呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 312 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

40.雷水解

□卦辞(彖辞)
解、利西南。无所往、其來復吉。有攸往、夙吉。
○解は西南に利(よろ)し。往(ゆ)く所无(な)ければ、其れ來(きた)り復(かえ)りて吉。往く攸(ところ)有れば、夙(はや)くして吉。
 雷水解は、下卦坎、上卦震。震は雷、坎は雨。雷が轟き、雨が降る形である。坎の冬から震の春に移行する時に、冬の寒気が漸く緩んで、春の暖かい雨が降る。また、春の暖かい風が吹くようになると、固い氷が溶けて、昆虫や草木が眠りから覚めて成長を始める時。それゆえ、この卦を解と名付けたのである。
 解の字は、角と刀と牛の字からできている。すなわち、刀で牛の角をバラバラにする意味。また、物事が解体してバラバラになると云う意味である。上卦と下卦を入れ替えれば、水雷屯となる。すなわち、水雷屯と雷水解とは表裏一体なのである。困難な状況の中で動いて困難を克服しようとするのが水雷屯。その結果、困難から脱出したのが雷水解である。

□彖伝
彖曰、解、險以動、動而免乎險解。解利西南、往得衆也。其來復吉、乃得中也。有攸往、夙吉、往有功也。天地解而雷雨作、雷雨作而百果草木皆甲坼。解之時、大矣哉。
○彖に曰く、解は險にして以て動き、動きて險を免(まぬか)るるは解なり。解は西南に利(よろ)しとは、往きて衆を得(う)る也。其れ來(きた)り復(かえ)りて吉とは、乃ち中を得(う)る也。往(ゆ)く攸(ところ)有れば、夙(はや)くして吉とは、往きて功有る也。天地解けて雷雨作(おこ)り、雷雨作りて百(ひやつ)果(か)草(そう)木(もく)皆(みな)甲(こう)坼(たく)す。解の時(とき)大(だい)なる哉。
 この卦を人間社会に当て嵌めれば、蹇の困難が長く続いたが、困窮する人や辛苦する人々の運気が漸く上向くようになって、困難から脱出しようとする時である。しかも追い風が吹いているので、困難から脱出するのは時間の問題である。
 内卦には坎の険難が居座っており、二爻は険難の中に陥っているが、剛健中庸の徳を具えているので、険難をものともしない。外卦から観ると、震の雷は発奮して激しく動くので、険難な時を脱出する氣力を具えている。険難に遭遇して克服できるのは、氣力に満ち溢れて才能が溢れ出ている人物である。
 解は水山蹇の艱難から完全に脱出する時だが、その運気に乗って、溢れ出る氣力と才能を妄りに用いることなく、怠ることもない。進退、その時々に適切に対処しており、毎日学問を積み上げ、険難をものともしない。それゆえ、終に険難から脱出することができる。以上のことを「解は險にして以て動く。動きて險を免るるは解なり」と言うのである。
 「動く」という言葉が二回使われている。力強く動きなさいと云うことである。力強く動くから、背き合い、乱れ、危険が迫り、お互いに疑い合う険難の時に対処して、乱れを治めて、険難を克服し、険難の時を完全に脱出することができるのである。
 九四は上卦震の主爻。陽爻陰位ゆえ剛健に過ぎない。六五と上六が九四に順って動く。九四に助けてもらうのである。九二の陽爻が陰爻に挟まれているのは自分の過失によって罪を犯すか、または、無罪の罪(冤罪)に陥る形である。
 九二は、この卦の物語の中で一番危険な段階である。速やかに誤解を解いて冤罪を免れなければならない。それゆえ初六は九二の危険を察して、九二が険難に陥ることを回避すべく九二を助けるべきである。また、初六に過失がある場合は、できるだけ早い時期に反省して改心し善行を積み上げるべきである。以上が「西南に利し」という文章の意味である。
