呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 310 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

38.火沢睽

□卦辞(彖辞)
睽、小事吉。
○睽(けい)は、小事は吉。
 睽は、上卦は離の火、下卦は兌の沢。沢の上に火がある形。上卦離の火は炎上して、下卦沢は沢山の水で潤い下る。相手(外卦)は上り、自分(内卦)下る。相手と自分の感情が背き合って和合しない。だから、この卦を睽(けい)(そむく)と名付けた。
 睽の字は目と癸(き)(みずのと)から成る。十(じつ)干(かん)の癸(みずのと)は、陰陽五行(木火土金水)の水に当て嵌められ北に位置している。北は万物が背中を向ける方角である。だから、癸(みずのと)には、「背く」という意味がある。人々が背き合えば必ず目の表情に感情が現れる。だから、目と癸を合わせて睽という字になる。
 また、下卦兌は沢の中に水が入っている。その水は止まっている。離は火であり、その形から目を表している。睽の卦は、離の火が上り、兌の沢の水が下るので、お互いに背き合っている。だから睽の字と乖離の乖の字を組み合わせて、睽(けい)乖(かい)(睨み合う)という意味になる。

□彖伝
彖曰、睽、火動而上、澤動而下。二女同居、其志不同行。説而麗乎明、柔進而上行、得中而應乎剛。是以小事吉。天地睽而其事同也。男女睽而其志通也。萬物睽而其事類也。睽之時用、大矣哉。
○彖に曰く、睽(けい)は、火動きて上り、澤動きて下る。二女同じく居り、其志、行を同じくせず。説(よろこ)びて明に麗(つ)き、柔進みて上り行き、中を得て剛に應(おう)ず。是(ここ)を以て小事は吉。天地睽(そむ)きて其事同じき也。男女睽(そむ)きて其志通ずる也。萬物睽(そむ)きて其事類する也。睽(けい)の時用、大(だい)なる哉(かな)。
 睽を人事に当て嵌めると、お互いに性格が噛み合わないのでギクシャクする時である。性格の違いは、火と水の性質が相反するようなもの。お互いに自分が正しくて、相手が間違っていると固く信じて、人間関係がギクシャクして互いに背き合うのである。
 上卦離の中女と下卦兌の少女が同じ家の中に居る。中女は年頃だから、早く家を出てお嫁に行きたいと思っているが、少女はまだ幼いので、家族と一緒に暮らしたいと思っている。少女と中女の思いは正反対で一致しないのである。
 人々の志す方向は各々異なるが、相性を容易に見抜くことはできない。けれども、火沢睽の上卦離火の中女と下卦兌沢の少女が同じ家に住んでおり相性が悪い(お互いに背き合っている)ことから推測すれば、何故、相性が悪いのか(お互いに背き合っているのか)、その理由は明らかである。以上のことを「睽は、火動きて上り、沢動きて下る。二女同じく居り、其志、行を同じくせず」と言うのである。
 上卦離の火は上り、下卦兌の沢の水が下るのは、火沢睽の形が沢火革の上卦と下卦が入れ替わって出来た(沢火革の上卦兌の沢の水が下って下卦となり、沢火革の下卦離の火が上って上卦となった)からである。
 風火家人の形も上卦巽風の長女と下卦離火の中女が同じ家に住んでおり、各々の志す方向は反対である。沢火革の形も上卦兌沢の少女と下卦離火の中女が同じ家に住んでおり、各々の志す方向は反対である。だが、火が上り、水が下るという形ではないので、火沢睽のようにお互いに背き合ってギクシャクすることがない。
 風火家人は下卦離の主爻である二爻が陰爻陰位で位が正しく、上卦巽の主爻である四爻も陰爻陰位で位が正しい。女性が適材適所に配置されている。沢火革は五爻が陽爻陽位で中正の徳を具えており、二爻は陰爻陰位で中正の徳を具えている。
 それゆえ風火家人の卦辞には「女の貞に利し」とあり、沢火革の卦辞には「亨る」とある。
