呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 324 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

52.艮為山

□卦辞(彖辞)
艮、其背不獲其身。行其庭不見其人。无咎。
○其(その)背(せ)に艮(とど)まり、其(その)身(み)を獲(え)ず。其(その)庭(にわ)に行き、其(その)人(ひと)を見ず。咎(とが)无(な)し。
 艮は上卦・下卦共に艮。艮の山と艮の山が対峙している。二つの山が対峙している姿である。お互いに見つめ合っているだけで、近付くことも遠ざかることもしない。
 艮の卦は上卦も下卦も一陽が二陰の上に止まっている。陽の性質は上ることにあり、陰の性質は下ることにある。一陽は上っていっても行き場所がないので二陰の上に止まる。
 これを人間社会に当て嵌めると、小人(民衆)の上に君子(優れた指導者)が止まって国を治めている形である。
 優れた指導者である君子は目先の出来事に右往左往しがちな小人(多くの民衆)と比べて、見識(揺るぎない信念や志)が高いので、他人の意見に左右されない。
 侫(ねい)人(じん)の誘惑に心を動かすことなく、毅然として揺るがない人格者である。艮の山のように揺るがない姿形で、心はどっしりと微動だにしない。君子たる者の泰然とした風貌を現している。
 以上のことから、この卦を艮為山と名付ける。艮の止まるという意義が発揮される時である。
 艮為山の各爻はいずれも応じる関係にない。人間社会に当て嵌めると、人々が交流しても、目と目を合わせないような関係である。誰かの家に招かれても、その家の主人とは顔も合わせないような関係の時である。
 上卦の山と下卦の山が対峙して、お互い睨み合っているが、近付くことも遠ざかることもできない時。表面的には親しんでも内心から親しんではならない時である。
 それゆえ、艮の時に中るための心構えは、髪の毛一本ほどの僅かな希望も見出してはならない。例え、何か希望を感じることがあっても、相手がそれを受け容れてくれない。
 人間が動くときでも背骨は動かない。背骨はいつも止まって動かない。身体は動くけれども、背骨は動かないのである。
 「背」と云う字が「北」と「月=肉」とできているのは、「背」と云う字に「内容・意味・意義」があるからである。
 人々が様々な希望を抱くのは、鼻や目や耳や口などの器官が感じる情欲から発することが多い。艮為山の時に中ってはそのような希望は叶わない。情欲を制御して、自分の思いや望みを棄て、己を虚しくすることで達観することを目指すしかない。
 すなわち、何事にも動じない心を養って、情欲などで心を動かされないように修行するのである。以上を「其(その)背(せ)に艮(とど)まり、其(その)身(み)を獲(え)ず」と言う。

□彖伝
彖曰、艮、止也。時止則止、時行則行、動静不失其時。其道光明。艮其止、止其所也。上下敵應、不相與也。是以不獲其身、行其庭不見其人。无咎也。
○彖に曰く、艮は止まる也。時止まれば則ち止まり、時行けば則ち行き、動静、其(その)時(とき)を失わず。其(その)道(みち)光(こう)明(みよう)なり。其(その)止(し)に艮(とど)まるは、其(その)所(ところ)に止まる也。上下敵(てき)應(おう)し、相(あい)與(くみ)せざる也。是を以て其(その)身(み)を獲ず、其(その)庭(にわ)に行き、其(その)人(ひと)を見ず。咎(とが)无(な)き也。
 卦辞・彖辞の「其(その)背(せ)に艮(とど)まり、其(その)身(み)を獲(え)ず」とは、必ずしも隠居や世を遁れて人里離れた田舎に隠れ住み、自らを修めるような生き方をしなさいと云うことではない。また、心を失った人のように、心身を回復するために仕事を休み、社会活動を停止して、家族に養ってもらうようなことを云うのでもない。
 天下のあらゆる罪悪や凶行は、自分を愛するあまり、私利私欲に囚われて、情欲を制御することができなくなるから起こるのである。