 やがて、蹇の困難から完全に脱出する。その状態に全く問題がない場合は、よく安静にして動かないことが肝要である。このようであれば、九二の陽爻が初六を助けてくれる。このことを「其れ來(きた)り復(かえ)りて吉とは、乃ち中を得(う)れば也」と言うのである。
 また、九四の段階に至れば、どんどん進み行く盛運の時が到来する。九四は初六が険難に陥りそうになるのを救う人物である。その動きは、誰にも予測できないほど、活発で迅速なことが求められる。迅速に対応すれば初六を救うことができるが、対応が遅れれば初六を救うことはできない。それゆえ、躊躇してはならない。以上のことを「往(ゆ)く攸(ところ)有れば、夙(はや)くして吉とは、往きて功有る也」と言うのである。
 水雷屯の時は、下卦震の雷が動いて困難を克服しようとするが、上卦坎の困難が上から覆っているのでどうすることもできない。天地の氣は交わることなく、陽氣は伸びることができない。けれども、雷水解の時に至れば、水雷屯の困難からはすでに脱出しているのである。天地の氣が交わり、雷雨が大地の慈雨となり、草木が成長して実が成り、天地万物豊かになる。
 人間社会に当て嵌めれば、水山蹇の時は上卦坎水の小人が上に跋扈して、人々を抑圧するので、君子は足の不自由な人のように、前に進み行くことができない。だが、今は天運が循環して、君子は抑圧から解放され、困難から脱出して、雨はやんで晴天となる。このことを「天地解けて雷雨作り、雷雨作りて百(ひやつ)果(か)草(そう)木(もく)皆(みな)甲(こう)坼(たく)す。解の時(とき)大(だい)なる哉(かな)」と言うのである。
 雷水解の時は、柔順中庸の徳を具えた六五の王さまが君主の位に就いて、剛健の徳を具えた九四の大臣と協力し合い、また、剛健中庸の徳を具えた忠臣九二に慕われている。そこで、六五の王さまは九四の大臣と九二の忠臣に国の政治を任せる。九四と九二は剛健の才徳を発揮して、天下国家を覆っていた困難を完全に克服する役割を全うするのである。
 九四の大臣は地水師の時に、大将として活躍した人物であり、常に王さまに信頼され、王さまに仕える役割を全うし、ここぞという時には軍隊を率いて勝利を招き寄せる人物である。
 雷水解の時は、水雷屯と水山蹇の困難から完全に脱出して天下国家を安泰に導くことが求められる。それゆえ、武力を用いて困難を一掃することも必要となる。
 九四の大臣は地水師の大将(九二)のように、兵隊を率いて西南の方向に進み行き、権威を示して水雷屯と水山蹇の困難から完全に脱出する。このことを「解は西南に利しとは、往きて衆を得る也」と言うのである。
 武力を用いないで困難から脱出することができるのならば、速やかに軍隊は撤退させ、天下国家を治めるべきである。このことを「其れ來(きた)り復りて吉とは、乃ち中を得(う)れば也」と言う。
 卦辞・彖辞に「往(ゆ)く攸(ところ)无(な)し」とあるのは、何も行わなくてもよろしいと云うことである。水雷屯と水山蹇の困難から完全に脱出したので、何もしなくてもよいのである。また「來り復り」とあるのは、「往く」必要がなければ「來り復り」静かに安んじているがよろしいと云うことである。
 だが、まだ完全に解決していない問題があれば、速やかに解決を図るべきである。(事を行うのに適切な)時機を得ることは難しく、あっという間に失うものである。それゆえ、問題の解決はできるだけ早い時期に速やかに行うべきである。対処する時機を失するとなかなか解決しない。一寸でも対応が遅れて、時機を失することがあれば、困難を完全に解決することはできない。一応は解決したと思っていても、どこかしら不安が残っていたら、躊躇することなく、速やかに問題を解決すべきである。
