呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 314 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

42.風雷益

□卦辞(彖辞)
益、利有攸往。利渉大川。
○益は、往く攸(ところ)有るに利(よろ)し。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利し。
 風雷益は、下卦震、上卦巽。巽は風、震は雷。雷は大地が発する活発なエネルギーであり、万物を揺り動かす存在である。風は太陽の熱が空気を膨張させ、上から寒冷の空気が下に降りてくるから生じる。上から降りてくる寒冷の空気によって天気は大きく変化する。寒冷の空気が大地に存在する万物の様相を変化させる。
 雷が轟きわたり、風が吹き荒れ、万物は揺すぶられ、鍛えられる。草木は発育・繁茂して、天地万物の造化作用が活発になる。正しく易の時が本領を発揮するのである。
 風が吹き荒れると、雷も轟きわたる。雷が轟きわたると、風が吹き荒れる。雷と風は互いに刺激して大きな力を発揮して、万物を奮い立たせて造化作用が活発になる。
 益という字は、器に物が満ち溢れるという意味である。風雷益の形は天地否から変化して出来た形である。天地否の四爻が初爻に移動して初爻が陽爻となり、初爻にあった陰爻が四爻に移動して四爻が陰爻になった。
 風雷益は天地の陰陽が交わって最初にできた形である。天の役割は太陽のエネルギーを大地に照らして、大地の役割は太陽のエネルギーを形ある物に転換することにある。大地が天の働きによって利益を得ると云う物語である。
 風雷益の物語は、上卦の陽爻が下卦に下って、下卦の陰爻と入れ替わる。上卦が損して、下卦が利益を得る形である。
 世の中でも同じようなことが起こる。上に位置する政府が税金を免除すれば、下に位置する民衆の支出が抑えられる。民衆の経済活動が活発になり、経済が成長して、国家は繁栄する。
 樹木が成長していく過程で例えれば、春になり草木が芽生えて、やがて枝葉が繁茂すると、太陽の光が細部に行き渡らなくなる。そこで、枝葉を剪定して、風通しをよくすると、太陽の光も細部に行き渡るようになって、下から養分がどんどん上に昇り、樹木は成長していく。
 家屋の建築で例えれば、棟(むね)や梁(はり)など、家屋上部の重量を軽くして、家屋を下部で支えている基礎や柱を重厚感のある作りにすれば、家屋全体の構造は強固になる。
 また、下卦震の長男である夫が、上卦巽の長女である妻に大切にされて、夫婦仲睦まじくすれば、子孫は繁栄する。以上は全て、上が損して下を益するという物語である。

□彖伝
彖曰、益、損上益下、民説无疆。自上下下、其道大光。利有攸往、中正有慶。利渉大川、木道乃行。益動而巽、日進无疆。天施地生、其益无方。凡益之道、與時偕行。
○彖に曰く、益は上を損(へら)して下を益(ふや)し、民(たみ)説(よろこ)ぶこと疆(かぎり)无(な)し。上より下に下り、其の道大いに光る。往く攸(ところ)有るに利(よろ)しとは、中正にして慶(よろこ)び有るなり。大川を渉(わた)るに利しとは、木(もく)道(どう)乃ち行はるるなり。益は動きて巽(したが)ひ、日に進むこと疆(かぎり)无(な)し。天施し地生じ、其の益方(ほう)无(む)し。凡(およ)そ益の道は、時と偕(とも)に行はる。
 この卦を人間社会に当て嵌めると、下卦震は動き、上卦巽は順う時である。すなわち、下卦の自分が奮発して事を為そうとする時には、上卦の相手は自分に順って、自分の志や希望が叶う。
 益は、必ず志や希望が叶う時である。人間社会に利益をもたらすのが益の時である。また、益の時は懸案事項や大事業を進んで為し遂げることができる気運が生ずる時でもある。
 懸案事項や大事業に取り組むことを躊躇してはならない。胆力を身に付けて天下国家のために断固として懸案事項や大事業を推し進めて、大きな利益を獲得すべきである。それゆえ「往く攸(ところ)有るに利し。大川を渉るに利し」と言うのである。
 「往く攸(ところ)有るに利し」とは、何事も想定している以上に事を為し遂げることができて、予想以上の幸福を招き寄せると云うことである。周りの人々が自分の志や希望に順ってくれるので、思い切って事を推し進めるべきことを示している。
