呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 308 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司 古事記、易経、論語、大學、中庸、その他日本で古来から學ばれている古典に関する情報及び時事的な情報(偏向マスメディアでは報道されないトピックスなど)を毎日発信しております。

易経・易占解説動画・毎日アップしてます

皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

36.地火明夷

□卦辞(彖辞)
明夷、利艱貞。
○明夷は、艱(かん)貞(てい)に利(よろ)し。
 明夷は下卦離と上卦坤から成る。坤は地、離は火。日が地下に入り夜(や)陰(いん)闇(あん)黒(こく)の象。離の明らかなものが坤の陰によって傷(やぶ)られ、賢者が暗君に夷(やぶ)られる象。明夷は光(こう)明(みよう)隠(いん)没(ぼつ)し、黒白が分からないように目を蔽い、我の明は彼の闇に蔽われる時。それゆえ明夷と名付ける。夷は傷(やぶる)。明らかなるものが傷つけられる時である。
 以上を、彖伝では「明、地中に入るは明夷」と表現している。晋は昼の卦、明夷は夜の卦である。離は目、坤は害である。目が害に遭うのも明夷の象である。「艱(かん)貞(てい)に利し」とは、異常事態と思えるほど暗い世の中だが、世に随い邪(じや)に傾かない。才能を露出し、己を揚げ、矯(きよう)激(げき)の行いを為さない。艱(かん)難(なん)の時であることを知り、貞正の徳を守るべきと云うことである。「艱(かん)貞(てい)」とは、困難に立ち向かって貞(ただしき)を行うことである。
 困難から回避するために貞(ただしき)を行うのではない。明夷の時は正しくないので、己を直くすれば禍(わざわい)を招く。君主の非道には従わず、君主の怒りに激せず、乱に処する道を得て、己の身を保つべきである。明夷の時は平常の時と異なり、彼は我を眩まそうとする。我は貞(ただしき)を固く守って明を眩まされてはならない。

□彖伝
彖曰、明入地中明夷。内文明而外柔順、以蒙大難。文王以之。利艱貞、晦其明也。内難而能正其志。箕子以之。
○彖に曰く、明、地中に入(い)るは明夷。内(うち)文明にして外(そと)柔順、以(もつ)て大(だい)難(なん)を蒙(こうむ)る。文(ぶん)王(おう)之を以(もち)う。艱(かん)貞(てい)に利(よろ)しとは、其の明を晦(くら)ます也(なり)。内(うち)難(なん)にして而(しか)も能(よ)く其の志を正しくす。箕(き)子(し)之を以(もち)う。
 智(ち)愚(ぐ)賢(けん)不(ふ)肖(しよう)善(ぜん)人(にん)不(ふ)善(ぜん)人(にん)相(あい)俟(ま)って社会を構成するのは古今の常態である。氣運に随って互いに消長するのである。明夷の氣運は、離の文明を以て坤の暗(あん)昧(まい)(くらき)に順う。陰が盛んで陽は微(び)(すくないの)である。
 火が高い処に在れば、光明は四方を照らす。光明を低い処に置くと、近くは照らすが遠くまでは及ばない。
 火は物を照らし物を熟するが、坤の土が物を蔽(おお)えばその効用もなくなってしまう。それゆえ明夷の時は自ら明徳を有しながら、物に蔽われ暫(しばら)くその明を失うという意味がある。
 人事に当て嵌(は)めれば、暗君が上に在り君子は認められない。正そうとしても正せない時である。理は非に陥り直は曲に屈するのである。仁者はその宝(思いやりの心)を懐にし、智者はその明智を隠して、禍を免れるべきである。智術を弄して世に用いられようと望んではならない。
 この卦は、殷(いん)と周の時代に類する。聖人がこの卦に関係する場合は、文(ぶん)王(おう)と箕(き)子(し)の事実を以てその意義を明らかにする。殷(いん)の末世において、紂(ちゆう)王(おう)は無道にして暴虐を恣(ほしいまま)にし、賢良を迫害した。この時に中り、文王は内に文明の徳を修めて、之を発露することなく、外には柔順の臣であることを尽くして、艱難に安んじて対処した。羑(ゆう)里(り)に囚われたけれども、徳を隠し明を包み終にその厄災を脱したのである。これを「内文明にして外柔順、以て大(だい)難(なん)を蒙(こうむ)る。文王之を以(もち)う。艱(かん)貞(てい)に利(よろ)しとは、其の明を晦(くら)ます也」と言うのである。
 内文明は、内卦離の象。外柔順は、外卦坤の象。大難とは、羑(ゆう)里(り)に囚われたことを云う。箕(き)子(し)は紂(ちゆう)王(おう)の庶(しよ)兄(けい)(腹違いの兄)だが、臣下として紂王に仕え、艱難がその身に迫るに中り、能(よ)く貞正を守って、身を囚われるという辱(はずかし)めに遇っても、諂(へつら)うことなく、その明智を眩(くら)まして、終に難を免れた。これを「内(うち)難(なん)にして而(しか)も能く其の志を正しくす。箕子之を以(もち)う」と言うのである。

