呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 311 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

39.水山蹇

□卦辞(彖辞)
□卦辞(彖辞)
蹇、利西南。不利東北。利見大人。貞吉。
○蹇(けん)は、西南に利(よろ)しく、東北に利(よろ)しからず。大(たい)人(じん)を見るに利(よろ)し。貞にして吉。
 蹇は下卦艮、上卦坎。艮は山、坎は水。すなわち山の上に水がある形である。山頂に雪が積もって山に登ることができない。上卦坎の大川が前を阻み、下卦艮の山が後ろを塞いでいる。前に進むことも後ろに進むこともできないのである。退こうとしても、退くことはできない。下卦艮は止まる、上卦坎は険難。険難に遭遇して止まり進むことができない。進退窮まる時である。または、険難を見て自ら制止することにより、敢えて前に進まないという形でもある。以上のことから、この卦を「蹇(悩み苦しむという意味)」と名付けたのである。
 「蹇」という字は、寒いという字に足という字が加わって出来ている。陽氣が悪く(寒冷であり)足は凍えて進むことができないと云う意味。蹇は進退窮まる時である。上卦坎には寒冷という意味があり、上卦艮には停止という意味がある。その両方の意味を取って「蹇」と名付けた。
 人間社会に当て嵌めると、志を持った人々が居ても、その志を成し遂げることはできない時。希望があっても叶えることができない。強引に志や希望を叶えようとすれば、必ず険難に陥って困窮するのである。上卦坎の方位は北、下卦艮の方位は東北である。天気は北から東東から南、南から西へと動く。太陽も月も東から昇って、西へ沈む。いずれも天の運行である。
 蹇は内卦は艮(東北)で外卦は坎(北)、内卦から外卦に進んで行くので、東から北に向かうことになり、天の運行に反する。まさしく「蹇(悩み苦しむという意味)」の蹇たる所以である。聖人はわたしたちに「蹇」から脱出する方法を教えてくれる。
 坎(北)から艮(東北)に進めば、東北から東、東から南、南から西という方向に向かう。水を高いところに上げることは困難だが、低いところに下ろすことは簡単なことである。
 山水蒙、水山蹇、雷水解という物語にはこのような水の資質が反映されている。天の道に逆らい、また、原理原則を踏まえなければ、東西南北どこへ向かっても、険難に陥らないはずがない。
 天の道に順う君子と逆らう小人の違いを、中庸に「君子易きに居て以て命を俟(ま)つ。小人険を行いて幸いを徼(もと)む/君子はどこに居ても(どんな状況でも)天命を全うする。小人は今の状況を脱しようと、もがき苦しんで幸福をつかみ取ろうとする」と言う。
 すなわち、天命を全うするには西南に向かうことがよいと云う意味である。幸せをつかみ取ろうとするものは東北に向かってはならないと云うことである。西南は巽離坤兌という陰の卦の方角。東北は乾坎艮震という陽の卦の方角である。陰は柔順だから平らかだが、陽は剛健だから険しい。陽の道はどんどん進んで行くこと、先読みして進むことである。陰の道は低く進むこと、あるいは退くこと、後から従って行くことである。
 天は尊く、地は優しい。天に梯子をかけて上って行くことはできないが、地は無限に進み行くことができる。
 西南は紺の方角であり平坦な道である。東北は艮の方角であり険しい山の道である。険難に遭遇した時は誰かに従って退くべきであり、人に先んじて進むべきではない。
 以上が天地の道に則(のつと)ることである。蹇の時に適切に対処して険難を脱する良策である。それゆえ「蹇は、西南に利しく、東北に利しからず」と言うのである。