 「大川を渉るに利し」とは、懸案事項や大事業を為し遂げて志や希望を叶えられることを云う。また、大きな川を渡るために、舟に乗って向こう岸を目指せば、大きな利益を得ることに例えているのである。
 人間関係に当て嵌めると、ある家(組織)の長男と長女が心を合わせて、その家(組織)に利益をもたらす時である。また、自分の志や希望に応じて相手が順ってくれる形である。
 国家に当て嵌めると、上卦巽の政府は風のような性質を具えているから、上下(政府と国民)通じないことはない。下卦震の国民は雷のような性質を具えているから、誰一人として動かない人はいない。それゆえ、政府は国民の世論をよく理解して、世論に応じて政治を行い、国民は政府を支持して、よく働いて天下国家の利益に寄与する時である。
 また、風雷益の原型である天地否の時に、上卦乾の一陽が下に降りてきて、下卦坤の陰爻と入れ替わるのは、政府が予算を支出(損失)することによって、下に居る国民の経済状態を豊かにすると云う意味である。また、王さまが恩沢を国民に施して、国民はその慈雨によって潤うと云う意味である。
 以上のことは王さまの人徳が国民に及ぶ最高の形であり、道徳的に考えても、政治に的に考えても、これ以上利益を得られる時はない。以上のことを「益は上を損して下を益す。民説ぶこと疆无し。上より下に下り、其の道大いに光る」と言うのである。
 六二と九五が中庸の徳を具えて正位に在るのは、国家が経済的に豊かで、庶民も朝廷も幸福に満ちているので、共に協力して国家に尽くすが宜しいと云う意味である。そのことを「往く攸有るに利しとは、中正にして慶び有るなり」と言う。
 大川を渡るような危険を犯して、大海に出て行こうとする勇気ある人物でも、頑丈な舟を手に入れなければ、危険を乗り越えられない。舟は木で出来ているが、益の卦は上卦巽も下卦震も共に五行の「木」に該当する。それゆえ「大川を渉るに利しとは、木(もく)道(どう)乃ち行はるるなり」と言うのである。
 以上のことは、海軍を増強して民間の船舶を手厚く保護することである。名君の道は、下々に恩沢を施すことである。それゆえ、下々から収益を奪うことを「損」と言い、下々に恩沢を施すことを「益」と言う。庶民が豊かであれば、王さまや政府が困窮することはない。下々が利益を得る時は、政府も共に利益を得るものである。以上が風雷益の物語である。
 損の時の本質は、下々が損失を被ることではなく、下を犠牲にして上が利益を得ることにある。益の時の本質は、下々が利益を得ることではなく、上が犠牲になって、下々が利益を得ることにある。
 益の時は、天地に例えれば、地に活力がない時、政府と民衆に例えれば、民衆に活力がない時だから、地に樹木を培養したり、民衆に恩沢を施すことが求められる。以上を「天施し地生じ、其の益すこと方(ほう)无(な)し。凡(およ)そ益の道は、時と偕(とも)に行はる」と言う。
 益の時は、九五が天の助けを得て、民意に従い善政を施すから、上下和睦して遍く安定した社会となる。九五は側近である六四の宰相を信頼して、民衆を思いやる政治を委任するから、細かいことには囚われないで泰然としている。以上のことを「九五、孚(まこと)有り惠(けい)心(しん)あり。問う勿(な)くして元吉」と言うのである。
 六四の宰相は九五の王さまの意を酌んで、民衆の事情をよく把握し、民衆の利益になることなら、政府に不利益になることでも実行する。以上のことを「六四、中行ありて公(きみ)に告げて從はる。用て依(い)を爲し國を遷(うつ)すに利し」と言うのである。
 忠臣六二も九五の王さまと陰陽応じる関係にあるので、王さまの意を酌んでよく働き、民衆の喜ぶことを率先して行う。九五は六二の将来を思いやって抜擢任用する。それゆえ「或は之を益す。十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)も違(たが)う克(あた)はず。永貞にして吉」と言うのである。
 王さま九五の相談役であるべき上九は、益の道を誤解して、自分の利益だけを追求する。その行為が自分の身を危険に追いやる。それゆえ「之を益す莫し。或は之を撃つ」と言うのである。
 軍事に当て嵌めると、自軍は下卦震の勢いを得て、敵軍に向かって進み行くが、敵軍は上卦巽(柔順)ゆえ立ち向かってくるだけの軍事力がなく、あっという間に降参する形である。敵軍が反撃するならば、九五の段階で反撃すべきである。