□大象伝
象曰、明入地中明夷。君子以涖衆、用晦而明。
○象に曰く、明、地の中に入るは明夷なり。君子以て衆に涖(のぞ)むに、晦(くら)きを用いて明らかなり。
 この卦は離を明、坤を地とする。明の日が地の下に入り、光明没して見えなくなる象である。それゆえ明夷と名付ける。明が地中に入ったと雖(いえど)も、明がなくなったのではない。明は内に在るので輝かないだけである。
 君子が衆に臨むときは明らかでなくてはならないが、明らか過ぎてもいけない。明らかでなければ人は我を欺くけれども、明らか過ぎれば容れられないのである。それゆえ明智の徳を以て寛(ゆるやか)に接して、見れば微(び)(かすかなこと)を察するけれども、瑣(さ)末(まつ)な事を求めない。智慧が隠れ伏しているものを照らしても、智慧を用いることを忘れないのである。外面は暗い世の中だが、大衆を上手に使役する。内面に明智を保って社会を治める。優しく言い聞かせて大衆に親しむのである。
 聡明を運用して、智慧を顕(あきらか)にすれば、民衆は細かい網を逃れて偽りが益々生じ、民衆の心は離れて、人情が和することはない。孔子家(け)語(ご)に曰く、水(みず)至(し)清(せい)なれば則ち魚無し。人(ひと)太(だい)察すれば則ち徒は無しと。昔の聖人賢者が聡明を塞いで内外を蔽い、晦(くら)きを用いるのは、明を為す所以である。昏(こん)乱(らん)(くらくみだれた)の朝廷に処するには道を真っ直ぐ行けばよいというものではない。
 外には光を包み、明を晦(くら)まして、愚人を装う。内は明徳を昭らかにして、毎日徳を新たにする(磨き続ける)。以上が民衆に臨み、人を得るための善き道である。これを「君子以て衆に涖(のぞ)むに、晦(くら)きを用いて明らかなり」と言うのである。
 乾の健は剛にして首(かしら)がない。大壮の壮は易にして羊を失い。明夷の明は晦くして明を用いる。論語に曰く、「邦に道無ければ則ち愚。また曰く、其の愚は及ぶ可不(べからず)也」と。
 無道の時は、晦(くら)きを用いる。晦(くら)きを用いるとは、聡明を晦(くら)まして(とぼけて)世に処することである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。明夷。于飛垂其翼。君子于行、三日不食。有攸往。主人有言。
象曰、君子于行、義不食也。
○初九。明夷(やぶ)る。于(ゆ)き飛び、其の翼を垂(た)る。君子于(ゆ)き行きて三日食わず。往く攸(ところ)有り。主人言(げん)有り。
○象に曰く、君子于(ゆ)き行くとは、義、食わざる也。
 「于(ゆ)き飛び、其の翼を垂る」とは、飛ぶ鳥が翼を傷(そこなつ)て下に垂れることである。「君子于(ゆ)き行きて三日食わず」とは、にわかに決めて去ったから食べるものがないことである。
 「往く攸有り。主人言有り」とは、その迂(う)闊(かつ)を非難、或いはその偏固(かたくな)を諷(ふう)したのである。ここを去ることを行くと云い、あちらに適(ゆ)くことを往くと云うのである。
 この卦は離の明らかな者が坤の暗き者に傷(やぶ)れる。内卦の我は外卦の彼に傷れて、下の三爻は上の三爻に傷(やぶ)れる。破敗(やぶれ)の時だから卦中の六爻共に傷(やぶ)られるのである。爻の位で見れば、上六は明を夷(やぶ)る暗黒の主であり、下の五爻は皆上爻のために明を夷(やぶ)れる時である。内卦の三爻はその痛みが大きいので、文章のはじめに明夷の二字を掲げて、障害の甚だしきを示している。初九は六四の害応となり、六四のために傷れるのである。
 明夷の時は飛び去る性質があるので鳥に譬えたのである。初九においては、鳥が傷害に遭わないように飛び去って害を避けようとするが遠く去ることはできない。それゆえ「明夷(やぶ)る。于(ゆ)き飛び、其の翼を垂る」と言うのである。「翼を垂る」とは、すくむという意味である。但(ただ)し、明夷の初めに居て上(暗君)から遠く離れているので、傷を受ける可能性は低い。幾を見ることが早く、速やかに去ることが求められるのである。
 人事で見ると、君子が安居を得ず、傷害を避けようと欲して、禄位を去り退いて蔵(かく)れようとするが、困窮の極みに陥り、三日間食事を取れなくなる。故に「君子于(ゆ)き行きて三日食わず」と言うのである。三日とは日数が多いことを示している。初九の時は事を顕(あきら)かにできないので、このような傷害に対処するのはとても難しい。幾(予兆)を知ることができるのは君子だけであり、民衆はよく知らないので、初九が去れば世の人は初九を疑う。けれども、君子は世の人に怪しまれても去ることをやめない。それゆえ「往く攸(ところ)有り、主人言有り」と言うのである。
 この爻に当たる者は、智を包み、謀(はかりごと)を蔵(かく)し、慎んで貞正を守り、甘んじて難苦を受け、身を全うし、時を待つしかない。
 象伝に「義、食わざる也」とあるのは、君子は幾を見るのが明らかだから、明夷の時に遇えば、宜しく速やかに逃れ去り、義に叶わない禄は食べてはならないと云うことである。
 論語に「危(き)邦(ほう)には居(お)らず、乱(らん)邦(ぽう)には入(はい)らず」また「邦(くに)道(みち)無(な)き富(とみ)且(かつ)つ貴(たつと)きは恥(はじ)也(なり)」とある。味わうべき言葉である。

