呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 313 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

41.山沢損

□卦辞(彖辞)
損、有孚。元吉无咎。可貞。利有攸往。曷之用。二簋可用亨。
○損は孚(まこと)有り。元吉。咎(とが)无(な)し。貞にす可(べ)し。往く攸(ところ)有るに利(よろ)し。曷(なに)をか之(これ)用ひん。二簋(き)、用て亨(とお)す可(べ)し。
 山沢損は上卦艮、下卦兌。艮は山、兌は沢。山の下に沢がある形である。上卦の山は高過ぎて、下卦の沢は低すぎる。彼(ひ)我(が)の関係が隔絶して、互いに気持ちが通じ合わない。
 内卦と外卦と云う切り口で見ると、内側が損して外側を益する。内卦沢の水が水蒸気となり上昇し外卦山を潤して山を益するが、山は沢に恩返しをしない。深く水を貯えている沢が損して、高い山を益するのである。
 卦全体の形から見ると、山には水分がなければ草木が生えない。草木が生えなければ、雨露が沢の中の水を潤さないので、沢に生息している水草は育たないので、魚や亀も生きていくことができない。山も沢も共に益するところがない。
 兌の性質は「悦ぶ」ことであり、艮の性質は「止まる」ことである。「止まる」とは進まないことであり、勤勉ではない(すなわち怠惰である)ことである。大体人間というものは、善であることを善しとする。努力もせずに、人の道を歩もうとして進んでいかなければ、益するところはどこにもない。それゆえ、この卦を「損」と名付るのである。
 「損」とは、「減少」すること、「喪失」すること、「欠乏」することである。風沢益の「益」とは反対の概念である。

□彖伝
彖曰、損、損下益上、其道上行。損而有孚。元吉无咎。可貞。利有攸往。曷之用。二簋可用亨。二簋應有時。損剛益柔有時。損益盈虚、與時偕行。
○彖に曰く、損は下を損して上を益し、其の道上り行く。損して孚(まこと)有り。元吉。咎(とが)无(な)し。貞にす可(べ)し。往く攸(ところ)有るに利し。曷(なに)をか之(これ)用ひん。二簋(き)用て亨(とお)す可し。二簋は應(まさ)に時有るべし。剛を損して柔を益すには時有り。損益盈(えい)虚(きよ)、時と偕(とも)に行う。
 この卦を人事(人間社会)に当て嵌めると、何かを「損失」するしかない時、何かが「減少」するしかない時である。
 「損」には善悪正邪の区分がある。善と正に区分されるのは「真心」があるのに損する場合である。悪と邪に区分されるのは「真心」がないのに損する場合である。
 「真心」があるのに損する場合は、結果的には大きな吉運を招き寄せる。「真心」がなくて損する場合は、大きな凶運を招き寄せるのである。損の時には、損することにより吉運を招き寄せる場合と、凶運を招き寄せる場合とがある。
 邪淫・極楽・驕奢の類いで財産を使い果たしたり、持っている貯金を使い果たしてまで、贅沢な生活を続けようとする人は、「損」して凶運を招き寄せるのである。これに対して、私利私欲を抑えたり、贅沢を抑制したりする人は、「損」して吉運を招き寄せる。それゆえ「損は孚(まこと)有り。元吉。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「損」の道を全うするのは常に固く正しくなければならない。自分が損失しても相手に利益を与えられるのは、正しさを守り思いやりのある人物である。それゆえ「貞にす可し」と言うのである。
 所有している物を失うのは、運気の流れだから、逆らえないことだが、安楽に坐したまま失ったことを傍観していてはならない。自ら進んで行って取り戻そうとすべきである。それゆえ「往く攸(ところ)有るに利し」と言うのである。
 「曷(なに)をか之(これ)用(もち)ひん」とは、聖人が私たちに「損の道を全うせよ」と、問いかけているのである。「損」して吉運を招き寄せることの大義を諭(さと)し示しているのである。