 この卦を俯瞰して見ると、損の時と益の時は正反対のようでありながら、本質的には同じ内容であることがわかる。
 山沢損の卦が地天泰の変形であり、地天泰の下卦が乾であるのは、天下国家が裕福であるという形だが、その下卦乾の陽爻が上卦地の陰爻と入れ替わることから、下卦が損すると考える。
 風雷益の卦が天地否の変形であり、天地否の上卦が乾であるのは、朝廷や政府が裕福であるという形だが、その上卦乾の陽爻が下卦地の陰爻と入れ替わることから、上卦乾が損することになるが、損とは云わない。下卦地に陽爻が入るので、下卦地が利益を得ると考える。
 上卦が損することを損と言わないのに、下卦が損することを損と言うのは、下卦が損失を被ることは、天下国家の大本である民衆が利益を損失することになるからである。
 易経においては聖人が民衆を大切にしていることを示している。上卦の政府が損失を被ることは、下卦の民衆が利益を得ることになるので、益の時は、損の時の次に置かれている。
 損の時から益の時に移行すれば、守りを強固にする必要はなく、どんどん攻めていけば利益を得ることができる。経済活動は盛んになり、いろいろな商品・サービスが世の中に溢れるようになる。王さまは慈しみの心で民衆に恩沢を与えるので、天下国家は益々発展するのである。

□大象伝
象曰、風雷益。君子以見善則遷、有過則改。
○象に曰く、風雷は益なり。君子以て善を見れば則ち遷(かえ)り、過(あやまち)有れば則ち改む。
 雷が轟き渡り、風が吹き荒れれば、それぞれのエネルギーが勢いよく渦巻いて、昇ったり降ったりしながら、螺旋状に拡大発展する。損益勘定など吹き飛ばして、大きな利益を与える。
 だから、雷風恒の大象伝も風雷益の大象伝も、他の卦の大象伝のように上卦と下卦に分けてコメントしていない。風と雷は天地の間にあって常に一体となって作用するからである。
 陰陽五行で見れば、雷である震は東(十二支では卯)に位置しており、巽は東南(十二支では辰と巳の間)に位置している。東から南に向かうのは正常な動き。この卦を益と名付ける所以である。
 君子は益の卦の形を見て、人が善い行いをすれば、それを真似して善行を重ねる。私利私欲を抑制して己の人格を磨き、君子としての資質を培う。もし、自分が間違うようなことがあったら、明智でそれを察して間違いを正し、よく反省して、二度と間違いを犯さないようにするのである。
 本来、人は善き存在である。悪は後から芽生えるものである。天真爛漫に生きることができれば、誰もが善き人として生きることができるのである。しかし、人はいつも天真爛漫に生きることはできないので悪に陥ることがある。それゆえ、努めて善であろうとしなければ、利益を得ることはできない。
 だから人間は善であろうとする。善であろうとすることが、風が吹くように速やかでなければならない。もし、悪に陥った場合は、悪を改めることが肝要である。悪を改めるためには雷のように勇気を奮い起こさなければならない。以上のことを「善を見れば則ち遷(かえ)り、過(あやまち)有れば則ち改む」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。利用爲大作。元吉。无咎。
象曰、元吉无咎、下不厚事也。
○初九。用(もつ)て大(たい)作(さく)を爲(な)すに利(よろ)し。元吉。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、元吉、咎(とが)无(な)しとは、下(した)、事を厚くせざる也。
 「用て大作を為すに利し」の「大作」とは、王さまが国中を巡回して田畑を耕し収穫を得ることである。そのことを孟子は「春は耕して省みる。而して足らざるを補う。秋は斂(おさめる)を省みて而して給(たら)ざるを助くる」と言っている。
 お祭りをすることや、賑わうこと、人にものを貸すこと、国家を営むこと、いずれも「大作」である。耕して利益を得ること全て「大作」である。また、臣下は王さまから恩沢を得て、天下万民のために一生懸命に働く。天下万民が幸せになれば、天下国家は安泰である。これもまた「大作」である。「大作」は天下万民を幸せにすることでもある。
 この卦の爻辞を見ると、六二で「帝(てい)に亨(とお)す」と言い、六三に「凶事を用(もち)ふ」と言い、六四に「國を遷(うつ)す」と言っている。いずれも「大作」のことである。