 問題を解決することは火を消し止めるようにすべきである。火事を防ぐ(困難を解決する)ためには、出火の初期の段階で消火(困難が深刻にならないうちに解決)しなければならない。もし消火(対応)が遅れたら、あっという間に燃え広がってしまう(困難がより深刻になってしまう)。それゆえ、迅速に消火(解決)しなければならない。このことを「往(ゆ)く攸(ところ)有れば、夙(はや)くして吉とは、往きて功有る也」と言うのである。
 「天地解けて雷雨作り、雷雨作りて百(ひやつ)果(か)草(そう)木(もく)皆(みな)甲(こう)坼(たく)す」とあるのも、自然が循環しているのは、自然は何も躊躇することなく、速やかに時に対応しているからだと云う意味である。

□大象伝
象曰、雷雨作解。君子以赦過宥罪。
○象に曰く、雷雨作るは解なり。君子以て過(あやまち)を赦(ゆる)し罪を宥(なだ)む。
 雷水解は、下卦坎を冬、上卦震を春とする。下卦坎の厳しい冬が終わり、上卦震の春がやってくる形である。上卦震雷の陽氣が上昇して、下卦坎の慈雨となる。「雷雨作る」の「作る」とは動くことである。上卦震雷・下卦坎水が共に動くのである。
 雷雨は陰陽が和合して、それまで塞がっていたエネルギー(氣)が活発に動き始めるので、万物は生成発展するのである。天地万物が生成発展するのは天の道の仁(思いやり)である。天地が陰陽和合するから屯・蹇の困難から脱出できるのである。
 震の雷は天の権威、坎の雨は天の潤いである。権威の中に潤いがあるのは、厳しい中に優しさがあるのである。蹇の時は険難に遭遇して、民衆は安心して暮らしていけない。君子は天地の理(ことわり)を熟知しているので、人々が小さな過ちを犯しても、厳しく咎めたりはしない。天地が険難を招き寄せて、民衆が苦しんでいる時には、民衆に対して寛大である。
 「過(あやまち)を赦(ゆる)し」とあるのは、災難を許すことである。「罪を宥(なだ)む」とは、疑わしくても証拠がない場合には罪を軽くすると云うことである。以上のようならば、雷が轟けば震え上がるように、民衆は萎縮することなく、慈愛に満ちた社会になる。
 世の中には喜ばしいことを歓迎しない人はいない。長期間牢獄に閉じ込められていた人が、その罪を許され出獄して、晴れて天下の一員となった場合、鬱屈した気持ちは一転して開放感に満ち溢れる。「過を赦し罪を宥む」とは、君子が民衆に慈愛の心で接することにより、天下国家の困難を克服することである。
 下卦坎は困難から完全に脱していないので、何かしら問題が残っており憂い心配する段階である。上卦震を困難から完全に脱して喜ぶ段階とする。憂い心配するから喜ぶのである。憂い心配する段階から脱出するのが雷水解の形である。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。无咎。
象曰、剛柔之際、義无咎也。
○初六。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、剛柔の際(まじわり)、義として咎(とが)无(な)き也。
 初六は柔らかい陰爻が正しくない地位に居て、下卦坎の最下で困難に陥っている。すなわち、卑賤な人物が困難に苦しんでいる。天下国家の心配事は小人が引き起こす。初六は不正の小人である。だが、幸いに九四が助けてくれるし、九二も応援してくれる。初六は、卦辞・彖辞にある「西南に利しき」人物であり、九四に助けられて、困難から脱出することができる。
 初六と九四の関係は、初六が九四に媚び諂い咎められることが多い。雷地豫、雷風恒、天風姤、雷山小過が該当する。だが、この卦の初六は決して権力に媚び諂わない。自分が困難に陥っているので九四の力に頼って、困難から脱出するのである。
 また九四は雷水解の時に中心となって働く人物だから、初六を助ける。何も問題はない。それゆえ「咎无し」と言う。小人が改心して善き方向に進み始めるのである。