六二。明夷。夷于左股。用拯馬壮、吉。
象曰、六二之吉、順以則也。
○六二。明夷(やぶ)る。左(さ)股(こ)をる。用って拯(すく)うに馬壮(さかん)なれば吉。
○象に曰く、六二の吉は、順にして以て則(のり)あれば也。
 六二は六五と上六に害応して、其の害を受ける。六五は君主、六二は家臣である。六二は内卦離(明)の主爻で柔順中正だが、六五は坤の暗君なのでこの賢臣を傷害しようとする。明夷の明夷たる所以である。
 「左(さ)股(こ)」とは、六二の中正は國家の股(こ)肱(こう)(手足となって働く)と呼ぶべき家臣のことを云う。左は右の陽強有用に対して陰弱臣位の象である。「明夷る。左(さ)股(こ)を夷(やぶ)る」とは、六二が受ける傷害はさほど切実なものではないと云うことである。その爵位を貶(おとし)められ、その権力を削がれても、災害は未だ身に及ばないから禍は軽いのである。
 六二の賢臣は非常の変に際して、坐してその禍(わざわい)を受けることを欲せず、その害が未だ身に及ばないうちに自らを救うため壮んな駿馬を用いて迅速に逃れ去る。禍を免れて吉である所以である。このことを「用って拯(すく)うに馬壮なれば吉」と言うのである。
 馬は疾走する畜(けもの)である。「馬壮(さかん)」とは迅速を貴び、遅(ち)緩(かん)を忌むという意味である。壮んな士(部下)が己を拯(すく)うことに例える。吉とは終に害を免れることを云うのである。
 象伝に「六二の吉は、順にして以て則(のり)あれば也」とある。賢者が乱世に処するに、禍に罹っても中正の徳があるので、和順で人に悖(もと)ることがなければ、誰かに拯(すく)われる。終に其の禍を脱することができるのは、六二が中順の徳を具えているからである。