 「大作」とは、王さまが国中を巡回して田畑を耕し収穫を得ることであり、天下万民を幸せにすることである。
 下卦震は木であり、動く性質がある。上卦巽も木であり、入るという性質がある。互体(二三四)坤は田(たん)圃(ぼ)であり牛である。いずれも「大作」の形をしている。
 陰陽五行で見ると、震は春(春分)であり、巽は春から夏に移行する季節(立夏)である。いずれも農業が盛んになる時である。
 初九は剛健で位正しく才能と人徳に秀でている。この卦の主人公(中心的な働きをする爻)である。しかも、下卦震の主爻(動く時の原動力)であり、六四と陰陽応じ合う関係にある。政治家や人格者としての才能を具えており、大臣六四から一目置かれている人物である。
 本来、益の卦は上を損して下を益するという意味であるが、下を益するのは二つのやり方がある。ひとつは一軒一軒の家に食を与えたり、一人ひとりにお金を与えるやり方である。
 しかし、このやり方は継続して実施することが困難である。人々を思いやるという意味では「仁」であるが、天下国家を益する方法としては適切ではないのである。
 そこで、「大作」の天下万民を幸せにするという大義を体現するやり方として、天下国家において政府が民衆を恒常的・継続的に益するような大事業を実施する。これが天下国家を益する方法として適切なので「用(もつ)て大(たい)作(さく)を爲(な)すに利し」と言うのである。
 益の時に適切に対処すべく、天下国家を益する大事業を実施して、国民全体を経済的に豊かにすることは「大いなる思いやり(元仁)」を施すことである。民衆は政府を信頼して政府に養われ、政府はこの大事業を継続的に実施しても弊害はない。
 そのような大事業を実施することができれば、大いなる仁政であり天下国家に吉運を招き寄せることになるので、問題があろうはずがない。このような大事業を実施しなければ、益の時に適切に対処できない。だから「元吉。咎无し」と言うのである。
 益の原形である天地否の時は、上卦乾だけ満ち足りていて、下卦坤は貧しくて不足している。だから上卦乾から陽爻を減らして、下卦坤の初爻と入れ替えたのである。このように上を損することにより、下を益することが、天下国家を益する大事業である。
 象伝に「下、事を厚くせざる也」とあるのは、「初九は最下に在り、大きな任務を負う立場ではないが、六四の大臣に抜擢任用されて、天下国家のために全力を尽くして働く。それゆえ、初九が一方的に厚遇されたというわけではない」と云うことである。
 また、「大事業を為し遂げるためには初九は地位が卑賤に過ぎるが、初九は貞節で驕り高ぶる心配はないので、大事業を為し遂げることができる」と云うことでもある。
 初九は陽剛の才能を有して最下に居り、六四の大臣と応じている。初九は政治家や人格者としての才能を具えており、そのことは上位の人々に知られているので、一目置かれている。そこで、上位の人々から大いに恩恵を受けるのである。
 初九は上位の人々からの恩恵に報いるためにも、大いに天下国家のために尽くすことが求められている。最下の位に居て上位の人々から一目置かれて抜擢任用されるのだから、それなりの結果を出さなければ周りの人々から非難されることは避けられない。
 世間の人々は世に任用される人の能力や出自や人柄をよく見て、その人物の適否を評価するものである。初九がお国のために真心を尽くして、民衆から信服されれば、卑賤な地位に居ても大事業を為し遂げることができる。
六二。或益之。十朋之龜弗克違。永貞吉。王用享于帝。吉。
象曰、或益之、自外來也。
○六二。或(あるい)は之を益(ふや)す。十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)も違(たが)う克(あた)はず。永(えい)貞(てい)にして吉。王用(もつ)て帝(てい)に享(とお)す。吉。
○象に曰く、或(あるい)は之を益(ふや)すとは、外より來(く)る也。
 「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)」の意味は、山沢損の六五と同じ(昔は貝殻が宝物であった。「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)」とは高貴な宝物の例えである。「龜(き)」には霊性があり吉凶を予知するので占いの道具となる)である。