 それに対して、火沢睽の下卦兌の主爻である二爻は陰爻陽位で位が正しくなく、上卦離の主爻である五爻は陰爻陽位で位が正しくない。女性も男性も位が正しくないのである。それゆえ「睽(背き合う)」のである。
 だが、火沢睽の下卦兌には悦ぶという性質があり、上卦離には明るいという性質がある。また、明るく柔順で中庸の徳を具えている五爻が剛健で悦ぶと云う性質で中庸の徳を具えている二爻と応じている。柔順で中庸の徳を具えた五爻が剛健で中庸の徳を具えた二爻に応ずるのは、悪いことではない。
 ただし、睽の時は大きな事業を成し遂げることはできない。自分の役割を全うするだけである。また、睽の時は喜ばしいこともあるが、何かと疑われやすい時である。明智で誰と仲良くするかを考えることが肝要である。
 以上のことから「説(よろこ)びて明に麗(つ)き、柔進みて上り行き、中を得て剛に應(おう)ず。是(ここ)を以て小事は吉」と言う。「小事に吉」とは、お互いに背き合う火沢睽の時において、よくお互いが向き合って相手を理解しようとすれば、吉運を招き寄せると云うことである。物事が窮すれば必ず変化して対応しようとするから、背き合うという時の勢いが窮まれば必ず変化して対応しようとする。
 人間関係において、未来永劫背き合うことはあり得ない。だから、諦めてはいけない。人と付き合うコツは、心の中は常に静かで和らぐように努め、気に入らないことがあっても憤慨しないように心を制御することである。外界で何が起ころうとも避けたり逆らったりしないで適切に対応する。日々このようであれば、やがて背き合っている人とも和合できる。人間関係を突き詰めて考えれば、誰とも和合できないということはあり得ないし、逆に誰とも背き合わないということもあり得ない。
 人間関係がギクシャクして社会が停滞するのが睽の時だが、これは陰陽の相互作用の一つであり、全て世の中は陰陽の相互作用によって生成発展するのだから、お互いに背き合う睽の時も生成発展に寄与しているのである。
 男女それぞれの役割が異なると云うことが、背き合うという睽の時の基本原理である。役割が異なるから背き合うこともあるが、役割が異なるから、お互いに惹き付け合って子孫が繁栄する。
 万物が背き合うのが睽の時である。背き合うのは陰陽が反発し合うからである。また、万物が生成発展するのも陰陽が結合するからである。天地による宇宙創造も、男女による子孫繁栄も、万物みな、背き合ったり結合したりするから生成発展するのである。
 睽の時の働きは、卦辞に云う「小事は吉」に止まらない。このことを「天地睽(そむ)きて其事同じき也。男女睽(そむ)きて其志通ずる也。萬物睽(そむ)きて其事類する也。睽の時用、大なる哉」と言うのである。「事同じ」とか「志通ずる」とか「事類する」とあるのは、いずれも睽の働きのことである。
 睽を人間社会に当て嵌めると、上卦離の中女が上に居て、下卦兌の少女が下に居る。姉妹が父母と同居しているが、それぞれが志す方向が異なるので、背き離れるのである。背き合えば相手を嫉(ねた)んだり疑ったりするが、その誤解が解ければ、逆にお互い惹き付け合って結合するのである。
 睽の時を天下国家に当て嵌めると、上卦離火の政府は火の性質を有しており、明智を発揮して文明を発展させようとする。下卦兌沢の国民は沢の性質を有しており、文明が発展するよりも小さな幸せを悦びと感じる。民衆はこのように考える。政府と国民の求めるところが異なるので、お互いに背き合うことになる。
 天下国家が行う事業は、国民を和合するために行う。天下国家が治まるのは、国民の多数が政府の政策に満足するからである。天下国家が乱れ衰退するのは、国民の多数が政府の政策に不満を抱くからである。それゆえ、天下国家を治めるためには、国民の多数から支持される政策を実施する以外に方法はない。
 しかし睽の時は、国民の多数から政府の政策は支持されない。人心和合しないのである。上卦離の火が上にあり、下卦兌の沢の水が下にあって、交わらないのと似ている。どうして政府が大事業を成し遂げることができるであろうか。