九三。明夷。于南狩。得其大首。不可疾貞。
象曰、南狩之志、乃得大也。
○九三。明夷(やぶ)る。于(ゆ)きて南に狩(かり)す。其の大(たい)首(しゆ)を得(う)。疾(と)くす可(べ)からず。貞。
○象に曰く、南に狩(かり)すの志、乃ち大いに得る也。
 「南」は上六の象。「狩」とは上六を禽獣に例えており、大首とは上六の威猛強盛(猛(たけ)く強いこと)を云う。下卦の離(南)から上卦の坤(西南)に移行する時なので、南で狩する象がある。
 明夷は上卦の三陰が下卦を傷害する象であり、上六を昏暗の首領とする。九三は剛正にして離の至明の極みに居る。至暗の極みの上六と害応の位に在り才能と力量共に備わっている。天下のために上六を除き去る任務に中っているので周の武王に例えられる。
 天下の萬(あらゆる)悪(あく)の首(かしら)は、己の昏(こん)暗(あん)(真っ暗な心)を以て他の賢明な人々を傷(やぶ)る。賢明な人材を毀(こわ)し傷(やぶ)る者は人ではない。これを聖人は禽獣が実って取り入れた穀物を害することに例えている。
 民の患(うれい)の元凶は上六である。九三は明夷の時に中り、南方に於いて禽獣を狩りすれば、必ず上六の首を得て、大成功を奏する。上六の首を得れば上六に雷(らい)同(どう)随(ずい)順(じゆん)する者を征伐しなくても、自ずから順服する。既に民は悪に染まっているので、漸次に教化するべきである。速やかに教化しようとしてはならない。それゆえ「明夷(やぶ)る。于(ゆ)きて南に狩す。其の大(たい)首(しゆ)を得たり」と言うのである。「其の」とは害を為す者を指し、「大(たい)首(しゆ)」とは、社会が害悪を蒙(こうむ)る悪むべき者を云うのである。
 上六は卦極に在り、権威を振るい勢いを逞しくしている。上六には部下が多いので、これを放伐するには深く謀り遠く慮って、然る後に討つべきである。苟(いやしく)も軽率に事を挙げれば、反って大害を受ける。それゆえ戒めの言葉を加えて「疾(と)くす可からず。貞」と言うのである。放伐はやむを得ず行うことである。天命により人心を得てから行うべきで、急激に堅い貞しさを以て為すべきではない。
 象伝の「南に狩すの志、乃ち大いに得る也」とは、九三が明智(下卦離)を用いて上六の暗黒を開き、正義の鉄拳で上六の邪を除き去り、上六を征伐して討ち取るという志を遂げて、大きな勝利を得ることを云う。志には深い意味がある。湯(とう)王(おう)や武王は志があったから名君になったのである。湯(とう)王(おう)や武王と雖も、志がなければ、萬世に悪名を轟かす暗黒の大王となったかもしれない。

六四。入于左腹。獲明夷之心。于出門庭。
象曰、入于左腹、獲心意也。
○六四。左(さ)腹(ふく)に入る。明夷の心を獲たり。于(ゆ)きて門庭を出づ。
○象に曰く、左(さ)腹(ふく)に入るとは、心(しん)を獲る也。
 明夷は上卦の三陰が下卦の三爻を傷害する見立てになっている。各爻においては、六四と六五の二爻も又傷害を蒙る者と見立てる。それゆえ六爻の内、傷害を主(つかさど)る者は唯上六のみである。
 六四は柔正で上六の暗黒王と一つの卦体(上卦)を連ねている。宗族中で最も血縁が濃い者であり常に上六に親密に接して明夷の腹中に在るように、上六の心中を知る。それゆえ「左腹に入る。明夷の心を獲たり」と言い、象伝に「左腹に入るとは、心意を獲る也」と言うのである。
 六四は初九と正応の関係にある。初九が幾を見ることを感じとって、自分には上六を輔(たす)けることはできないことを覚る。六四は上六の心を詳しく知っているので、ためらうことなく速やかに門庭を出て去り、その害を避ける。これを「于(ゆ)きて門庭を出づ」と言う。「門庭を出づ」とは、身を脱して憂(ゆう)患(かん)傷(しよう)害(がい)(憂(うれ)いと傷(やぶ)れ)の外に超然とすると云う意味である。紂(ちゆう)王(おう)の暗黒時代に中り微(び)子(し)(紂王の腹違いの兄)が去ったのはこの爻の話と同じである。