 六二は柔順な性質で中庸の徳を具えており、陰爻陰位で位も正しい。剛健中正の徳を具えた九五は、六二を大切にして可愛がっている。九五は、六二に委任して民衆を治めようとする。
 六二は九五の命令をよく聞いて、民衆を治めることに努める。九五と六二が協力することを、天も味方してくれるので、民衆はよく治まる。それゆえ「或(あるい)は之を益(ふや)す」と言う。
 「或(あるい)は之を益(ふや)す」の「或(あるい)は」とは、六二は才徳溢れる人物であるが、まだ評価が定まっていないと云うことである。「之」とは、天下国家の人々(民衆)のことである。
 今は上を損して、下を益する時だから、外卦の王さま(九五)が内卦の民衆に利益を与えるために、予算を捻出するのである。象伝では、このことを「外より來る也」と言っている。
 以上のようだから、六二の功徳は賞賛されるのである。そこで、六二のことを高貴な宝物に例えて、「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)も違(たが)う克(あた)はず」と言う。下々の民衆に利益を与えるのは、継続的であることが求められる。それゆえ「永貞にして吉」と言うのである。「貞」とは、恒常的に正しいことである。
 九五の爻辞に「元吉」とあり、六二の爻辞には「永貞にして吉」とあるのは、君主の位に剛健の性質を具えた九五が居り、忠臣の位に柔順の性質を具えた六二が居ると云うことである。
 思えば、周の文王はこれ以上はない仁政を行って、下々の民衆に喜ばれる繁栄社会を実現し、至誠を尽くして民衆と共にご先祖様をお祀りした(あるいは、君主に仕えた)のである。その結果、これ以上はないという幸福な社会を築き上げた。それゆえ「王用て帝に享(とお)す。吉」と言うのである。
 「王用て帝に享(とお)す」とは、益の物語が意義ある時であることを示している。「或(あるい)は之を益(ふや)す」とは、人の力で社会に利益を与えると云うことである。「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)も違(たが)う克(あた)はず」とは、神仏のご加護で社会に利益が与えられると云うことである。「王用て帝に享(とお)す。吉」とは、天もまた、社会に利益が与えられることを応援してくれると云うことである。
 六二が得られる利益は、尋常ではない。宝の中の宝物である「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)(高貴な宝物の例え)」のような利益である。祖先が長い年月をかけて陰徳を積み上げ国家に尽くしてきたからこそ、神仏のご加護が今に及び、六二に利益が与えられたのである。六二は宝の中の宝物を神仏から授かった果報者である。
 「或(あるい)は之を益(ふや)す」の「或(あるい)は」とは、その時点では確定していない(方向が定まっていない)言葉である。「十(じつ)朋(ぽう)の龜(き)も違(たが)う克(あた)はず」とは、六二が賜った宝の中の宝物は、百パーセント的中する占いを用いて未来のことを予測して、何一つ過ちを犯さない方法を自得したと云うことである。六二の存在は、中庸にある「大徳は命を受く」と言葉そのものである。

六三、益之用凶事。无咎。有孚中行。告公用圭。
象曰、益用凶事、固有之也。
○六三、之を益(ふや)すに凶事を用(もち)ふ。咎(とが)无(な)し。孚(まこと)有り中(ちゆう)行(こう)あり。公(きみ)に告(つ)ぐるに圭(けい)を用ふ。
○象に曰く、益(ふや)すに凶事を用うるは、固(もと)より之を有する也。
 「之を益(ふや)すに凶事を用(もち)ふ」の「凶事」とは、刑罰を受けると云う意味。または、戦争や飢饉など非常事態に陥ることを云う。互体坤(二三四)を「死」と捉え、「喪(も)」と捉えても凶である。
 「公(きみ)に告ぐるに圭を用ふ」の「圭」とは、神仏をお祀りする玉である。または、信頼できる物である。下卦震を「玉」とする。「玉=宝」は震の卦象だとも言える。