 けれども、六五の王さまが柔順な性質で中庸の徳を具えて尊位に居る。その言行は謙虚で謹み深く、権威があり王さまとしての資質が高い。その王さまを剛健中庸の徳を具えた九二の賢臣が支えている。九二の賢臣は王さまによく仕え、また、王さまは剛健な側近九四と同じく剛健な相談役上九に補佐されているので、睽の時であっても事業を推進する勢力が潜んでいる。
 天下国家の事業は国民多数の支持がないとできない。国民多数が不支持に回れば天下国家の事業は成立しない。睽の時においては、国民多数の支持は得られないが、小さな事業を実施することは可能である。それゆえと「小事は吉」言う。睽の時に、大事業を実施することは不可能なことをよく認識しておくべきである。
 睽の時といえども、政府は文明を発展させようと意気込んで、国民世論を考慮せず大事業を実施しようとする。国民はそれに反発して、性急に近代化を推進しようとする政府を支持しなくなる。
 政府と違って国民には性急に近代化を推進しようとするエネルギーがないからである。しかし、時が移り変わるのは自然の流れである。お互いに背き合う睽の時が長引けば、国民も政府に対する反発を徐々に弱めて、文明開花の必要性を悟り、やがては政府と和合するようになる。

□大象伝
象曰、上火下澤睽。君子以同而異。
○象に曰く、上は火、下は澤なるは睽なり。君子以て同じくして異なる。
 上卦離火の性質は炎上すること。下卦兌沢水の性質は潤い下ることである。その性質が全く正反対なのでお互いに背き合う。それゆえ「睽」と言うのである。
 君子は睽の形を観て、大局的に同じ方向であれば、細かいところは違いがあっても、違うところは違うと認めて、声高々に異を唱えるようなことはせず、大同小異を認めるのである。
 だからといって、違いを全て認めるのではなく、大局的な方向が一致しない違いについては、毅然として異を唱え、決して経済力や武力に屈したりはしない。
 大同小異の許容範囲は、論語の「富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、処(お)らざるなり。貧(まずしき)と賤(いやしき)とは、是れ人の悪む所なり。其の道を以て是を得ざれば、去らざるなり」という文章に倣って、決めるべきである。
 人間が好むところ(富や名誉など)や憎むところ(貧乏や不名誉など)は、君子でも小人でも同じである。しかし、それを実現するためのやり方が違う。君子は正しい道を歩んで富や名誉を得ようと努力するが小人は手段を選ばない。このことを「君子以て同じくして異なる」と言うのである。
 論語の言葉に「群して党せず」、「和して同ぜず」、「周して比せず」とあるのは、いずれも大同小異の許容範囲を示している。
 大局的な方向を見失って、大同小異を認められない人々は、常識的な知恵のない人々である。また、付和雷同するだけで、毅然と異を唱えることができない人々は、世論や流行に流されて、見識のない人々である。
 天下国家で起こることは、どの時代においても、どの国においても、それほど違いはないが、細かく観れば、いろいろな違いが見えてくるのである。
 役人の業務を大枠で観ると大体同じような業務だが、細かく観れば、専門とする分野や職務内容が異なる。民間企業の業務を大枠で観ると大体同じような業務だが、細かく観れば、いろいろな業種や業態に分かれている。文官も武官も共に国家を統治する業務だが、その業務内容は随分異なっている。以上はいずれも「同じくして異なる」ことの具体例である。
 同じくするとは大局的な方向や大枠が同じこと。異なるとは専門的に枝分かれしたり、業務内容が異なることである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。悔亡。喪馬勿逐。自復。見惡人无咎。
象曰、見惡人、以辟咎也。