 例えば、神仏をお祀りする場合、真心から神仏を尊崇することが本義であり、適切な時期を選んでお祀りすることが時(じ)宜(ぎ)である。このように対処するから神仏が喜んでくださるのである。供え物の多寡は関係ないのである。真心を尽くせば、供え物が少なくても、神仏は喜んでくださる。真心を尽くして尊崇する気持ちがあれば、供え物が少なくても、神仏をもてなすことができるのである。以上のことを「二簋(き)用て亨す可し」と言う。神仏をお祀りすることも、天下国家の問題に対処することも同じことである。
 損の時の気運は、地天泰の時から来ている。泰の時の九三が上昇して上爻に止まり、上卦艮の主爻となり、泰の時の上六が下降して三爻に来て、兌の主爻となったのである。
 泰の下卦の陽爻を一つ損失して、泰の上卦の陰爻が下卦に組み込まれ、上卦には下卦の陽爻が組み込まれる。このことにより上卦を益することになる。泰の下卦乾は全て陽爻で剛健かつ富貴に過ぎるので、一つ陽爻を損失したとしてもさほど影響はないのである。
 泰の上卦坤は全て陰爻で柔弱かつ虚無に過ぎるので、一つ陽爻を加えて補強したのである。以上のことを「損は下を損して上を益し、其の道上り行く」と言うのである。
 雑卦伝に「損益盛衰の始め也(損益は盛衰の始めである)」とある。上位に居る人物(人々)が損失を被ることにより、下位に居る人物(人々)が利益を得ることは、物事(社会や組織)が盛んになっていく始めの段階である。下位に居る人物(人々)が損失を被ることにより、上位に居る人物(人々)が利益を得ることは、物事(社会や組織)が衰退していく始めの段階である。
 山沢損は地天泰から変じた形、風雷益は天地否から変じた形である。山沢損は二爻と五爻の位が不正で、風雷益は二爻と五爻の位が正しい。社会や組織が衰退していく始めの段階にあたる山沢損の二爻と五爻の位が不正で、社会や組織が盛んになっていく始めの段階である風雷益の二爻と五爻の位が正しいことは、理に適っている。
 余っている何かを減らし、不足している何かを増やすことは、双方が調和することにつながる。相手が喜ぶことを強引に行うのではない。自分が止まることに固執するのでもない。欲が少ないから心が清く、求めることが少ないから、心は満たされている。それゆえ「損して孚(まこと)有り。元吉。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 損の時は全ての爻が陰陽応じる関係にあるので、下の位の人物(人々)は上の位の人物(人々)に喜んで応じており、上の位の人物(人々)は下の位の人物(人々)を肯定的に受け止めている。お互いに認め合っているのである。山(上の位の人)と沢(下の位の人)の気が通じるのは真心があるからである。
 損の時は、人情だけで成り立つわけではないが、人情に欠ける人は、君子を憎んで堕落しかねない。
 粗末なお供え物でも、神仏をお祀りすべきであり、神仏を通じて祖先に感謝すべきである。大事な事は真心があるかないかである。それゆえ「貞にす可し。往く攸有るに利し。曷をか之用ひん。二簋(き)用て亨(とお)す可し。二簋は應(まさ)に時有るべし」と言うのである。
 粗末なお供え物を用いるのは、損の時には真心が大事だと云うことである。二簋とは、粗末なお供え物のことであり、下卦兌の二つの陽爻を示している。
 「孚有り。元吉」とは、上卦の段階を解説しており、「貞にす可し。往く攸有るに利し。曷(なに)をか之用ひん。二簋(き)用て亨(とお)す可(べ)し」とは、下卦の段階を解説しているのである。
 損の時は、何事も喜んで抑制することが肝要である。強いから損失を被るわけでもなく、弱いから利益が得られるわけでもない。しかるべき時だから損失を被るのであり、しかるべき時だから利益を得られるのである。進み行く時には進み行けば何とかなる。誰かが満たされるのは、誰かが損をしているからであり、誰かが無心で損失を受け容れるからである。
 陰陽消長の循環は人智の及ぶところではない。それゆえ「剛を損して柔を益すに時有り。損益盈(えい)虚(きよ)、時と偕(とも)に行う」と言う。

□大象伝
象曰、山下有澤損。君子以懲忿塞欲。