 この爻は陰爻なので柔らかい性質で才能はない。内卦震(動く性質)の極点に居る。内卦と外卦の真ん中(境界)に居て、妄進して利益を貪(むさぼ)ろうとする。道を外れること甚だしい人物であり、刑罰を受けなければならないほどの罪がある。しかしながら、益の時だから、利益を得ることもできる。それゆえ「之を益(ふや)すに凶事を用ふ」と言うのである。
 功績がある人物を表彰して、罪を犯した人物は刑罰に処するのは、王さまが国を治める時の常套手段である。功績がある人を表彰することは吉運を招き寄せることであり、罪人を刑罰に処することは凶運を除き去ることになる。
 六三は急いで利益を貪(むさぼ)ろうとするから、安易に利益を与えると調子に乗っていつまでも利益を貪り続ける。それゆえ、六三には艱難辛苦を与えて、卑しい心を改めるように仕向けるのである。
 下卦震の動きによって、六三を改心させようとする。六三も艱難辛苦を経験すれば、心を改めて反省し艱難辛苦を乗り越えようとするので、禍を福に転ずることができる。それゆえ「咎(とが)无(な)し」と言う。また、「孚(まこと)有り中(ちゆう)行(こう)あり」とは、真心があれば時に中ることができることを云い、「公(きみ)に告ぐるに圭を用ふ」とは、その真心は上位に居る人々にも伝わることを云う。
 六三と六四は公に奉ずる地位に居る。王さまが国中を視察して廻れば、民衆は朝廷を支持して国中が一つになる。
 象伝に「益(ふや)すに凶事を用うるは、固(もと)より之を有する也」とあるのは、たとえ凶運に巡り会ったとしても、ゆったりと、その時にやるべきことをやればよいと云うことである。
 六三は下卦に属している。上位の人々から利益を貪(むさぼ)ろうとしてはならない。むしろ感謝すべきである。上位の人々に感謝して、民衆を災難から救い、民衆の悩みを解決して、世の中を善い方向に導くことが六三の役割である。

六四。中行告公從。利用爲依遷國。
象曰、告公從、以益志也。
○六四。中行ありて公(きみ)に告げて從(したが)はる。用て依(い)を爲し國を遷(うつ)すに利し。
○象に曰く、公(きみ)に告げて從はるるは、益の志を以て也。
 六四は柔順で位正しく、大臣(側近)の地位に在る。九五の王さまと陰陽仲良く比しており、名君九五を尊敬している。九五を補佐すべく、初九を抜擢任用して大事業を任せる。正しく六四は民衆に利益を付与する存在である。
 六四の大臣が、その時に適切に対処すべく九五の王さまに忠言すれば、王さまは忠言に従う。それゆえ「中行ありて公(きみ)に告げて從はる」と言うのである。
 王さまの側近である六四の大臣は、多くの民衆に頼られている。下々が利益を得る益の時に中って民衆に恩恵を与え、天下国家の基礎力を強化しようとする。民衆が苦しんでいる問題を解決して、民衆が安心する社会を実現することが肝要である。
 国力を強化し、経済を発展させるためには、民衆が安心して働くことができる産業を育むことが求められる。それゆえ、殖産興業を図るのである。天下国家の地理的条件をよく考え、民衆の心を奮い立たせ、国家の経済基盤を強化していくのである。
 やる気のある人々を動機付けて、民衆の底力で経済を発展させていく。昔の名君はみなそのようなやり方で天下国家を豊かにしたのである。そのことを「用て依を為し國を遷すに利し」と言う。六四は大臣の地位に在るので、天下国家を経済的に豊かにする政策を九五の王さまに提言する役割を担っている。
 象伝に「益の志を以て也」とあるのは、六四の大臣が天下国家を繁栄させる政策を九五の王さまに提言するので、国を豊かにしたいという王さまの思いが実現することを云うのである。
 上卦巽は風である。風には形がないので神仏に例えることができる。天下国家を繁栄させるために神仏をお祀りするのである。それゆえ「公(きみ)に告げて従はる」と言うのである。

九五。有孚惠心。勿問元吉。有孚惠我德。
象曰、有孚惠心、勿問之矣。惠我德、大得志也。
○九五。孚(まこと)有り惠(けい)心(しん)あり。問う勿(な)くして元吉。孚(まこと)有り我が德を惠(めぐみ)とす。
○象に曰く、孚(まこと)有り惠(けい)心(しん)あるは、之を問ふ勿(な)し。我が德を惠(めぐみ)とするは、大いに志を得る也。
 九五の王さまは剛健中正の徳を具えて君主の位に居る。六二の賢臣は九五の王さまを慕っている。九五は部下との信頼関係を大事にしており、信頼できない部下は用いない。
 九五は自らは倹約することを心がけて、下々の民衆を豊かにしたいと思っている。大局的に物事を捉える資質があるので、国の各地を視察したり、お祭りを見学したり、いつも民衆の立場に立った政治を行っている。