 困難から脱出できない卑しい小人であっても、中には志を抱く人物がいる。困難を克服した小人は時に中り己の分に安んじて上司に柔順なので問題を起こさない。
 三爻と上爻が間違いを犯すのは、時に中り己の分に安んずることができないからである。初六は困難から脱出しようという始めの段階で上九の命令に従うので咎められない。
 彖伝の「剛」とは九四を、「柔」とは初六を指す。「際(まじわり)」とは初六と九四が合い応じて陰陽和合することを言う。「義として咎无き」とは、陰柔の初六が困難を脱出するために九四に助けられるのは、道義的に何も問題ないと云うことである。

九二。田獲三狐、得黄矢。貞吉。
象曰、九二貞吉、得中道也。
○九二。田(かり)して三(さん)狐(こ)を獲(え)、黄(こう)矢(し)を得たり。貞にして吉。
○象に曰く、九二の貞にして吉なるは、中道を得(う)れば也。
 「田」とは狩りのことである。獲物を網で獲る。互体離(二三四)の形(囲むことから)である。「狐」は陰性の獣で人を惑わすものだから、媚び諂(へつら)う小人に例えられる。「狐」は君子を惑わすこと、「三狐」の「三」とは多数を示している。君子を惑わし媚び諂う臣下(小人)が多数居ることを例えている。
 「黄(こう)矢(し)」の「黄」とは中央の正しい色であり、中庸の得を具えていることを示している。「矢」は正直なことを示している。下卦坎を弓に例えて、互卦離を矢に例えているのである。
 九二は陽爻陰位で剛健にして柔順、中庸の徳を具えて六五の王さまと陰陽応ずる関係にある。剛健な臣下が王さまを補佐して、国家に悪影響を与える邪な人々を除き去る。剛健ゆえ調和を乱すようなことはしない。中庸の徳を具えているから事変を誘う動きはしない。攻撃されれば、躊躇なく反撃に出る。
 国家が大きな困難に陥るのは、「心が曲がっている」「人に取り入る」「媚び諂う」ような小人が重用されて君子を欺くからである。それゆえ、困難から脱出するためには、以上のような佞人を君子の周辺から退け、賢臣を抜擢任用して地位を与えることが肝要である。よって「田して三狐を獲」と言う。
 「狐」は六三である。それゆえ「三狐」と言う。互体(二三四)離の矢で険しい(下卦坎)狐を射落とす。矢を射る人物は、正しい人物であることが求められる。正しい人物だから、偏りなく、公正に佞人を退けることができる。それが実現すれば小人の悪影響は除去され、国家が乱れて困難に陥る人災は消滅し、君子が地位を得て王さまを補佐し世の中を正しく導く。
 九二は下卦坎の困難の中にあり、六三の佞人に覆われているが、毅然として王さまに忠実に仕えて、実直にその役割を果たす。そのことが吉運を招き寄せるので「黄矢を得たり。貞にして吉」と言うのである。九二が讃えられるのは、中庸の徳を具えて正しいことを貫くからである。
 六三の悪影響を除去するにあたり、九二と六五の間に疑う心があれば、六三の悪影響を除去できない。九二は初六の上に乗り、六三の影響を受けながら、六五の王さまを補佐する役割を全うする。周りに陰性の佞人が多いので、自分が忠実で素直でなければ、六五に信頼されない。六五に信頼されなければ六五を補佐して国家の困難を克服することなどできないのである。

六三。負且乘。致寇至。貞吝。
象曰、負且乘、亦可醜也。自我致寇。又誰咎也。
○六三。負(お)うて且つ乘る。寇(あだ)の至るを致す。貞なれども吝。
○象に曰く、負(お)うて且つ乘るとは、亦(また)、醜(しゆう)とす可き也。我より寇(あだ)を致す。又誰を咎(とが)めん也。
 「負う」とは、何かを請け負う・負担すること。小人(普通の人)や社会的地位の低い人が行うべき事である。「乘る」とは、車に乗る(周りの人々に担がれてリーダーの役割を全うする)こと。社会的地位の高い人や人格者が行うべき事である。