○初九。悔(くい)亡(ほろ)ぶ。馬を喪(うしな)う。逐(お)ふ勿(なか)れ。自(みずか)ら復る。惡(あく)人(にん)を見れば咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、惡人を見るは、以て咎(とが)を辟(さ)くる也。
 初九は睽の時の始めに居て九四と応じる位置にある。しかし、共に陽爻なので応じ合わない。それゆえ、初九と九四は背き合う。初九が後悔する理由である。背き合う関係を和合するには下卦兌の悦ぶという性質で対応するがよい。常に温和であることを心がけ、相手の話をよく聞いて、和らぐ心で応対すれば、お互い背き合って後悔することはなくなる。
 初九と九四の関係は最初はお互い背き合ってうまくいかないが、やがて初九と和解するために九四が初九を訪ねてくる。その時になれば初九の後悔は消え去る。それゆえ「悔亡ぶ」と言う。
 初九と九四は最初は背き合ってお互い後悔するが、やがて再会して和合するので後悔は消え去る。和解すべく訪ねてきた九四を初九が素直に受け容れるからである。
 「馬を喪(うしな)う」以下の文章は、初九と九四の後悔が消え去った理由を明らかにしたものである。九四の互体(三四五の坎・四は坎の主爻)を馬と読む。
 九四と初九は応ずる位置にあるが、共に陽爻なので親しむことができない。しかも初九は最下の位に居て、九四は高い位に居るが不正である。それゆえ、最初は親しむことができない。以上を例えて「馬を喪う(初九が九四を失う)」と言う。
 また、六三は上九と応じており、比する九二に乗じていることから、同じく比する九四を助けようとはしない。そこで九四は自分だけ孤立することを恐れて、応ずる位置関係にある初九を訪ねて和解しようとする。
 したがって、初九の方から九四を訪ねて和解を求める必要はない。九四を馬に例えているのは、失った馬は自然に帰ってくる。すなわち九四は必ず初九を訪ねて来ると云うことである。
 象伝にある「惡(あく)人(にん)」とは、周りの人から忌み嫌われるような人、すなわち九四を指している。九四が「惡人」なのは、九四は不正であり、互体(三四五)坎の主爻(溺れる人物)として、外卦離の主爻と互卦(二三四)離の主爻に(共に道理に明るい人物)に挟まれているからである。
 「見る」とは、初九と九四が和解することである。睽という疑い背く時の最初の段階で、初九は九四を悪人と見なして嫌悪する。九四は何とか初九と和合したいと願って、初九を訪ねてやって来る。初九は九四の気持ちに応えて和合すべきである。初九が九四の気持ちに応えなければ、お互いに誤解して疑い背き合っている関係を、修復するせっかくの機会を逃してしまう。
 ここで和解しないで九四が落胆して帰ってしまえば、その後、初九が後悔して九四を追いかけて行き和解を求めても、九四は絶対に応じない。また、九四を悪人だと思い込んで接すれば、九四は激怒して、益々背き合うことになる。和解すべく訪ねてくれた九四を初九が心から許して和解すれば、咎を免れる。
 背き合う睽の時においては、同じ価値観を持つ者同士であっても、背き合うことになりかねないので、背き合わないように努めて和合するように努力すべきである。
 価値観が異なる者同士の場合は、相手の価値観を受け容れる度量がないと、背き合うこと甚だしくなる。
 背き合うことの根本的な要因は、お互いに相手のことが信用できずに疑い合うことにある。背き合う睽の時の最初において相手のことを疑えば、相手もまた疑って、お互い未来永劫和解できないほど背き合うことになる。
 静かに相手を受け容れて、自分の価値観を押し付けなければ、相手の誤解は氷が溶けるように解けて、和解できる。自分の価値観に囚われることなく、無心に相手と接すれば、背き合う睽の時であろうとお互い和合することができる。
 「馬を喪(うしな)う。逐(お)う勿(なか)れ。自ら復(かえ)る」とは、いったん九四と背き合うことになり九四と別れ別れになっても追いかけてはならない。必ず九四の方から訪ねてくると云うことである。