 子どもが父母に孝行を尽くさない。臣下が君主に忠実でない。奥さんが旦那さんに順わない。弟が兄に逆らう。友達同志が信じ合うことができないなど、基本的な人間関係が成立しなくなると、非道い場合には、お互いに騙(だま)し合うようになり、仕事や生活が乱れて、情欲のまま淫行を貪り、遂には残忍な行為に及び、あらゆる罪を犯しても恥じるところがない人間に堕落するのである。
 このように堕落していくのをくい止めるためには、その元凶である情欲を制御して、世の中の栄枯盛衰や喜怒哀楽をそのまま受け容れることができるように修養することが肝要である。
 人は皆、親の子として、また君主の臣下として、その役割を全うすることが大切である。道義を守り、忠孝を実現することが、人間として世に生まれた大義を全うすることである。
 艮の時は、上卦の山と下卦の山が対峙しているように、人と人とが向き合って相容れない時である。
 相手の価値観と自分の価値観がぶつかり合う時ゆえ、相手の言行が自分の価値観と合致しない場合であっても、自分の価値観で相手を評価してはならない。
 相手を咎めたり批判したりしても、相手は絶対にそれを受け容れない。自分が苦しむだけである。だから自分の価値観に囚われず、相手の価値観をそのまま受け止めて、どのような環境に置かれても、心が乱れないように修養すべきである。以上のことを「其(その)庭(にわ)に行き、其(その)人(ひと)を見ず」と言うのである。

□大象伝
象曰、兼山艮。君子以思不出其位。
○象に曰く、兼(けん)山(ざん)は艮なり。君子以て思ふこと其(その)位(くらい)を出でず。
 艮為山は内卦艮山の外に外卦艮山が在る。二つの山が相対しているのである。内外共に艮山の意義が充ちているので、止まりまた止まると云う時である。これを「兼(けん)山(ざん)」と言う。
 山には色々な形状があるけれども、どの山もどっしりとして微動だにせず、その場所に止まっている。
 君子(立派な人間)はこのような艮の形を見て、人には様々な価値観があり、色々な地位や立場に在ることを認識して、それぞれの地位や立場でそれぞれの分限を守ることに意を止める。
 「蟹は甲(こうら)に似せて穴を鑿(ほ)る」と云う諺(ことわざ)がある。人間は、その人の器量に応じて事に対処しなければならない。このことを「思ふこと其(その)位(くらい)を出でず」と言うのである。
 「其(その)位(くらい)」の「位」とは、爵位などを指すのではなく、その人が属している領域の分限を指している。少ししか量がないのに、多くの量があるように見せかけようとする人は、鳥が飛んでいるのを見て、自分も空を飛べるような妄想を抱き、また、魚が水の中で踊るように泳いでいる姿を見て、自分も魚のように泳げるような妄想を抱くものである。
 自分の地位や立場における分限を超えて、妄想を抱く人は、庶民なのに国政を司るような妄想を抱き、地位が低い立場に居るのに、地位が高い立場に居なければできない妄想を抱くものである。迷走すること甚だしいのである。
 権力者の力を借りて己の野望を計り、逆賊の一員にまで陥落する人は、事の始めにおいて、自分の地位や立場における分限を超えて物事を考えることから堕落が始まる。事の始めの段階で小さな勘違いから正していかないと、驕り高ぶり取り返しの付かない悪事を働いて罰せられる段階に至る。自分の器を知らないで、妄想を抱く人はよくよく戒めるべきである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。艮其趾。无尤。利永貞。
象曰、艮其趾、未失正也。
○初六。其(その)趾(あし)に艮(とど)まる。尤(とが)无(な)し。永(えい)貞(てい)に利(よろ)し。
○象に曰く、其(その)趾(あし)に艮(とど)まるとは、未だ正を失はざる也。
 初六は陰柔の性質で位は正しくない。才能も不足しているので、艮の時の最初に在って、足のような地位に居る。
 今は何も成し遂げられないと云う自分の立場や才能を、よく認識して、妄動してはならない。