 六三は陰湿で柔らかい性格で、やり過ぎるところがある。上六とは陰爻同士なので上六は六三を助けてくれない。九二(下卦坎の主爻)と九四(互卦三四五坎の主爻)に挟まれているので、困難を完全に解決する雷水解の時にあたって、困難を解決することができずに、逆に坎の困難に陥っているのである。
 身分の低い人が重い荷物を背中に載せて車に乗っているようなものであり、見っともないことである。六三は小人ゆえ人格者ではない。それなのに君子を装って賢人の邪魔をして、正しさの欠片もないのに盲進するので、社会の秩序を乱して混乱させる。以上のようであるから、周りの人々は六三を社会から追放しようとする。このことを「寇(あだ)の至るを致す」と言うのである。
 下卦坎を盗人だとすれば、上卦震は虚(うつ)け者である。「寇(あだ)が至る」形。才能も道徳心もない人が、君子の地位に就任しても、民衆はその人物を信服しない。才能も道徳心もない人物は盗人や虚(うつ)け者ゆえ、誰も責めることはできない。自業自得である。
 六三は自分に才能も道徳心もないのに君子の地位に就任したことを後悔しないし、過ちを改めようともしないで、その地位に連綿としがみついている。凶運を招き寄せることは間違いない。それゆえ「貞なれども吝」と言うのである。
 象伝に「我より寇(あだ)を致す」とあるのは、六三が妄動すれば、終には武力衝突に及ぶかもしれないと云う可能性を示したのである。六三が討伐されるのは自業自得で同情の余地は全くないが、武力衝突に至れば被害は国中に及ぶ。才能も道徳心もない六三が妄動すれば、天下国家が大混乱に陥ることになる。そのことを心配しないわけにはいかないのである。

九四。解而拇。朋至斯孚。
象曰、解而拇、未當位也。
○九四。而(なんじ)の拇(ぼ)を解け。朋(とも)至りて斯(こ)れ孚(まこと)とせん。
○象に曰く、而(なんじ)の拇(ぼ)を解けとは、未だ位(くらい)に當(あた)らざれば也。
 雷水解は小人を除き去る時。九二と九四の陽爻は小人を除き去る責任者である。「而(なんじ)」は「汝(なんじ)」。九四を指している。「拇(ぼ)」は初六を、「朋(とも)」は九四と同じ剛健の性質を具える九二を指している。九四は上卦震の主爻、足に見立てることができる。
 初六と六三の陰爻は九四に随っているので初六のことを「拇(ぼ)(おやゆび)」と言う。九四は九二と同じく剛健の徳を具えているので「朋(とも)」と言う。九四は陽性な性質と剛健の才能道徳を具えた上卦震の主爻である。六五の君主と陰陽正しい関係を築いて和合している。往々にして、高い地位を得て事業に携わる人物は、佞(ねい)人(じん)(善からぬ人物)に騙され、骨抜きにされて、正義感を失い悪に染まることが少なくないので注意すべきである。
 九四は雷水解の時に中り、君主の側近として政治を補佐し、天下国家の困難を完全に解決できる人物である。
 その才能と力量、そして人徳をもってすれば、困難を完全に解決する役割を全うできる。だが、六三の佞人に擦り寄られ、また最下に居る初六の小人を助け出す役割があるため、小人から媚(こ)び諂(へつら)われて人徳を蝕(むしば)まれる恐れがある。小人に媚び諂われるのは側近の道を踏み外していることになる。
 それゆえ、九二は九四を戒めるべく、初六と六三との関係を絶ち、正しい道を歩むべきだと九四に求める。
 九四は賢臣九二と志を同じくして、共に力を合わせて天下の困難を完全に解決すべきである。
 それでも、九四が初六と六三との関係を断ち切れないようなら、九二は九四を疑い、九四に協力しないだけでなく、九四を見限って離れてしまう。そうなれば九四は大いに後悔することになる。
 そうならないために、九四は私情を断ち切って初六と六三との関係を絶ち、九二と力を合わせて正しい道を歩む(天下の困難を完全に解決する)。それゆえ「而の拇を解け。朋至りて斯れ孚とせん」と言うのである。