□彖伝
彖曰、蹇、難也。險在前也。見險而能止、知矣哉。蹇利西南、往得中也。不利東北、其道窮也。利見大人、往有功也。當位貞吉、以正邦也。蹇之時用、大矣哉。
○彖に曰く、蹇は難(なん)也。險、前に在る也。險を見て能(よ)く止まるは知なる哉(かな)。蹇は西南に利(よろ)しとは、往(ゆ)きて中を得る也。東北に利(よろ)しからずとは、其(その)道窮(きゆう)する也。大(たい)人(じん)を見るに利(よろ)しとは、往きて功有る也。位に當(あた)り貞にして吉とは、以て邦(くに)を正しくする也。蹇の時(じ)用(よう)大なる。
 蹇の時の困難さは、先のことではない。すぐ目の前にある(下卦が上卦に接している)困難である。目の前に困難があっても、慌てることなく、自らを戒め慎んで、アタフタしないのは、明智を具えているからである。蹇の時は、慌てることなく、アタフタせずに、止まってよく考えることを善しとする。
 下卦艮の性質は止まることである。互体(三四五)離には明智がある。明智で物事の利害や損失を弁え、リスクに備えて、自分の身を守る。困難に足を引っ張られない。それゆえ「蹇は難也。險、前に在る也。險を見て能く止まる。知なる哉」と言う。
 蹇の時は前進してはならない。退くべきである。しかし、ずっと退いているわけではない。何事も皆運命に従い、循環して変化する。例えば、初爻なら五ヶ月後、二爻なら四ヶ月後、三爻なら三ヶ月後になれば、五爻と一緒に進むのである。
 五爻は剛健中正の徳を具えている。だから五爻の段階に至れば、困難を克服することができる。それゆえ、君子は困難の真っ只中にあったとしても、慌てふためいてアタフタすることはない。
 足の不自由な人が家の中に閉じ籠もって動かないように、時が時が到来するのを待って、困難から脱出する。だから「蹇は西南に利しとは、往きて中を得れば也」と言うのである。
 また、困難が東北の方向にあれば、西南の方向は困難のない土地である。まず自分の身を安全な西南の土地におき、困難への対処法を熟慮して、困難の内容をよく観察してから、時が至るのを待って適切に対処すべきである。自分の身を困難な土地(東北)に置けば、困難を克服することはできない。自分を困難から救えないのに、どうして人々を救うことができようか。
 蹇の時において、剛健中正の九五が尊位に居るのは、時が至るのを待って困難を克服することができる人物だからである。小人は考えが浅くて情欲に誘惑される。足りない頭を使って妄動し、天の道から外れて間違いを犯しながら、志を実現しようと猪突猛進するので、自分で自分の首を絞めて困窮する。それゆえ、戒めて「東北に利しからずとは、其道窮する也」と言う。
 九三は下卦艮(止まるという性質)の極みに居る。蹇の時の困難は通常の戦略では乗り越えることができない。蹇の時を克服するには、大きな才能と大きな人徳を備えた人を見付けて、その人物に任せるべきである。今、九五は剛健中正の徳を具えて尊位に居り、困難な時を克服する才能と力量を有している。
 九五のような大人に従って、共に困難を克服するための対策を講じることがベストである。それが実現すれば、共に志を同じくして対策を実行して、困難な時を脱出することができる。以上のことを「大人を見るに利しとは、往きて功有る也」と言う。
 「往きて功有る也」の「功有る」とは、蹇の時の困難に押し潰されず、大人に守られて、困難を脱出することができると云うことである。「西南に利し。東北に利しからず」と言い、また「大人を見るに利し」と言うのは、蹇の困難を脱出するには、平らかな方角に移動して、大人に従うことにより困難から脱出することができると云うことである。
 蹇の時は困難に遭遇したら妄動せずに立ち止まるべきだが、時が至れば、困難を克服すべく果敢に動くのである。その時に至っても、まだ立ち止まっているようなら困難から脱出することができず後悔することになる。九五の時は剛健中正の才能を具えて尊位に居るので、困難に立ち向かって克服して、国家を平定すべき時である。困難に立ち向かう人物は、明智を具えた人格者でなければならない。困難を克服するのに時間を要したとしても、人格者が公のために尽くせば、吉運を招き寄せる。
 だが、一般の人が、困難に対処する場合、公に尽くすことは難しい。確固たる志を抱く君子でなければ、困難に対処することができない。君子は人格者だから、困難な時を克服することができる。それゆえ「位に當り貞にして吉とは、以て邦を正しくする也」と言うのである。
 蹇の時は、初爻を除いて皆位が正しい。正しくして吉運を招く形である。天下国家を救うことができるのは、初爻以外皆位が正しいからである。蹇の時は最初、足が不自由な人のように止まって動かない。だが、時が至れば、果敢に行動して蹇の困難を克服する。時に適切に対処することができるのである。このようなあり方を讃えて「蹇の時用大なる哉」と言う。
 時に適切に対処して天下国家を救うことができるのは、九五が人格者だからである。