 人の動きは足下から始まる。心の中に迷いがあれば、行動が止まり、行動が止まれば、足の動きも止まる。足の動きが止まれば、騒乱や妄動する過ちもなく、心の動揺が収まれば、身体も安定するようになり、過失を犯すこともなくなる。それゆえ「其(その)趾(あし)に艮(とど)まる。尤(とが)无(な)し」と言うのである。
 吉凶悔吝は動くから起こる。足の動きを止めることは、動き始めようとする動きを抑えることである。動き始めようとする段階で足の動きを止めれば、正しい道を踏み外すことはない。
 私利私欲に基づく情欲が湧き上がる前の段階で行動を抑えて、お天道様に見られても恥ずかしくない行動に止まるのである。
 心身共に安定した状態になれば、その状態を常に維持することができる。それゆえ「永(えい)貞(てい)に利(よろ)し」と言うのである。
 象伝に「未だ正を失はざる也」とある。初六は陰爻陽位で位は正しくない。陰は本来下に位置すべき存在である。
 爻辞に「其(その)趾(あし)に艮(とど)まる」とある。最下に居る初六は「足」である。その足である初六が動かずに止まっているのだから、正しさを失わないのである。また、初六は応爻がなく、動くに動けない立場だから、動いてはならない。正しさを失わないためにも、動いてはならないと戒めているのである。

六二。艮其腓。不拯其隨。其心不快。
象曰、不拯其隨、未退聴也。
○六二。其(その)腓(こむら)に艮(とど)まる。其(その)隨(ずい)を拯(すく)はず。其(その)心、快(こころよ)からず。
○象に曰く、其(その)隨(ずい)を拯(すく)はずとは、未だ退(しりぞ)き聴(き)かざる也。
 「腓(こむら)」とは、「腓(こむら)返り」の「腓(こむら)=ふくらはぎ」のことである。「股(もも)」が動けば「腓(こむら)」も隨(したが)う。動くも止まるも「股(もも)」が動くから動き、止まるから止まるのである。「腓(こむら)」は自分の力で動くことも止まることもできないのである。
 六二は柔順な性質で位正しく、中庸の徳を具えているので、艮の止まる時に適切に対応できる。だが、陰爻なので力が弱く、上に応爻もないので、動くことも止まることもできない。動くも止まるも比する九三に随うしかなく、不自由である。
 まるで「腓(こむら)」が「股(もも)」に随って動いたり止まったりするようである。それゆえ「其(その)腓(こむら)に艮(とど)まる」と言うのである。
 六二の「腓(こむら)」は、九三の「股(もも)」あるいは「腰(こし)=限(げん)」に止まる形。九三は内卦の極点に止まっており、艮の主爻だから動かない。止まる時にあっても、動くべき時は動くべきなのに、止まることに固執して、上卦と下卦の陰爻の繋がりを断絶するのである。
 六二は一人で動くことはできない。剛毅な性質の九三に制止されて、自分からは動くことができない立場である。
 上卦・下卦の各二陰・計四つの陰爻は、互体三四五の震雷の主爻でもある九三が動かなければ、上卦と下卦をつなぐことができないので困窮している。
 四つの陰爻の一つでもある六二はそれを傍観することしかできないことを申し訳なく思っている。そこで、九三に制止されることを拒み、九三に動いてもらうように働きかけるが、ところが、九三は制止することに固執して、六二の諫言を聞き入れようとしない。しかも六二は陰爻であるから陰気な性質で力は微弱なので、剛毅な性質の九三をどうすることもできない。
 六二は九三のやり方が間違っていることがわかっているが、九三に随わざるを得ない。その心中は悶々としている。それゆえ「其(その)隨(ずい)を拯(すく)はず。其(その)心(こころ)快(こころよ)からず」と言うのである。
 九三の言葉は聞く必要がなく、その言葉に随ってもうまくいかないことが分かっている。九三の言葉に随うことは六二の本意ではなく、心の中は悶々としている。自分のことを心配しているのではない。世の中のことを心配しているのである。