 昔の指導者は、天下国家が不安定に陥る前の段階で、これからの行く末を心配した。天下国家が治まって民衆が生活を楽しむようになったのを確認してから、自らも楽しんだ。
 正しく論語の泰伯第八・第二十一章に「子曰く、禹(う)は吾(われ)間(かん)然(ぜん)すること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪(あ)しくして美を黻(ふつ)冕(べん)に致し、宮(きゆう)室(しつ)を卑(いや)しくして力を溝(こう)洫(きよく)に尽くせり。禹(う)は吾(われ)間(かん)然(ぜん)すること無し。」以下、現代語訳〔孔先生がおっしゃった。「禹は(一言も口を挟む余地がないほど)非の打ちどころがない。食事を質素にして、先祖の霊の祭祀を厚くして孝道を尽くしているし、普段着ている衣服は粗末だが、黻(ふつ)(祭の時の前垂れ)や冕(べん)(祭の時の冠)は美しさを尽くしている。(さらに、)自分の住まいは簡素にして、灌(かん)漑(がい)(田間の水道などの工事)には全力を尽くした。禹は、まったく非の打ちどころがない」。〕とあるように。君子として最高の人徳を具えている人物である。これに優る人物はいない。
 九五は禹王に匹敵する最高の人徳を具えている王さまだから、素晴らしい善政を行って吉運を招き寄せることは確実である。それゆえ「孚(まこと)有りて惠(けい)心(しん)あり。問う勿(な)くして元吉」と言う。
 大学に「譬(たと)えば赤(せき)子(し)を保(やす)んずるが如く、心(こころ)誠(まこと)に之を求めば中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず。」とあるが、これは「若い夫婦が赤ちゃんを育てることは、誰に教わるわけではないが、心配することはない。なぜなら、夫婦が赤ちゃんのことを目に入れても痛くないほど可愛がれば、ピタリと正しい育児方法ではなくても、人の道に外れるようなことはない。きちんと赤ちゃんを育てることができる。」という意味である。
 何かを為し遂げようとした時、質問できる人が誰もいなくても、真心を抱いて本気でそれに取り組めば何とかなる。王さまの人徳というのはそのようなものである。
 王さまが真心を抱いて本気で民衆を愛して恩恵を施そうとすれば、王さまの臣下も下々の民衆も、誰もが王さまを仰ぎ見て、心から王さまを尊崇する。恩恵を賜ること間違いないのである。
 以上のように、天下国家が治まるのは、王さまが指導者に相応しい人徳(君徳)を具えているからである。下々の民衆には、恩恵が与えられる。それゆえ「孚有り我が德を惠とす」と言う。九五の王さまの君徳によって国が治まるのである。
 易経で「孚有り」という言葉を用いて、孚が有ることによって確実に事が成るという意味で用いられている例を調べると、雷天大壮の初九、地天泰の六四、火水未済の上九がある。
 象伝に「大いに志を得る也」とあるのは、君子が天下国家のことを心配し、全ての人々が幸福だと感じるような国造りを目指してきた結果、その恩恵は天下国家至る所に及び、君子の志は実現したと云うことである。

上九。莫益之。或撃之。立心勿恆。凶。
象曰、莫益之、偏辭也。或撃之、自外來也。
○上九。之を益(ふや)す莫(な)し。或(あるい)は之を撃つ。心を立つること恆(つね)勿(な)し。凶。
○象に曰く、之を益(ふや)す莫(な)しとは、偏(へん)辭(じ)也。或(あるい)は之を撃つとは、外より來たる也。
 上九は陽剛の性質を具えて益の卦極に位置している。益は上が損して下を益する時だから、上卦の極点に居る上九は自分を存して下々を益するべき存在である。
 しかし上九は時に適切に対処することができずにやり過ぎる。柔順であるべきなのに剛健に過ぎる。それゆえ下々を益することができない。自分の利益ばかりを貪(むさぼ)り続けている。
 下々を益する時に中って、上九は自分ばかりが利益を貪って、下々を思いやることを全くしない。下々の心は上六から離れていき、遂には上六を憎むようになる。挙げ句の果てには親にも見捨てられる。やがては、国中(社会中、組織中)の人々から憎まれるようになって、最後は討伐される。それゆえ「之を益す莫し。或は之を撃つ」と言うのである。