□大象伝
象曰、山上有水蹇。君子以反身脩德。
○象に曰く、山上に水有るは蹇なり。君子以て身に反(かえ)りて德を脩(おさ)む。
 蹇は山の上に水(雪)がある。山頂に雪が積もっているので、道路が閉鎖されて、山に登れない時なので、蹇と名付けた。
 人が訪ねて行っても目的を達することができない。感動しても相手に何も伝わらない。蹇の時だからである。
 君子はこのような険難の時に遭遇しても、人々が真心で対応しないことを咎めたりせず、自分に真心がけていることを反省して、自分に善くないところがあれば、それを改めて、できることをコツコツとやって、蹇の時を克服しようとする。
 君子が以上のように対応するから、蹇の困難はやがて克服することができる。孟子に「行い得ざる者有れば、反(かえりみ)て諸(これ)を其の身に求む」とある。これを「君子以て身に反(かえ)りて德を脩む」と言う。身を修めることは徳を修めることの基本。徳を磨いていけば身が修まる。身を修めることと徳を磨くことは同じことである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。往蹇、來譽。
象曰、往蹇、來譽、宜待也。
○初六。往(ゆ)けば蹇(なや)み、來(きた)れば譽(ほまれ)あり。
○象に曰く、往(ゆ)けば蹇(なや)み、來(きた)れば譽(ほまれ)ありとは、宜(よろ)しく待つべき也。
 「往けば」とは、進み行くことである。苦労して進み行くのである。「來(きた)れば」とは、退いて身を守ることである。進み行くことを「往」といい、進まないことを「來」という。すなわち「往来」とは、進んだり退いたりすることである。
 蹇の卦の初爻に「來れば(退けば)」とあるのは、「往く(進み行けば)」に対する言葉で、本来の場所に止まるべきことを言っている。初六は蹇の時にあたって、陰柔の性質で下の位に居る。蹇の時は、止まることから始まるのである。
 初九は不中正で応じる相手がいないので進み行くための道がない。道がないのに進み行けば必ず蹇の困難に遭遇する。よって、止まり退いて自分の身を守ることが時に適切に対処することになる。すなわち蹇の困難に遭遇した場合は、無理して進まずに止まって様子を見るのである。
 中庸に「所謂(いわゆる)君子易(やす)きに居て以て命を俟(ま)つ」とあるのは、このことである。以上のようであるから「往けば蹇み、來れば譽あり」と言うのである。蹇の困難に陥らないことが運気を招き寄せることにつながる。「譽(ほまれ)あり」とは、「咎なし」と同じ意味。困難に陥らないことが、災難から最も遠ざかることであり、困難を脱する最短の道である。人々は初六の見識に感服するのである。
 小人は困難に闇雲に立ち向かって、困難から脱しようとする。妄進するから災難を招き寄せる。初六は進んではならない兆しを察して、困難から最も遠くに退いて止まる智者である。
 象伝の「宜しく待つべき也」とは、時に対処して退き、時が至るのを待ち、先輩の六二や九三がどうするのか様子を窺っていることを云う。天下国家の困難は要職になければ、その困難に直接見舞われることはない。
 初六は下の位に居てしかも不正なので、困難に立ち向かうことなく、時を待つべきである。天山遯の初六が逃げ遅れて立ち止まれば災難を免れるのと同じである。