 象伝に「未だ退(しりぞ)き聴かざる也」とあるのは、九三は剛毅な性質なのに下卦艮の主爻という立場に固執して制止することしか考えずに、四陰のためにも動いて欲しいと云う六二の諫言を聞き容れないことを云っている。六二の心中が悶々としている理由を解説しているのである。
 六二は九三の子弟にあたり、上卦の役員に対しては従業員の一員に過ぎない。師匠や役員の過ちを正すことなどできない。臣下が王さまの過ちを正すことはできない。六二には、まだ権力がない。自分の分限を弁えるべきだと教えているのである。

九三。艮其限。列其夤。厲薫心。
象曰、艮其限、厲心薫也。
○九三。其(その)限(げん)に艮(とど)まる。其(その)夤(せじし)を列(さ)く。厲(あやう)くして心を薫(や)く。
○象に曰く、其(その)限(げん)に艮(とど)まるとは、厲(あやう)くして心を薫(や)く也。
 「其の限に艮(とど)まる」の「限」とは、上体と下体の境のこと、すなわち「腰」である。腰は屈伸したり俯(うつむ)いたり仰(あお)いだりするときの結節点であり、柔軟であることが求められる。頑なに制止することに固執してはならない。
 「其の夤(せじし)を列(さ)く」の「列」は、「裂く」ことである。「夤(せじし)」とは、背を挟む肉、すなわち「背骨の左右の肉」である。「厲(あやう)くして心を薫(や)く也」の「薫」とは、煙で蒸すことを云う。
 九三は内卦艮の主爻で、上卦と下卦の境目に居る。上卦と下卦は山のように対峙して、微動だにしないから「其(その)限(げん)に艮(とど)まる」と言うのである。上卦・下卦とも共通して門の形をしている。九三は内卦の極点に居て上下の四つの陰爻のつながりを断絶させている。それゆえ「其の夤(せじし)を列(さ)く」と言うのである。
 九三は下卦艮の主爻(すなわち「止まる」の中核)であると同時に、互体(三四五)震の主爻(すなわち「震え動く」の中核)でもあるから、止まる時に動いて、下卦の陰爻と上卦の陰爻をつなげる役割を有しているのに、止まることに固執して、下卦の陰爻と上卦の陰爻を断絶させる。人間の身体に例えれば、腰と股に病気や障害があって動くことができない状態である。
 九三には応爻がない。賢い師匠や善き友人の応援がない。事態が緊迫してくると、艮の主爻(止まる中核)と云う本来の役割に固執して、止まってはならない時や所でも止まってしまう。それゆえ、事態は悪化してよい方面には進んでいかないのである。
 止まることに固執するので、退くこともできない。背骨の左右の肉が裂けてしまうように、身体が正常な機能を失ってしまう。九三は図らずも、自らの意志と行動で下卦二陰と上卦二陰を断絶させて、のっぴきならない事態をさらに悪化させる。
 人を困惑させる人物は、その人物に困惑された人々からは「仇(かたき)」のように見える。それゆえ、その人物の身体に危険が及ぶ可能性が高く、心は常に不安な状態にある。それゆえ「厲(あやう)くして心を薫(や)く」と言い、また象伝には「其の限に艮(とど)まるとは、厲(あやう)くして心を薫(や)く也」と言うのである。
 「心を薫(や)く」とは、心の中に焦りが生じて、色々なことを考え慮(おもんぱか)り、一人苦しむようになることである。
 艮の卦は、上卦の山と下卦の山が相対峙している。高い山と低い山があるように、人間にも高い見識を有する人と有しない人がいる。下卦の山の頂上は上卦の山の麓よりも低い位置にある。下卦の極点に居る九三の最上の知恵は、上卦の極点に居る上九から見れば、箸にも棒にもかからない程度の知恵である。
 九三は互体(三四五)震の主爻として震え動こうとしても手も足も出ない。どんなにがんばってみてもどうにもならない。遂には心労が重なり、背骨が凝固して左右の肉が裂けて卒倒してしまう。このことを「其の夤(せじし)を列(さ)く」と言うのである。

六四。艮其身。无咎。
象曰、艮其身、止諸躬也。
○六四。其(その)身(み)に艮(とど)まる。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)身(み)に艮(とど)まるとは、諸(これ)を躬(み)に止むる也。