 「惡(あく)人(にん)を見れば咎なし」とは、九四を悪人と思い込まずに和解すれば咎を免れると云うことである。
 初九の九四に対する接し方は、まるで孔子が陽(よう)貨(か)(孔子の仇敵)に接するようである。陽貨は孔子と和合しようとして贈り物を持参して訪ねてきたが、孔子は居留守をつかって逢おうとせず、後日陽貨が不在の時を狙って贈り物を届けに行ったところ、陽貨はそれを察して孔子を待ち構えていたので、二人は顔を合わせることになった。すると、孔子は陽貨を避けずに礼を交わして和合することによって、咎を免れたのである。
 象伝に「以て咎(とが)を辟(さ)くる也」とあるのは、ある時、背き合うことになってしまった者同士は、後日、必ず再会して和解しようとする。その時には必ず和解しなさいと云うことである。
 再会しても、相手を悪人のように思って相手を避けるような態度をとれば、相手は激怒して関係は悪化し二度と和解できないように背き合うことになる。だから、相手を悪人のように毛嫌いせずに、相手の価値観を受け容れて和合すべきである。相手を毛嫌いして避ければ咎められる。相手を受け容れて和合すれば咎を免れることを知っておくべきである。

九二。遇主于巷。无咎。
象曰、遇主于巷、未失道也。
○九二。主(しゆ)に巷(ちまた)に遇う。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、主に巷に遇うは、未だ道を失わざる也。
 主とは睽の時のトップである六五の王さまのことである。巷(ちまた)とは路地裏のように辺(へん)鄙(ぴ)な場所である。九二と六五は陰陽応じる関係にある。しかし、お互いに背き合う睽の時だから、和合しないだけでなく、お互い相手を疑っている。
 それゆえ、六五の王さまは九二と謁見することを躊(ちゆう)躇(ちよ)して、九二は王さまと逢うことができないのである。六五と九二の関係は冷え切って、六五の王さまは益々九二を疑うようになる。
 このような時に正々堂々と逢って話し合おうと思っても、それは不可能なことである。それゆえ、路地裏のような辺鄙な場所で密会することが上策である。
 臣下である九二が背き合う睽の時に対処するには、六五の王さまの心情を察して、忠臣としての役割を全うすることである。元々九二と六五は応じているので、逢って話し合うべきであるが、睽の時なので、正々堂々と逢って話し合うことができない。
 そこで、辺鄙な路地裏で会うことができれば、六五の疑いは忽(たちま)ち解けて、君臣和合することができる。そして、共に国家の危機を救おうとする。例え路地裏で会うことが礼儀に適っていなくても、正しい道に外れない。君子はその時々に適切に対処する。細かいことに拘(こだわ)れば逆に大義を失うことになる。
 以上のことを「主に巷に遇う。咎无し」と言うのである。
 逢うときは偶然を装って逢う。人の目が届かないところで、逢うべくして逢うのである。
 象伝に「未だ道を失わざる也」とあるのは、九二と六五が密談して国家の危機を救おうとするのだから、例え礼儀に適っていなくても、国家のために尽くそうとする者は人の道から外れないと云うことである。
 それゆえ、占ってこの卦爻が出たら、道を真っ直ぐ進むことはできないが、遠回りをして進めばよいのである。道を進むことを諦めなければ、咎を免れることができる。

六三。見輿曳。其牛掣。其人天且劓。无初有終。
象曰、見輿曳、位不當也。无初有終、遇剛也。
○六三。輿(くるま)の曳(ひ)かるるを見るに其の牛は掣(せい)、其の人は天(てん)且(か)つ劓(ぎ)。初め无(な)くして終り有り。
○象に曰く、輿(くるま)の曳(ひ)かるるを見るとは、位(くらい)、當(あた)らざれば也。初め无(な)くして終り有りとは、剛に遇えば也。