六五。箕子之明夷。利貞。
象曰、箕子之貞、明不可息也。
○六五。箕(き)子(し)の明夷なり。貞に利し。
○象に曰く、箕(き)子(し)の貞は、明、息(やす)む可からざる也。
 「箕(き)子(し)」は殷(いん)の紂(ちゆう)王(おう)の叔父で周の武王に洪(こう)範(はん)(模範となる大法)を授けた者。殷に三仁ありと云われた一人である。
 上六は坤暗の卦極に居り、毎(つね)に賢明を毀(こわ)し傷(そこな)う殷の紂王の如き者である。六五は柔順で中を得ているが、上六と同封の中(上卦)に在り、明を傷(そこな)う主に接近して、暗黒の真っ直中に居る。今は事業を為すべき時ではない。明智を顕(あら)わせば、傷害せられること間違いない。だからといって去るべきではない。その徳を誨(くら)まし、その志を正しくし、世人には自分を大(たい)愚(ぐ)と思わせておいて密かに明智を保つ。則ち親戚同族の箕(き)子(し)の如き者である。それゆえ「箕(き)子(し)の明夷(やぶ)る」と言うのである。
 六五がこの時を正そうとすれば、勢いある上六を敵にはできない。世人を救おうとすれば力が及ばない。自分が逃れ去れば義理を欠く。最も対処が難しい者である。以上のことから、外見からは明智を包み隠し、狂人を装って愚人になり、内面にその徳を修めて大きな困難を避ける。これを「貞しきに利ろし」と言う。
 彖伝に「内(うち)難(なん)にして能く其の志を正しくす」と言うのは六五のことである。また卦辞(彖辞)に「艱(くる)しみて貞なるに利ろし」とあるのに、唯「貞に利し」と艱(かん)の字を省くのは、箕(き)子(し)と言えば艱(かん)であることが知られているからである。
 象伝に「明、息(やす)む可からざる也」とあるのは、箕(き)子(し)は明智を誨(くら)まし蔵(かく)して其の固く貞しいことを失わず、艱難に遭うと雖も、明智は滅びないことを云う。古人は晦(くら)きを用いて明智を包み隠した。外面の賢明は暫(しばら)く晦(くらま)しても、内面の明徳は少しも休息しない。
 明夷の時は五爻は君主の位ではない。坤と同じく六五は尊位だが、家臣と取る。坤は臣下の象である。治まり平かな時に、君主から俸禄を受け、妻子を養育して、十分楽しんだ。それなのに、危ない乱の時に、君主からの恩義を忘却し、君主が討伐されることを事前に知っていながら、苦しみを共にしないで、君主を棄てて去るのは、人の道に反するのである。
上六。不明晦。初登之天、後入于地。
象曰、初登于天、照四國也。後入于地、失則也。
○上六。明かならずして晦(くら)し。初めには天に登り、後には地に入る。
○象に曰く、初めには天に登るとは、四國を照らす也。後には地に入るとは、則(のり)を失う也。
 上六は坤陰の卦極に居り、日が地に没する象である。人に当て嵌(は)めれば昏(こん)暗(あん)不明な者。不明な人は必ず暗(あん)昧(まい)佞(ねい)人(じん)を喜び、正明の賢者を嫉(ねた)む。恰(あたか)も眼を疾(や)む者が暗室を愛し、日の輝きや火の光を畏れるようなものである。それゆえ「明らかならずして晦(くら)し」と言うのである。
 初めは勢いや位に驕(おご)り、暴威を振るって、氣(き)焔(えん)赫(かく)々(かく)として旭(あさ)日(ひ)が天に升るようだが、賢明を傷害(そこな)い、天下を毒する積もる悪事は、天人に許されないことである。それゆえ、終に身を亡ぼし、国を失い、富貴栄華も跡なきに至る。恰(あたか)も夕日が地に入り四方が昏黒(くらく)なるようなものである。それゆえ「初めは天に登り、後には地に入る」と言うのである。
 象伝に「四國を照らす也」とあるのは、至尊の位に居て四方を照らし臨むこと。四國とは四方の國、天下のことである。また「則(のり)を失う也」とは、人君としての規則を失うことである。上六は始めは高位に居て、以て人の明智・明徳を傷(やぶ)り、終わりには自らを傷(やぶ)るのである。

 

https://store.shopping.yahoo.co.jp/keiei/20191001.html

↑ヤフーショッピングに出店しました↑

心の経営 易経・易占DVD講座 古事記

日本一分かり易い易経講座→ネットショップへ

語呂合わせで学ぶ易占・易経入門

カードで学ぶ 易占入門講座

「高島易断入門講座 易聖高島嘉右衛門の易占と占例 上巻」

「高島易斷入門講座  易聖高島嘉右衛門の易占と占例 下巻」

「冬至占(易占)入門DVD講座」(フルセット)

「冬至占(易占)入門DVD講座」(DVD16枚組)

好評発売中→ネットショップへ

日本の心を取り戻す! わたしの天命です。