 人の身体を分けて考えれば、腰から上に身が詰まっている。六四は上卦に属するから腰から上の身。身の中の心に当たる。
 心は身を制御する働きがある。六四は柔らかい性質で正しい位を得ている。上に比する相手も下に応じる相手もなく、今の場所に一人止まっている存在である。
 大臣として、上に位置する王さまの不善を止め、下に位置する民衆の不善を止めようと思っているが、今の場所から動くことができないので、王さまの不善も民衆の不善も咎めることができない。それゆえ、天下国家を善き方向に導くことはできないが、自分の身を修めることはできる。
 天下国家を救うには才能が足りないが、天下国家を滅亡に追いやることはない。
 六四を初六・六二・九三の下卦三爻と比べると、やや善い内容の時である。だが、陰氣で柔弱な性格なので大事を為すことはできず、何も成果を上げられないので、「吉」という言葉は用いられない。只管(ひたすら)、自分の身を正しくして、天下国家の模範的な人物になろうと努力するだけである。
 それゆえ「其(その)身(み)に艮(とど)まる。咎(とが)无(な)し」と言う。何事も吉凶悔吝は行動する結果として生ずるものである。六四は動かないので何も問題は起こらないのである。
 また、下卦は行動を、上卦は言論を表している。六四は下卦と上卦の境に在るので、行動することもなく、言論活動を行うこともない。それゆえ何の問題も起こらないのである。
 象伝に「諸(これ)を躬(み)に止(とど)むる也」とあるのは、自分の分限を守り、言行を慎み抑制して、妄動しないことを云う。また、「身」は伸びることであるが、「躬」は屈(かが)むことである。伸びることも屈むことも自分の意志で行うことであり、人に頼ることではない。六四は柔弱で陰気な性格なので、屈むことはできても伸びることはできない。止まることはできても動くことはできないのである。

六五。艮其輔。言有序。悔亡。
象曰、艮其輔、以中正也。
○六五。其(その)輔(ほ)に艮(とど)まる。言(げん)序(じよ)有り。悔(くい)亡(ほろ)ぶ。
○象に曰く、其(その)輔(ほ)に艮(とど)まるとは、中正を以て也。
 「其(その)輔(ほ)」の「輔(ほ)」とは、口の回りの肉である。上卦艮は顎(あご)の形に似ているので、口の回りの肉とする。
 六五は陰爻陽位で中庸の徳を具えているので安定しており、物事を抑制する力がある。
 君子は言行を慎む。君主は言論が大事、臣下は行動が大事である。だから、君主が命令すれば臣下は命令に従って行動する。
 六五は君主の地位に在り天下国家を司っている。天下国家に命令を発するのが六五の役割。その言論は実に重大である。常に自分を戒め慎んでいるので「其(その)輔(ほ)に艮(とど)まる」と言うのである。
 「輔(ほ)=口の回りの肉」は、言葉を発するためにある。「輔(ほ)=口の回りの肉」を引き締めれば、妄りに言葉を発することはなく、適切な言葉を発することができるようになる。適切な言葉を発するようになければ、後悔することが少なくなる。「輔(ほ)=口の回りの肉」を引き締めれば、後悔することが少なくなる。
 若者はの経験が少ないので、年配の人に向かって徒(いたずら)に議論を挑む人が少なくない。このような若者を戒めているのである。世間知らずの頭でっかちが、無闇矢鱈に先輩に議論を挑んで論破したとしても、逆に世間から疎まれ嫌われるのがおちである。
 その口を無理矢理塞いで、言葉を制止するのではない。言葉を発する前によく慎んで考えてから発するべきなのである。よく慎んで考えてから言葉を発すれば失言することはない。それゆえ「言(げん)序(じよ)有り」と言う。よく時間をかけて考えてから言葉を発すると云う意味である。命令を出す場合には緩やかに出せばうまくいくことが多いが、急いで出すとうまくいかないことが多い。
 言葉を発する場合には、よく考えてから発すれば相手に受け容れられるが、何も考えずに発すると相手に受け容れられない。