○象に曰く、山の下に澤有るは損なり。君子以て忿(いか)を懲(こ)らし欲を塞(ふさ)ぐ。
 大地を増やすと(益せば)山となり、大地を減ずると(損すれば)沢となる。山と沢は大地が損益した結果である。沢の氣(水蒸気・水分)が行き渡れば草木を養い、山の氣(大地の養分)が行き渡れば魚や亀を養う。以上が沢山咸の形である。
 この卦は山と沢が向かい合っているが、(山は止まり、沢の水は下に向かうので)通じ(感じ)合わない。それぞれが通じ合わなければ、山には草木が生じないし、沢には魚や亀が育たない。終に山は崩れて沢は涸れる。それゆえ、この卦を咸と名付けた。
 人情の中で発しやすく制御し難いのは「忿(ふん)怒(ど)」である。盛んになりやすく絶つことが難しいのは「欲望」である。
 君子たるもの、抑制しなければならないのは、忿怒と欲望との二つであることを知り、忿怒が徳を害することを客観的に認識して、中庸の徳を磨いて和合する心を養い、心の中にある氣(エネルギー)が暴発しないように抑制すべきである。
 欲望は徳を害して性格を歪めること甚だしい。このことをよく反省して、欲望を制御するように心がけ、欲望が湧いてくる大本の要因を塞いで、無尽蔵に湧いてくる欲望を抑制する心を養う(人徳を益する)べきである。以上のことを「忿を懲らし欲を塞ぐ」と言う。
 発しやすく制御し難い「忿怒」の心は陽の働きに属する。ひとたび「忿怒」を発すると、その毒のあるエネルギー(毒気)はもの凄い勢いで山が聳え立つように充満して、多くの人々に害悪を及ぼすので、絶対に抑制しなければならない。害悪が及ぼす悪影響は深い谷のように深刻である。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。已事遄往。无咎。酌損之。
象曰、已事遄往、尚合志也。
○初九。事を已(や)めて遄(すみや)かに往く。咎(とが)无(な)し。酌(く)みて之を損(へら)す。
○象に曰く、事を已(や)めて遄(すみや)かに往くとは、尚(かみ)、志を合わする也。
 初九は陽爻陽位で才能と志が高く、六四の大臣と陰陽正しく応じている。賢人が下の位に居て力を尽くし、上位に居る人々に利益を与える形である。
 今は己を損して人を益する損の時ゆえ、力を尽くして、速やかに六四を助けるべきである。損の時に対処するやり方である。
 けれども、自分のことを優先して他のことを顧みず、六四を見捨てるようであれば、問題が起こる。それゆえ「事を已(や)めて遄(すみや)かに往く。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「事を已(や)めて」とは、自分のことは顧みない(で六四を助けに行く)と云うことである。六四は要職にあり、初九は民間人なので、初九が六四を助けに行っても、何も問題は起こらない。
 初九は陽剛の性質で位が正しいので、民間人の中に居る賢人である。六四は政治を司る大臣だが、陰柔の性質で才能が乏しく弱々しい大臣である。弱々しい大臣を救うのは、火災に巻き込まれた人を救い出すように迅速でなければならない。
 しかも、状況を正しく判断して適切に行動することが求められる。だが、勢いだけで助け出そうとすれば、元気が空回りして、六四を助け出すことができない。また、慎重でありすぎれば、火災は益々激しくなり、結局助け出すことができない。
 初九が六四を助け出すためには、六四が置かれている状況を正しく把握し、最も適切なやり方で助け出すことが肝要である。
 世を正して国を治めるやり方も同じである。世を正して国を治めるためには、蓄えておいた予算を切り崩してでも、世の中に不足しているものを補うことが肝要である。治国の要は公正公平を尊ぶことにある。それゆえ「酌(く)みて之を損す」と言うのである。
 初九は(下卦)沢を水として、(上卦)艮を手とする。上卦艮(手)に属する六四には(手で水を)酌(く)むという形がある。
 酌むという字は、上卦艮の手が下卦兌沢の水を掬(すく)い取るのに丁度よい量であることを表している。