 「輿(くるま)」は、六三の女性を指し、「牛」は、九四を、「人」は九二を指す。「天」とは髪の毛を切ること。「劓(き)」とは鼻を切ることである。髪の毛は五行配当表によると火と心臓(五臓)に該当して、鼻は五行配当表によると金と肺(五臓)に該当する。
 六三は下卦兌の金(五行)が上卦離の火(五行)の下に在る。火が金を克して、髪の毛(火)が鼻(金)を傷付ける形である。「輿(くるま)」は、前から引っ張れば前に進み、後ろから引っ張れば後ろに進む。すなわち六三の女性は、九二と九四に挟まれて、前や後ろに引っ張られている。前から引っ張るのは九四の「牛」であり、後ろから引っ張るのは九二の「人」である。
 九二と九四は共に六三の女性に接したいと思っている。九二と九四に挟まれている六三の女性の様子を六三と応じる位置に居る上九が遠くから眺めている。上九は本来六三の夫になる関係だが、背き合う睽の時ゆえ、上九と六三は結婚していない。上九の目からは六三は陰柔不中正の善からぬ女性に見える。
 六三は九二と九四と仲良くしている。その様子を遠くから眺めている上九は激しく嫉妬している。六三の女性が本来夫となるべき上九のことなど忘れて、九二と九四を二股にかけて弄(もてあそ)んでいると疑っているのである。
 まさしく、「輿(くるま)」が「牛」によって前に引っ張られ、「人」によって後ろに引っ張られているようなものである。上九は六三が浮気していると勘違いして大いに憎む。九二と九四の髪を切り、鼻を切って、怨みを晴らそうとする。疑う気持ちが激しくなって暴力を用いようとする。それゆえ、「輿(くるま)の曳かるるを見るに其の牛は掣(せい)。其の人は天(てん)且(か)つ劓(ぎ)」と言うのである。
 「牛」である九四は「輿(くるま)」である六三を担ぎ上げようとするが、不正なので制御することに失敗して、互体(三四五)坎の主爻ゆえ困難に陥る。すなわち「輿(くるま)」である六三を担ぎ上げようとして、「輿(くるま)」に曳かれてしまう。
 以上のように、六三と上九は始めはお互い背き合って暴力を用いようとするほど憎しみ疑うようになるが、ひょんなことから誤解が解けると、あっという間に気持ちが通じ合って親しみ和合する。最初は善からぬ関係であったが、終には善き関係になるので「初め无(な)くして終り有り」と言うのである。
 象伝に「位(くらい)、當(あた)らざれば也」とあるのは、睽の時にあたり、六三の女子が上九の夫に疑われるのは、陰柔の性質で正しからざる位に居て、過ぎたる性質を有するからである。また「剛に遇えば也」とあるのは、上九の疑いが解けて六三と親しみ和合することをいう。剛とは上九のことである。
 上九と六三は夫婦である。夫婦が背き合えば相手を疑うことになる。相手を疑うようになれば、相手のやることなすこと我慢できなくなる。六三も上九も以上のような経緯でお互い疑うようになるのである。

九四。睽孤。遇元夫、交孚。厲无咎。
象曰、交孚、无咎、志行也。
○九四。睽(けい)孤(こ)なり。元(げん)夫(ぷ)に遇(あ)い、交(こも)々(ごも)孚(まこと)あり。厲(あやう)けれども咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、交(こも)々(ごも)孚(まこと)あり咎(とが)无(な)しとは、志行わるる也。
 「睽(けい)孤(こ)なり」の「孤」は、九四は孤立しており、誰も助けてくれないと云うことである。「元夫」とは初九のことである。
 初九は善人だが、背き合う睽の時の始めに居て世間知らずである。応ずる相手も比する相手もいないので、誰も助けてくれない。九四は初九と応位だが陽同士ゆえ初九を拒み、背き合う関係となる。初九は孤立するので「睽(けい)孤(こ)なり」と言う。
 初九は剛健正位ゆえ、不正な九四を許せない。九四は悪人で不正だが、上卦離の明智の才能を有している。九四は初九が剛健正位なのを見て、己の不正を恥じて反省する。自分から初九を訪ねて、真心から和合を求めれば、初九は九四を拒絶せずに和解する。初九は孤立から解かれる。以上を「元(げん)夫(ぷ)に遇い、交(こも)々(ごも)孚(まこと)あり。厲(あやう)けれども咎(とが)无(な)し」と言う。