 九三は下卦に居て動かない。六五の王さまにも仕えない。六二の忠臣と六四の大臣は陰爻で柔弱だから九三を動かすことができない。六五の王さまが後悔する組織的な要因である。
 このような組織的な要因がある中で、只管(ひたすら)柔順中正の徳(柔順な性質と中庸の徳で対応する正しい王さまの在り方)を守り、無闇矢鱈に言葉を発することを慎めば、頑固な九三も自然に王さまの人徳に帰服して、遂には王さまに仕えるようになる。
 それゆえ「悔亡ぶ」と言うのである。六五は陰爻陽位なので後悔する形だが、中庸の徳を具えているので、無闇矢鱈に言葉を発しない。それゆえ、後悔することがなくなる。
 象伝に「中正を以て也」とあるのは、六五の王さまは最後まで中正の徳を守ることを示しているのである。

上九。敦艮。吉。
象曰、敦艮之吉、以厚終也。
○上九。艮(とど)まるに敦(あつ)し。吉。
○象に曰く、艮(とど)まるに敦(あつ)きの吉は、終(おわり)を厚くするを以て也。
 上九は九三と同じ陽爻で止まる性質を有する艮の主爻である。高い山の形をしているので、高い見識を有する人物である。止まるべき所に止まり、人を思いやり、慈しみの心を具えた人である。風格を具えているので、泰山が聳え立っているようである。
 上九が止まっている姿はどっしりとして微動だにしない。その重厚な人格者の心を動かすことは誰にもできない。六五の王さまに適切なアドバイスを行う聡明な相談役である。
 九三は艮の時の半ばの段階だから、その段階に長い期間止まっているわけにはいかない。また、上卦艮に比べると下卦艮は低い山である。また、九三は互体(三四五)震雷の主爻でもあり、互体(二三四)坎の主爻でもある。色々な役割を担っているので、艮の時の中心的存在にはなり得ない。
 上九は艮の時の最上位に居て、最終地点である。高い山の頂上に辿り着いたので、ゆったりとその場所に止まることができる。艮の時の主爻として篤実に止まっている。
 それゆえ「艮(とど)まるに敦(あつ)し」と言う。「敦」とは「厚い」ことである。また「勤める」と言う意味がある。
 止まると云う言葉を発しない人は止まらないことがある。始めから止まることを前提にしているから止まることができる。事の始めに成し遂げようと云う意欲がないのだから、事の終わりに成し遂げられるはずがない。
 「艮(とど)まるに敦(あつ)し」とは、止まるべき所に止まり、終わりに至るので、心を移すことがないと云うことである。吉である所以である。それゆえ、「艮(とど)まるに敦(あつ)し。吉」と言うのである。
 吉とは、仁徳が盛んで、思いやりに満ち溢れて、光が遍く行き届いている状態である。
 象伝に「終(おわり)を厚くするを以て也」とあるのは、終身、安住の道を全うすることを云う。止る時の極地に在って、動くことを志すのである。
 一つの時代が終わろうとする時はよい時にはなりにくい。易経の物語においても、上爻の時は、水風井と火風鼎を除いて、「吉」の言葉は用いられない。八純の卦を上爻を見ると、乾為天は「悔い有り」、坤為地は「疑わしい」、坎為水は「凶」、離為火は「首を斬る」、震為雷と巽為風は「凶」、兌為沢は「兌(悦楽)」とあるが、艮為山には「吉」とある。
 艮為山の上爻のみならず、山火賁の上爻は「志を得る」、山地剝の上爻は「民を載せる所」、山天大畜の上爻は「道大いに行われる」、山風蠱の上爻は「志則る」、山雷頤の上爻は「大いに慶び有り」、山沢損の上爻は「大いに志を得る」、山水蒙の上爻は「上下順なれば」とある。いずれも、艮為山の上爻のように「終を厚くする」とあることがよい時になっている理由である。
 繋辞伝に「吉凶悔吝動に生ず乎(や)」とある。世の中の事は、動くことによって凶運を招き寄せることが多く、吉運を招き寄せることは少ない。上九が止まるべき所に篤実に止まるから、問題を起こすことなく、「吉」で終わるのである。
 

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