 以上の言葉は、上九の存在を否定するものであり、益の時が終焉することを表している。あるいは天下国家を治める人(組織の指導者)が不在の状態である。
 本来上九は、九五の王さまの相談役として下々に恩恵を与える役割を全うすべきである。しかし、上九は自分の利益を貪ることしか考えないので、上九を憎んで討伐しようと考える人々が組織の中に多数存在する。人間、利益を貪ることばかり考えるようになると、やることなすこと全て損得勘定でやるようになる。
 自分の利益にならないことは一切しないようになる。人を思いやることを忘れた自分を恥ずかしいとも思わなくなり、自分の利益になることであれば、何でもやるようになる。
 以上のようであるから、上九に志などあるはずもなく、心の中はいつも不安定である。以上のような人物を「平常心を失った人」と言う。平常心を失った人は凶運を招き寄せる。それゆえ「心を立つること恆(つね)勿(な)し。凶」と言うのである。
 平常心を失った人は進退が定まらないので、情緒不安定である。これは上卦巽の性質の一つでもある。象伝に「之を益(ふや)す莫(な)しとは、偏(へん)辭(じ)也」とあるが、「偏」とは、本来とは反対のことを行うことであり、「偏(へん)辭(じ)」は、それを表す言葉である。
 上九は上が損して下を益するという時に反して自分の利益だけ貪(むさぼ)ろうとする。下々の民衆はそれに反発して上九を憎むようになり、遂には上九を討伐しようと考える。上九が自ら禍(わざわい)を招き寄せたのである。自業自得である。
 人間関係は持ちつ持たれつであるが、上九は自分の利益ばかりを考えて人の利益を考えない。心が偏っており、私利私欲ばかりで公を考えようとしない。「之を益(ふや)す莫(な)し」とは、己の利益だけを貪る上九を批判している言葉である。
 「或(あるい)は之を撃つ」とは、己の利益ばかり貪っていると、災難を招き寄せて困難に陥ることになるという意味である。いずれも、上九に当て嵌まる言葉である。
 財産を沢山持っている人は、私利私欲に囚われて、お金さえ蓄えておけば、何処に行こうが、何をしようが、自分の思い通りにならないことはなく、世の中は全てお金で解決すると思い込んでいる。社会における道徳の大切さや、国家の利益よりも、自分の利益を優先するようになる。天下国家の治乱興亡は、そのようなところから起こってくるのである。
 例えば、社会に影響力を及ぼす国民一人の感情に基づく行動が、多くの人々の心を動かすことがある。一人が二人、二人が三人と増えていき、やがては千人の人々に影響して、国論が大きく二つに分かれ、天下国家の治乱興亡に至ることもある。
 また、豪農や豪商と称される人々は、周りの人々から尊敬されており、社会に恩恵を施す紳士として振る舞うものである。
 しかし、よく観察すれば、豪農や豪商の慈悲や恩恵が周りの人々の怠け心を生じさせることになり、国民としての自立を阻害している面も否定できない。
 道路橋梁の敗(はい)頽(たい)(やぶれくづれ)を顧みず、一人者や孤独の飢え凍えを恤(めぐ)まず、道路や橋梁が痛んでいるのを直そうともせず、弱者が凍えて飢えているのを放置するなど、他人のことを考える余裕がなく、目先の利欲に振り回される人々は吉凶禍福の理(ことわり)を知らない人々である。他人から怨まれても気にせず、自分の利益だけを貪っている。
 裕福な人々は贅沢な家に暮らし、ファッションや美食を楽しんでいる。貧しい人々は定住する家もなく粗末な衣服を身にまとっている。裕福な人々も貧しい人々も同じ日本人、共に大家族の一員である。それぞれの事情があって、貧富や貴賎の差が開いてしまうのだが、裕福な人々が貧しい人々を思いやる慈悲心が何よりも大切である。
 現在の我が国の資産価値が仮に四十億円だと仮定すれば、一人あたり平均百円の資産を有することになる。国家全体のことを考えずに自分だけ利益を貪ろうとすれば、財産はお金持ちに偏ってしまい、多くの人々は貧しい生活を余儀なくされる。
 小人は行き詰まると乱れる。それが共産主義者を生みだし、社会を攪乱するようになるかもしれない。そのようなことになれば、お金持ちは保有している資産を全て失うことになる。そのようなことにならないように願うばかりである。

 

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