 丁度よい量の水を掬い取るためには、その時に中ることが必要なことを説いているのである。また、上卦が下卦の水を掬い取り過ぎないようにと戒めているのである。
 象伝に「尚(かみ)、志を合わする也」とあるのは、六四は自分に才能がないことをよく反省し、大臣の地位にあっても、決して驕り高ぶることなく、初九の賢人に謙って対応すると云うことである。
 初九の賢人もまた、調子に乗ることなく、自分のことはさておき、六四の下に馳せ参じて、自己犠牲の限りを尽くして六四を救い出そうとする。初九と六四は志を同じくするのである。

九二。利貞。征凶。弗損益之。
象曰、九二利貞、中以爲志也。
○九二。貞に利し。征くは凶。損(へら)さずして之を益(ふや)す。
○象に曰く、九二、貞に利しとは、中以て志と爲す也。
 九二は剛健にして中庸の徳を具えて、六五と陰陽正しく応じ合う関係にある。六五を補佐する大臣のような地位に在り、民衆と親しみ合う関係を構築している。
 損の時に対処して、下に居る自分が損失を被ることによって、上に居る六五が利益を得るためには、正しい道と不正な道があることをよく考えることが肝要である。
 下の位の人々が損失を被ることによって、結果的に国家の活動に支障が出るようなことがあってはならない。それゆえ、そうならないように「貞に利し」と言うのである。
 「征くは凶」の「征く」とは、民衆が一方的に損失を被ると云うことである。民衆から取れるものは取って、政府の予算に充てようとするのは、道義的に許されるものではない。下が損することが、恒常的にあってはならないのである。
 九二は民衆の中心で働いているのであるから、自ら損することがあってはならない。初九は、一番下の位に居るので、身を粉にして損失を被ることにより、国に報いたのである。
 九二は心労に苦しむ地位に居て、節義を大切にしている。利益を得ることや禄を食むことを軽蔑している。世のため人のために対策を講じるが、自分の利益は全く考えず、どっしり構えて清貧に甘んじる人物である。それゆえ「征くは凶」と言い、一方的に損失を被ることがあってはならないと戒めている。
 理想的には、下が損して上が益するという損の時にあっても、下である民衆が損することなく、上である国家が利益を得る道を求めるべきである。
 事業を遂行すると云う切り口で、損の時を考慮すれば、土地を活用するために、荒れた土地を開墾し、また山林を手入れし、河川の溝を浚(さら)って、土地の価値を高めることなどが考えられる。
 そのためには、驕(きよう)奢(しや)(傲慢で贅沢)な行為を禁止して、怠惰な人々を許さず、男女関係の乱れを矯正する、すなわちそれら悪の要素を損する(取り除く)のである。そのことによって、世の中に有益に作用する事業を推し進めるべきである。
 道理において、損の道を考慮すれば、民衆は国家の宝である。政府(国家)の下に居る民衆が損失を被らなければ、民衆は豊かになる。民衆が豊かになれば、経済が活性化するので国家が利益を得る。国家が繁栄して、民衆が豊かになれば、君主にとってこれほど幸せなことはない。
 論語に「百姓足らば君孰(たれ)と與(とも)に足らざらん」とあるのと同じである。これは下に居る民衆が損失を被ることなく、上に在る国家が利益を得る道である。
 今は九二の大臣が親しく民衆と接する時だから、民衆に損失を与えないようにと戒めて、「損せずして之を益す」と言う。
 余っている人々が損して、不足している人々を益するのが損の道である。九二も応ずる六五も中庸の徳を具えているから、九二が損失する必要はない。九二が損失すれば、共に中庸の徳を失うことになる。下を損して上を益するのは、乱れている世の中の常である。九二は剛健中庸の才能と人徳によって、乱れている世の中を正すべきである。
 国家が繁栄して民衆が豊かになるために、仁政を行い、国家も民衆も損失を被ることがない中庸の道を歩むべきである。それゆえ、象伝に「中以て志と爲す也」と言うのである。
 占ってこの爻を得たら、清く修めて謙る美風を尊崇し、人の道を正しく歩めば、上の人々は君主を尊敬するようになり、下の人々は争い合うことがなくなる。下の人々も上の人々も共に損失を被ることなく、利益を得るのである。