六二。王臣蹇蹇。匪躬之故。
象曰、王臣蹇蹇、終无尤也。
○六二。王(おう)臣(しん)蹇(けん)蹇(けん)たり。躬(み)の故(こと)に匪(あら)ず。
○象に曰く、王(おう)臣(しん)蹇(けん)蹇(けん)たるは、終(つい)に尤(とが)无(な)き也。
 「王臣」の「王」とは、九五の君主を指し、「臣」とは、六二の臣下を指す。六二の臣下は蹇の困難な時にあたり、柔順中正の性質を具えて、九五の王さまに応じている。すなわち、臣下として正しく忠実に君主に仕える、いわゆる忠臣である。
 国家が困難な状況に置かれた時、九五の王さまを補佐し、苦労を共にして、国家の崩壊を何とかくい止めようと、自らの身を危険に晒しながらも、決して挫折しない。自分を捨てて死を覚悟し、心身共に国家のために尽くす人物である。
 けれども、六二は陰柔の性質で上卦坎と互体(二三四)坎の下に居る。忠臣の模範だが、蹇の困難を克服するだけの才能はなく、横暴な九三がすぐ上に居て邪魔するので、九五の王さまを補佐することができない。この事態を何とかしたいけれど、何ともならないので、気持ちは焦って困窮する。それゆえ「王(おう)臣(しん)蹇(けん)蹇(けん)たり」と言うのである。
 「蹇(けん)蹇(けん)」とは、困難が重なることである。困難は一回だけではない。国家を守るために己を捨て、困難の中に身を投じて、国家存続を図る。私利私欲で動いているわけではない。それゆえ「躬(み)の故(こと)に匪(あら)ず」と言うのである。
 九五は困難の中に在ってしかと君主としての役割を努め、六二は中庸の徳を具えてしかと臣下の役割を努める。六二の志は君主に忠実に仕えることだが、互体(二三四)坎の困難と上卦坎の困難が重なり、進み行くことができない。それゆえ「「躬(み)の故(こと)に匪(あら)ず」と言うのである。六二は国家を守るために己を捨て、困難の中に身を投じて、国家存続を図るから吉凶とは云わない。己の損得を超越している六二に対して吉凶を論ずべきではない。
 象伝に「終に尤(とが)无(な)き也」とあるのは、六二の困難に立ち向かう苦労は、その結果を天に任せて、己の身を犠牲にして国家に尽くそうとする忠臣だから「咎(とが)なし(結果がどうあっても責められない)」なのである。「終(つい)に」という言葉の持っている深い意味に着眼すべきである。
 天下国家の困難に如何に対処したかは、その是非を議論すべきであって、結果だけを議論すべきではない。それゆえ聖人は「尤(とが)无(な)し」と言い、臣下が君主に忠を尽くすことを勧める。忠を尽くせばたとえ結果が出なかったとしても、咎(とが)める(責める)べきではない。忠臣に敬意を表するのである。
 二爻の役割は君主を補佐する臣下の位であるが、蹇の時において二爻を賞賛するのは、平時には臣下としての忠誠の度合いを云(うん)々(ぬん)する必要はないが、困難に見舞われた時には、臣下としての忠誠の度合いを確認する必要があるからである。
 九五は君主として困難の中に在るが、君主が困難の中に在ることは、臣下として耐えがたいことである。だから、六二は九五の君主に忠実に仕えて、己の身を捨て国家を守ろうとするのである。蹇の時において、二爻と五爻以外は「往けば蹇(なや)み」とあるが、二爻と五爻に「往けば蹇(なや)み」とないのは、六二と九五が力を合わせて蹇の困難を克服するからである。