 高い地位に居て小人と親しめば、賢臣は離れていくが、小人を除き去れば、賢臣が集まってきて、共に役割を果たすことができる。九四の役割は困難を完全に解決するために、初六と六三の小人を除去することである。それが九四の役割であり、九四に求められる功績である。これらの小人を除去しなければ、小人は図に乗るので、困難を解決することはできない。
 象伝に「未だ位に當らざれば也」とあるのは、九四が陽爻陰位でその地位に相応しくない性質を有していることを心配しているのである。

六五。君子維有解。吉。有孚于小人。
象曰、君子有解、小人退也。
○六五。君子維(こ)れ解く有り。吉。小人に孚(まこと)有り。
○象に曰く、君子、解く有りとは、小人退く也。
 六五は柔順で中庸の徳を具えて、恭しい態度で君主の位に居る。側近である九四の大臣と陰陽正しく比している。忠臣九二とも陰陽正しく応じている。九二は六五を慕っているのである。
 すなわち六五は困難を完全に解決する時の王さまである。よく部下のことを知っている。賢臣を重用して政務を全面的に委任することができる名君である。
 忠臣九二は多数の小人を除去して政府の組織を刷新し、側近九四は九二と協力して小人を除去して人事を刷新する。九二と九四は偏るところが少しもなく、人の道に順って天下国家の困難を完全に解決する逸材ゆえ、六五の王さまは悠々と天下を治めることができる。組織を守る王さまとして困難を完全に解決する。それゆえ「君子維れ解く有り。吉」と言うのである。
 「君子」とは、九二と九四の豪傑を指す。君子といえども、治乱興亡の流れの中で小人と行動を共にすれば、たちまち志を見失って災難を招き寄せる。
 昔から国家が小人を除去する場合は、武力を用いたり、刑罰を執行したり、力業を用いることが多い。君子が困難を解決する時には必ずしも力業を用いないのである。
 力業を用いなくても小人を除去するのが君子の君子たる所以である。力業に頼るのは小人である。「維れ解く有り」とは、完全に解決しない困難はないと云う意味である。「君子維れ解く有り。吉」の「吉」とは、小人を力業で除去しないでも、小人が自ら退いたり改心したりすることを云う。
 君子が民衆を治めるやり方は威厳で小人を精神的に追い詰めて、最後は寛大に処遇するのである。臣下が民衆に臨む時は、権威をもって公正に接することが肝要である。
 そのように接すれば、民衆は慎んで王さまの命令に順う。王さまが民衆に臨む時は、慈悲の心で民衆を包み込んで、寛大な気持ちで接することが肝要である。人の道は天地の道に順うのである。
 この段階になると、忠臣九二と側近九四がスクラムを組んで、剛健と明智を発揮して天下国家の困難を完全に解決する。
 六五の王さまは柔順で中庸の徳を具えて万民を慈悲の心で包み込む。民衆は忠臣九二と側近九四の威厳に圧倒されて慎んでいる。そして六五の王さまの慈悲の心に感動して善き心が芽生え始める。小人が王さまの慈悲心に感化されたのである。それゆえ「小人に孚(まこと)有り」と言うのである。
 民衆のほとんどは小人である。少数の君子と対比して小人と言う。小人が善からぬ事をしても君子は小人を懲らしめようとは思わない。君子は小人が改心することを願っている。だから小人は君子を疑わないし、君子に感化されることもある。
 「小人に孚有り」とは、小人が君子に感化され善き心が芽生えて、善人になろうと努力することを云う。
 象伝の「小人」とは、初六と六三を指す。「小人を退ける」と言わずに「小人退く」と言うのは、君子の影響で小人は改心したので、力業で除去する必要はないことを示している。
 雷水解の時において、九二と九四の君子が力を発揮して、天下の困難を完全に解決することができるのは、六五の君子が部下のことを熟知しており、賢臣に仕事を全面的に任せるからである。