 名を上げ、富を得るために人の道を踏み外せば、恥をかいて凶運を招き寄せることになる。下が損する時にあっても、下に居る人々が大きく損失してはならない。大きく損失すれば、卑しい立場に甘んじることになる。
 上に居る人々は利益を得すぎてはならない。利益を得すぎれば、傲慢に傲慢を重ねることになる。
 聞くことも見ることも食べることも嗅ぐことも、利益を貪るのは、皆、上の位に居る人々である。下の位に居る人々は上の位の人々のように利益を貪らないのである。
 上の位に居る人々は、利益を貪る心を抑制して、下の人々に感謝すべきである。上の位に居る人々は下の位に居る人々が損失を被ることがないように配慮することが求められる。
 以上のようであれば、下の位の人々は損失を被ることなく、上の位の人々は利益を得ることができる。損することは、すなわち益することなのである。

六三。三人行則損一人。一人行則得其友。
象曰、一人行、三則疑也。
○六三。三人行けば、則ち一人を損す。一人行けば、則ち其の友を得。
○象に曰く、一人行くとは、三なれば則ち疑う也。
 六三は地天泰の上爻(陰)が三爻(陽)と入れ替わった形。三爻は天地人三才における人の位(上と五が天、四と三が人、二と初が地)なので、「三人行けば、則ち一人を損す」と言う。
 地天泰の下卦乾の三陽の中で三爻が上爻と入れ替わって山沢損の形になった。その結果、地天泰の下卦乾は兌となって陰の性質を有するようになった。三爻の中の一つの爻が陰爻となって損失したのである。変易の一つの例である。
 地天泰の三爻が下卦三陽の中で独りだけ上爻と入れ替わって上九と六三となった(すなわち、地天泰の形が山沢損の形になった)。下卦乾が兌に、上卦坤が艮に変化したのである。
 一陽と一陰が入れ替わった結果、下卦を損して上卦を益することになった。陽爻と陰爻が入れ替わったので、山沢損の三爻と上爻は陰陽応じる関係である。
 一つの変化があらゆる変化に通ずる。天地の変化も男女の変化も、一つの変化から始まる。天下万物みな陰陽消長するのである。
 六三は下卦の上に在り、上九と応じている。下を損して上を益するのは、六三が損して上九が益すると云うことである。
 また、六三は下卦兌の主爻なので「損」と名付けた。六三が上九と入れ替わって、下卦の陽爻が損失することから、山沢損の卦が成立していることを知っておくべきである。
 「一人行けば、則ち其の友を得」とは「友と和合する」ことである。陰は陽を友とするし、陽は陰を友とする。妻が夫を求め、夫が妻を求めるのと同じである。
 君子として世の中に貢献するためには、社会的地位に相応しい仕事をしなければならない。人と同じ仕事をしていたのでは、誰も尊敬してくれないのである。
 王さまに仕事で仕えるに中って、明るく善き心で対応すれば、足りないところを補って余りある。それが王さまと臣下が助け合い補い合うやり方であり、下を損して上を益する道である。
 象伝に「三なれば則ち疑う也」とあるのは、三爻は下卦兌の主爻で、民衆のリーダーである。だが、民衆が揃って行動すれば、色々な意見が噴出して足並みが揃わないので上九から疑われる可能性がある。そこで、三爻は民衆から抜け出して、上九と和合一致するために一人で上九の下に馳せ参ずるのである。

六四。損其疾。使遄有喜。无咎。
象曰、損其疾、亦可喜也。
○六四。其の疾(やまい)を損(へら)す。遄(すみや)かならしむれば喜び有り。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其の疾(やまい)を損(へら)すとは、亦、喜ぶ可き也。
 六四は陰爻陰位で位正しいが、六五の王さまとしっくりいかない関係である。王さまの側近として大臣の地位に在るが、柔弱で才徳乏しいので、その役割を全うできない。
 王さまを補佐して国を治め、民衆を安寧に導くことができないので、いつも忸怩たる思いを払拭することができない。