九三。往蹇、來反。
象曰、往蹇、來反、内喜之也。
○九三。往(ゆ)けば蹇(なや)み、來(きた)れば反(かえ)る。
○象に曰く、往(ゆ)けば蹇(なや)み來(きた)れば反(かえ)るとは、内、之を喜ぶ也。
 九三は蹇の時にあたって、陽爻が陽位に居る。才能と志は共に強固である。内卦艮(止まるという性質)の主爻だが、剛健な性格なので進み動くという意志が働くのである。
 上六は九三と応じる関係にあるので、九三は進み行こうとするが、上六は柔弱で非才だから、相棒としては物足りない。九三が進み行けば、上卦坎と隣接しており、しかも互体(二三四)坎の主爻でもあるから、間違いなく困難に陥るのである。
 本来の止まる性質を守り、部下(六二・初六)と志を同じくすれば、時に適切に対処するので、蹇の困難に陥ることから免れる。それゆえ「往けば蹇(なや)み、來(きた)れば反(かえ)る」と言うのである。
 上六のところに進み行けば苦労する。止まることが本来のあり方である。故郷に帰省して心が安んずるようなものである。
 象伝に「内、之を喜ぶ也」とあるのは、九三は艮の主爻で、下卦の極地に居て、部下(初六と六二)に頼られているので、進み行かずに止まっていれば、部下も喜び楽しむと云うことである。内とは内卦(の初六と六二)を指している。

六四。往蹇、來連。
象曰、往蹇、來連、當位實也。
○六四。往(ゆ)けば蹇(なや)み、來(きた)れば連(つら)なる。
○象に曰く、往(ゆ)けば蹇(なや)み來(きた)れば連(つら)なるとは、位(くらい)に當(あた)りて實(じつ)なれば也。
 六四は蹇の困難な時に対処するに中り、君主の側近としての役割を担っているが、陰爻ゆえ柔弱な性質で、才能が不足しており志は脆弱である。さらに、六四は上卦坎の険難と互体(二三四)坎の険難のダブルパンチを浴びている。しかも、補佐してくれる部下がいない。このような状態で前に進んで行けば、険難のトリプルパンチを浴びて、ノックダウンしてしまう。
 よって、進まず止まり、守りを固めれば、九五のトップと九三の部下とがっちり四つに組んで、蹇の困難に対処することができる。それゆえ、一人で前に進み行くことは避けて、トップと部下とスクラムを組むべきである。
 六四は柔弱な性質で力が足りないので、一人の力で蹇の困難を克服することはできないが、柔順な性格で正しい位を得ており、九五の君主から信用され、九三の部下から信頼されている。
 以上のことから、六四は側近としての役割を全うできる人物である。それゆえ「往けば蹇み、來れば連なる」と言う。「連なる」とは、臣下の地位と君主の地位の関係を強固にすることであり、孟子の言葉にある「諸侯に連なる」と同じ意味である。
 蹇の困難に見舞われている時代に、孤立していて助けてくれる人がいないのに、危険を犯して一人進み行けば、困難のドツボに陥らない者はほとんどいない。
 無理して進まず、止まって守りを固め、九五の君主と九三の部下とスクラムを組み、志を同じくして、共に力を合わせて困難に対処すれば、困難を克服することは可能である。
 象伝の「位に當(あた)りて實(じつ)なれば也」とは、六四が正しい位と柔順の徳を具えて、九五の側近として大臣の地位に就任していることを「位に當る」と言い、六四が九五の君主に信用され、九三の部下に信頼されてスクラムを組むことを「實」と言う。