 また、九四と六五の段階において、困難が完全に解決するのは、九四の威厳と六五の慈悲の心で小人が改心して善き心が芽生え、小人を力業で除去する必要がなくなるからである。

上六。公用射隼于高墉之上。獲之无不利。
象曰、公用射隼、以解悖也。
○上六。公(こう)用(もつ)て隼(はやぶさ)を高(こう)墉(よう)の上に射る。之を獲(え)て利しからざる无(な)し。
○象に曰く、公(こう)用(もつ)て隼(はやぶさ)を射るとは、以て悖(もと)れるを解く也。
 雷水解の六爻の中で唯一上六だけが位が正しい(偶数の位に陰爻が在る)。それゆえ、君子に例える。「隼(はやぶさ)」とは鷲(わし)のことであり、大空を飛翔して鳥の世界に君臨する王者である。すなわち「隼(はやぶさ)」を暴虐残忍で民衆を苦しめる人物に例えている。
 「高(こう)墉(よう)」の「墉(よう)」は「内と外の間」、すなわち、内側に居る民衆に対して、外側から暴虐残忍の人物が侵入してきて、やりたい放題に暴虐を重ねるので、その間隙を縫って、暴虐残忍の人物を弓で射るということに例えている。
 「隼(はやぶさ)」は六三を指している。六三は柔弱な性質でやり過ぎる侫人ゆえ、恥知らずに妄動して反乱を起こす。また、下卦坎は「飛(ひ)鳥(ちよう)」に例えられるので「隼(はやぶさ)」と云う意味を有する。
 六三は九二と九四に除去されたはずであるが、ここではゾンビのように生き返ったと考える。暴虐残忍な六三が天下国家を攪乱して国民に被害が及ぶ。それゆえ、六五の王さまが君子である上六に命令して六三を討伐させるのである。
 「公」とは上六を指す。上六は六五の王さまの命令を奉じて王さまの近くに忍び寄る悪い影響を除き去る。素晴らしいことである。以上のことから「公(こう)用(もつ)て隼(はやぶさ)を高(こう)墉(よう)の上に射る。之を獲て利しからざる无(な)し」と言うのである。
 上六は雷水解の終わりの段階で、柔順かつ積極的に働く人物である。どんなに小人が暗躍しようとしても、大きな困難はすでに解決して、天下は安泰となり、最早小人の出番はない。
 名君が上に居て、泰然と構えて小人を討伐せよと命令する。互体(二三四)離の矢を用いて、互体(三四五)坎の弓を引く。すなわち「隼(はやぶさ)を射る」という形である。
 易の物語は、震の卦が動くことについて多くの戒めの言葉がある。上六は雷水解の終局、上卦震の先端にあって「利しからざる无(な)し」とある。下卦坎から上卦震に進むことは、困難を乗り越えた後に動いて完全に困難を解決する。このことを卦辞・彖辞に「往く攸(ところ)有れば、夙(はや)くして吉」と言うのである。
 象伝に「悖(もと)れるを解く」とあるのは、困難を完全に解決する解の時において、一気に小人を除去して困難を完全に解決することを云う。小人は高いところから一気に失速して凋落する。
 暴虐残忍で民衆を苦しめる人物(隼)が、やりたい放題に暴虐を重ねる。雷水解の終局において、暴虐残忍で民衆を苦しめる人物(隼)の勢いが衰退して孤立するのである。
 間隙を縫って、暴虐残忍の人物を弓で射るのである。弓を射る人は正直で慎ましい修己治人の君子である。それゆえ、卦辞・彖辞に「來り復りて吉」と言い、大象伝に「過(あやまち)を赦(ゆる)し罪を宥(なだ)む」と言うのである。他の卦のように大将が兵を率いて征伐するのではない。暴虐残忍の人物を弓で射るのである。
 罪を許すことはあっても、暴虐残忍で民衆を苦しめる人物(小人)は除去しなければならない。狐とは邪な小人である。拇(初六)は最低な小人である。隼(六三)は暴虐残忍で民衆を苦しめる人物である。

 

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