 幸いなことに、六四は剛健の性質を具えた初九と陰陽応じているので、恭しく初九を招(しよう)聘(へい)して大臣の役割を補佐してもらう。そうすれば、間違いなく国政を治めることができる。
 どんな病気でも名医をもってすれば治癒する。損の時だから、「其の疾(やまい)を癒(いや)す」と言わずに「其の疾(やまい)を損(へら)す」と言うのである。六四は王さまを補佐する大臣の地位に在りながら、柔弱で才徳が不足しているので、その役割を全うできないという重病に罹(かか)っている。その病を速やかに治療することが求められる。
 もし、速やかに対応できずに治療が遅れれば、病状は益々悪化して、治療することができなくなってしまう。これは、国勢が衰退して民衆の心が離れ、国勢を復活させることができない事態である。実に大きな問題なので、こうならないように戒めて「遄(すみや)かならしむれば喜び有り。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 病状が悪化すれば心配するが、病状が改善すれば誰もが喜ぶ。人間に例えれば、病気による苦痛を治癒すること。国家に例えれば、驕り高ぶりや贅沢によって国が乱れる状態を改善すること。これは、上の地位に在るものも、下の地位に在るものも、貴い身分の人も、卑しい身分の人も誰もが喜ぶところである。
 それゆえ、このことを説明して、象伝に「其の疾を損(へら)すとは、亦、喜ぶ可き也」と言うのである。
 下が損して上が益することには限界がある。初九が速やかに馳せ参ずることによって、六四の病状が改善すれば、初九も六四も共に喜ぶ。初九の立場から見れば、六四が求める前に馳せ参ずれば六四の喜びは半減する。それゆえ、馳せ参ずるタイミングを計ることが肝要である。
 六四の立場から見れば、病状が悪化するから、初九が馳せ参ずるのである。すなわち、六四の病状が悪化することにより、初九が馳せ参じて治癒するから共に喜びがあるのである。

六五。或益之。十朋之龜弗克違。元吉。
象曰、六五元吉、自上祐也。
○六五。或いは之を益す。十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)も違(たが)ふ克(あた)はず。元吉。
○象に曰く、六五の元吉は、上より祐(たす)くる也。
 「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)」とは、大きな貝殻のことだと、中国の書物に書いてある。昔は貝殻が宝物であった。「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)」とは高貴な宝物の例えである。「龜(き)」には霊性があるから、吉凶を予知する。それゆえ、占いの道具となる。
 六五は柔順な性質で中庸の徳を具えた王さまである。剛健で中庸の徳を具えた九二の賢臣と陰陽正しく応じているから、国政を九二に任せる。六五は剛健で明智を有する上九の相談役と陰陽正しく比しているので、上九のアドバイスで王さまとしての役割を全うする。下には優れた賢臣が居て補佐してくれる。また、上にはアドバイスをしてくれる素晴らしい師匠が居る。それゆえ、大いに王さまとしての役割を全うするのである。
 王さまが人徳を磨けば、天下の人々もまた大いにその恩恵を受ける。この卦は、上卦の三爻はみんな利益を得る時だが、六五は利益を得る時の王さまだから敢えて利益を求めない。
 利益を求めないのに、利益が転がり込んでくる。それゆえ「或いは」と言う。「或いは」とは、「意外である」と云うことである。意外な利益を得るので、君子は疑いを抱いて占いに問いかける。占いの結果が「吉」であることは当然のことである。それゆえ、「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)も違(たが)う克(あた)はず。元吉」と言うのである。
 象伝に「上より祐(たす)くるなり」とあるのは、「天が助けてくれる」と云うことである。爻の形から見ると、上とは上九の師匠を指している。上九は善きアドバイスで六五を教え導く。