九五。大蹇。朋來。
象曰、大蹇、朋來、以中節也。
○九五。大(おお)いに蹇(なや)む。朋(とも)來(きた)る。
○象に曰く、大(おお)いに蹇(なや)み、朋(とも)來(きた)るとは、中節を以て也。
 九五は蹇の困難な時に対処するのに、剛健中正の徳を具えて君主に地位に就いている。上卦坎の主爻ゆえ、あらゆる困難が襲ってくる。その役割と任務は重いが屈しない。蹇の困難から逃げることなく、立ち向かって行く。だから、天下国家の困難を克服することができるのである。
 九五は君位に居て、国家が衰退して行く時に中る。襲ってくる蹇の困難は、国家存亡の危機であり、非常事態である。しかも九三のやり過ぎる部下が、傲慢に現場を取り仕切っており、九五を補佐しようとしない。九五を補佐する役割を担っている側近六四と忠臣六二は、柔弱で力がないので、傲慢な九三を抑えることができない。九五は大きな困難に見舞われる。
 九五は君主の地位に居て、傲慢な部下を治める権力がある。しかも九五は剛健中正の徳を具えているので、傲慢な部下を治める人間力もある。九五がよく耐えて困難を克服すべく奮闘すれば、天下国家の国士は九五の下に馳せ参ずる。忠臣六二は勿論、傲慢な部下九三も九五の下に駆け付けて、天下国家の困難は克服される。それゆえ「大蹇なり。朋來る」と言う。
 「朋來る」の「朋」は、同じタイプの人間同士。九五と九三のことである。共に陽性で剛健の性質があるから「朋」と言う。九三は下卦艮(止まる)の主爻であると同時に強引で傲慢な人物でもある。九三の部下にあたる初六と六二は九三に従い、六四の大臣も九三にすり寄ろうとする。九五と九三は力が拮抗してライバル関係にある。それゆえ九五と九三の関係を「朋」という。お互い同じタイプの人間だからである。
 象伝に「中節を以て也」とあるのは、九五は蹇の困難を克服する時が至るのを、剛健の徳を磨きながらじっと待っていると云うことである。蹇の困難は、どんなに賢明な君主でも、剛健な臣下の協力を得られなければ克服できない。
 非常事態に陥れば必ず九三を始め九三に従う初六と六二も九三にすり寄ろうとする六四の大臣も九五の下に駆け付ける。九五は駆け付けてくれた部下を守るために、共に蹇の困難を克服する。

上六。往蹇、來碩。吉。利見大人。
象曰、往蹇、來碩、志在内也。利見大人、以從貴也。
○上六。往(ゆ)けば蹇(なや)み、來(きた)れば碩(おおい)なり。吉。大人を見るに利し。
○象に曰く、往(ゆ)けば蹇(なや)み來(きた)れば碩(おおい)なりとは、志、内に在る也。大人を見るに利しとは、以て貴(たつと)きに從(したが)う也。
 上六は柔弱な性質で蹇の極点に居る。上六が進み行けば、克服されつつある蹇の困難が再び襲いかねない。後は応じている九三と比している九五に任せて自分は退くべきである。そのように対処すれば、困難を免れるだけでなく、大きな功績を上げることになる。それゆえ「往(ゆ)けば蹇(なや)み、來(きた)れば碩(おおい)なり。吉。大人を見るに利し」と言うのである。吉とは、困難に遭遇せず太平の世を招き寄せることを云う。大人とは九五の君主である。
 上六の時に至って、蹇の困難を完全に脱出することができる。九五は中庸の徳を具えて、上卦坎の険難を背負いながら互体(三四五)離の明智に向かい、蹇の困難は徐々に治まろうとしている。
 五爻までは吉と言わないのは、まだ蹇の困難から完全に脱出していないからである。上六に至って吉と言うのは、蹇の時が窮まれば一変して雷水解の時に移行して、蹇の困難による問題が解決するからである。
 象伝の「志、内に在る也」とは、上六の志は内卦の九三と応じていることを云っているのである。九三は元来蹇の困難を克服する力があり、蹇の困難から脱出する功績が大きい。また「以て貴(たつと)きに從う也」とあるのは、上六は貴き九五の君主に従うべきだと云うことである。
 易の道は陽の働きを重んじる。陰の働きは陽の働きを受けて成立する。貴きとは九五の陽の働きを指し、上六は九五の陽の働きに従うべきだと勧めているのである。爻辞の「來(きた)れば碩(おおい)なり」とは、上六が退けば蹇の困難から完全に脱出できるのであるが、その功績が大きいことを賞賛しているのである。

 

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