 六五の王さまは九四の震源地に接しているが、上六は接していない。六五は震雷の影響を受けるが、上六は震雷の影響を受けないので「震、其(その)躬(み)に于(おい)てせず、其(その)鄰(となり)に于(おい)てすれば咎(とが)无(な)し」と言うのである。柔弱な夫人が、雷が隣の家に落ちたことを知って、自分の家にも落ちるかもしれないと心配しているのである。
 上六は柔弱な婦人のように、震雷の事変に遭遇して精神的に動揺し心乱れて、物事の可否を判断することができない。何が起こるかも予測できずに、徒(いたずら)に驚愕して動揺するのである。
 自分から崩れて、迷い乱れるが、気が付いたら事変は終わっているのである。何とも情けない話である。もし聖人なら震雷の終わりに居て、畏れ自戒して自ら心を改めるであろう。
 陽爻を男性、陰爻を女性として、上六の女性と初九と九四の関係を見ると、いずれも応比の関係になく相性が悪い。それゆえ「婚(こん)媾(こう)、言有り」と言うのである。
 婚媾(結婚)は親しい間柄だから成立する。「言有り」とあるのは、その結婚に対する苦情が多いことである。初九・九四と上六は応比ではないが、上六は初九と九四を求める。
 象伝に「中未だ得ざる也」とあるのは、上六は中庸の徳を欠いているので、茫然自失の状態に陥ると云うことである。
 また「鄰(となり)を畏れて戒むる也」とあるのは、上六は隣に居る六五が引き起こす震雷の動きに畏れ慎むので、許されることである。
 天下国家の存亡は将来を心配する気持ちがあるかどうかにかかっている。上六は隣で起こった事変を見て、我が身に及ぶと備えたから助かったのである。

 

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