 誠に信頼できる師匠である。六五は上九から道義を学び、善き影響を受ける。六五は九二が賢臣であることを見抜いて、九二に国政を任せる。民衆は六五の君徳を賞賛する。

上九。弗損益之。无咎。貞吉。利有攸往。得臣无家。
象曰、弗損益之、大得志也。
○上九。損せずして之を益す。咎(とが)无(な)し。貞にして吉。往く攸(ところ)有るに利(よろ)し。臣を得て家(いえ)无(な)し。
○象に曰く、損せずして之を益すとは、大いに志を得る也。
 上九は損の終局に居て、損が窮まり益に転ずる局面に在る。上卦艮の剛健で篤実な人徳を具えて、六五の王さまを教え導く師匠である。君子が王さまにアドバイスする時は、自分の財産を投げ捨てて王さまに尽くすわけではない。王さまを教え導くために、道徳心を涵(かん)養(よう)して仁義の大切さを伝え、民衆から尊崇される王さまになるように教え導くのである。
 すなわち、下の位に居て、上九と応じている六三が、損失を被ることがないように配慮する一方で、王さまに尽くして、民衆に慈雨を施す。以上のように何の問題もない師匠だから、「損せずして之を益す。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 上九は、多くの人を動かして民衆に恩恵を施すのではない。自ら怠惰や奢(しや)侈(し)を禁じて、民衆に慈雨を施そうとするから、民衆から尊崇されて、結果的に自らの評価を上げるのである。
 民衆に損失を被(こうむ)らせることなく慈雨を施して、自らも民衆から尊崇されて評価を上げる。誰も損せずに益する道を歩むのである。
 「往く攸(ところ)有る」とは、六三が上九の下に馳せ参ずることである。上九は六三が馳せ参ずることによって利益を得るが、何もしなければ只利益を得ただけで終わる。得た利益を恩沢に易えて下々に与えなければならない。それができなければ恥ずかしいことである。
 人を教え導く人物は、高い位に居ても驕り高ぶらない。志を体現して常に正しさを固く守ってこそ人を教え導く資格がある。それゆえ「貞にして吉。往く攸(ところ)有るに利し」と言うのである。
 「臣を得て家(いえ)无(な)し」の「臣」とは、親しく身近な人々、すなわち、上九が教え導く数え切れないほどの臣民を指している。「得る」とは、数多くの臣民が上六に帰服していることを言う。「家(いえ)无(な)し」とは、上九が施す恩沢が限りないことを云い、また、上九の恩沢を及ぶ範囲が限りないことを云う。
 上九の恩沢が広く臣民に普及して、その影響力が大きいのは、上九が六五の王さまの師匠として、誰よりも先に王さまを教え導くからである。王さまを正しい方向に教え導けば、その影響は広く臣民全体に及び、天下の人々は全て上六の教えに従うようになる。
 上九は自分の家よりも公を大切にして臣民を教え導くことから「臣を得て家无(な)し」と言う。また、六五の王さまも謙譲の心で臣民に接するから、臣民は六五に帰服している。王さまはこのようでなければならない。臣民のことを大切に考える王さまが、どうして自分の利益を優先するであろうか。
 「家无(な)し」とあるのは、上九は公を大切にして私のことなど考えず、国を治めることに熱心なあまりに自分の家のことなど忘れてしまうと云うことである。
 六三は上九によって活かされ、上九は六三によって臣民から帰服される。下々が上九を尊崇するから、六三は上九に忠実に尽くすことができるのである。
 象伝に「大いに志を得る也」とは、上九は自分が修行して体得したことに基づいて、六五の王さまを教え導き、多くの臣民がその恩沢を得るので、上九は何ら自分のことを恥じることなく、損の道が成就すると云うことである。
 損の道は財政を損ねず、民衆の富を損なわない。損して益するから、臣民は納得する。臣民が喜ぶのは損の道が成就したからである。天下国家は大いに利益を得る。政治の王道である。その政治の恩沢は民衆に及ぶ。どうして責めることができようか、それゆえ「大いに志を得る也」と言うのである。

 

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