 象伝に「志行わるる也」とあるのは、九四の抱く志は、遂に成し遂げられると云うことである。

六五。悔亡。厥宗噬膚。往何咎。
象曰、厥宗噬膚、往有慶也。
○六五。悔亡ぶ。厥(その)宗(そう)、膚(ふ)を噬(か)む。往きて何の咎(とが)あらん。
○象に曰く、厥(その)宗(そう)、膚(ふ)を噬(か)むとは、往きて慶(よろこび)有る也。
 六五は王さまの地位に就いているが、陰柔な性質ゆえ、背き合うという睽の時にあたって、臣民(臣下や民衆)と和合・調和することが難しい。九二の忠臣が応じているが、間に居る邪魔者(六三・九四)が障害となってお互い相見えることができない。それゆえ六五は悔しい思いをする。
 けれども、六五と九二が背き合うのは誤解から生じたことである。誤解が解けて、九二と和解すれば、忠臣である九二は喜んで六五の下に馳せ参じて補佐する。六五の悔しい思いはあっと言う目に消滅する。それゆえ「悔亡ぶ」と言う。
 「悔亡ぶ」の二字は、六五の切実な心境を表したものである。六五は、不正ゆえ後悔するが、明智で剛健中正の忠臣の補佐を得て、「悔亡ぶ」のである。「厥(その)宗(そう)」は、親族でもある臣下九二のことである。臣下を「宗」と称するのは、親しみを表現しているのである。上位の人は下位の人を慈しむべきである。
 今は背き合う睽の時だから、親戚同士でも背き合い易い。上司と部下(君臣)の間柄ならなおさらである。それゆえ、九二と六五は背き合う。上司と部下の正しい関係(君臣の義)からして、部下の方から上司に対して和合を求めることは至難の業(わざ)である。それゆえ九二の爻辞には「主に巷に遇う。咎无し(そこで、上司と辺鄙な路地裏で会う。問題ない)。」と言う。
 「主」とは、上司を尊んでいる言葉である。下位に在る人は、自分の分を弁(わきま)えて上司に厳粛に仕えるべきである。上司(王さま)の方から部下に対して和解しようと働きかけるのは、(部下から上司に対して和解を働きかけることと比べれば)容易に行えることである。それゆえ「厥(その)宗(そう)、膚(ふ)を噬(か)む」と言う。「膚(ふ)」は柔らかくて噛みやすいので、上司(王さま)の方から部下(臣下)に働きかけて和解することは容易なことである。
 睽の時において、六五の王さまは柔らかい性質で中庸の徳を具えている。柔らかくて不正ゆえ、気持ちが弱いところもあり、一旦、九二を疑い始めると、その気持ちが他の臣下にも及ぶので、組織は一体感を失い、天下国家は乱れていく。
 そこで、六五は自分のやり方を反省し、九二と和解して抜擢任用する。すると、他の臣下も六五を慕うようになり、天下国家は泰平になる。どうして災難に陥ることがあろうか。それゆえ「往きて何の咎(とが)あらん」と言う。
 象伝に「往きて慶(よろこび)有る也」とあるのは、六五が九二の忠実な部下(忠臣)と和解して抜擢任用すれば、上下(君臣)が心を一つにして、真心で働くようになるので、天下国家は泰平となる。思いやりが満ち溢れた社会となり、人々は幸せになる。国家滅亡の憂いはなくなり、人々は天下泰平を謳歌する。
 爻辞では、六五が王さまとしての役割を積極的に努めるべきことを取り上げて、問題ないと云い、象伝では、六五と九二が和解して組織が一体化することを取り上げて、人々は幸せになると云う。すべて、上司と部下(君臣)が和解して、背き合う時を克服したから成し遂げられたのである。

上九。睽孤。見豕負塗、載鬼一車。先張之弧、後説之弧。匪寇婚媾。往遇雨則吉。
象曰、遇雨之吉、群疑亡也。
○上九。睽(けい)孤(こ)なり。豕(いのこ)が塗(どろ)を負い、鬼を載すこと一車なるを見る。先には之が弧(ゆみ)を張り、後には之が弧を説く。寇(あだ)に匪(あら)ず婚(こん)媾(こう)なり。往きて雨に遇えば則ち吉。
○象に曰く、雨に遇うの吉は、群(ぐん)疑(ぎ)亡(ほろ)ぶれば也。
 「塗(どろ)を負い」の「負い」は、負担すること。「塗(どろ)」は、泥を塗ることである。「豕(ぶた)」の姿形は醜悪であり、豚は自分の身体に泥を塗ることを好む。その悪臭は耐えられない。それゆえ「塗(どろ)を負い」と云い、豚の醜態を小人に例えたのである。
 「先には之が弧(ゆみ)を張り、後には之が弧(ゆみ)を説く」の「弧(ゆみ)」は、木の弓のことである。「張り」は、弦を張ることである。「弧(ゆみ)を説く」の「説く」は、弓を弦から外す(弓を射ることを止める)ことである。
 上九は六三と陰陽応じるが、背き合う時である睽の終局ゆえ、背き憎しみ合うこと甚だしく相手が何をしても憎々しく思う。二人の周りには誰も寄り付かないので「睽(けい)孤(こ)なり」と言う。
 愚人は自分が気に入らないものは醜いものとしてこれを嫌い、思い通りにならないことは避ける。自分が愚かなことには全く気付かず、ちょっとしたことでも疑って背(そむ)き嫉(ねた)む。
 上九が六三を疑う有様は「泥を身体に塗りつける豚」を見るようである。上九が六三を疑うさまは、嫌うあまりに恐怖を感じて化け物を見るようである。
 化け物が複数、あちらこちらに顔を出して車の中は化け物だらけになる。実在しない鬼を実在しているように感じるのは、背き合う睽の時の妄想である。それゆえ「豕が塗を負い、鬼を載すこと一車なるを見る」と言う。
 妄想による恐怖が心を蔽い、遂に上九は六三を弓矢で射殺そうとする。疑いの気持ちがそこまで高まると周りの人を寄せ付けなくなり、上九はますます孤立して、六三のことを車を曳く牛や泥を身体に塗る豚に見立てる。何の罪もない六三をそこまで汚れた存在と感じる。人を乗せるための車を鬼を載せるための車と勘違いする。無罪の六三を有罪に仕立てる。
 睽は互体(二三四)離(目)と上卦離(目)が重なっており、乱(みだれ)視(みる)ことを示している。また互体坎(三四五)が離の明智を攪乱して、六三はその影響を受けて上九と背き合う。上九から六三を見れば「泥を身体に塗った豚」や「坎の鬼」のように見える。それゆえ「鬼を載すこと一車なるを見る」と言う。坎には盗人や弓という意味もある。
 物事が窮まれば必ず原点に復る。背き合う睽の時は疑念から生じた。疑念が窮まると一転して解消する。疑念が解ければ、弓矢で射殺すことなどとんでもないと取り止める。以上のことから「先には之が弧を張り、後には之が弧を説く」と言う。
 上九が変ずれば、雷沢帰妹となる。雷沢帰妹は女性が嫁ぐ時の物語。上爻が陰陽変ずることを「弧(ゆみ)を説く(弓を射ることを止める)」と言う。すなわち雷沢帰妹の嫁入りの物語に変ずる。
 上九は最初は六三を敵のように憎むが、疑いが晴れると、一転して六三をお嫁さんとして迎え入れる。それゆえ「寇(あだ)に匪(あら)ず」と言う。上九は六三の夫なので「婚(こん)媾(こう)なり」と言う。
 雨は陰陽交わって降下する慈しみの潤いである。上九と六三が親しみ結婚すれば、背き合う睽の時は終わり、上九と六三は幸福になる。それゆえ「往きて雨に遇えば則ち吉」と言う。
 上九と六三は夫婦である。睽の時に背き合うのは上卦火と下卦沢が逆方向に進むからだが、上九に至って和解して背き合うことを止める。
 象伝に「群疑亡ぶれば也」とあるのは、一点の疑いから相手を豚と罵(ののし)って憎しみ、鬼と恐れて、弓矢で射殺そうとするまでに至っても、その原因である疑いが解ければ、平常心に戻って仲直りすると云うことである。
 明智に過ぎる人は疑い深いも。明智があっても明徳が曇っていれば疑いを抱く。上九は明智に過ぎて六三を疑い、明徳が曇っていたので、疑いを解くことができなかったが、その後明徳が晴れて疑いが解けた。明智を誇るものへの戒めである。

 

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