呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 307 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

35.火地晋

□卦辞(彖辞)
晉、康侯用錫馬藩庶。晝日三接。
○晉(しん)は、康(こう)侯(こう)用(も)って馬を錫(たてまつ)ること藩(はん)庶(しよ)なり。晝(ちゆう)日(じつ)に三たび接す。
 晋は坤が下、離が上。離は日、坤は地。日が地上に出づる象。日が地上に出でて昇り進み、光明も進み長ずる時。離は明であり麗である。坤は順。自分が明るい者に麗いて順う象である。
 大凡(おおよそ)の事は、明るい者に麗き順えば必ず進むので晋(しん)(すすむ)と名付ける。晋は上が明らかで下が順う。君主が明らかで臣下が順うのである。日が地上に在って萬(よろず)の国を照らす。柔中の明主が、天下に君臨するのである。文明の徳で四海を統御し、明良相遇って文化が進む時である。
 君主は明らかで盛んに進み、臣下は高く顕(あきら)かに升(のぼ)り、その寵(ちよう)栄(えい)(君主の恩寵を受けて栄える)を受ける。君主は徳に進んで已まない。臣下は順調に進んで已まない。徳に進むのは日が地上に升るように、益々升って益々明らかである。順調に進むのは、地が日を承けるように、益々下って益々高いのである。火天大有は日(火)が天上に在るから君主の道。火地晋は日(明智・明徳)が地上に在るから臣下の道である。
 晋の時は国家に功労があり、臣が節度を保つ。諸侯に天子から大いなる錫(たま)ものがあり、一日中、何回も応接され親しく礼を受ける。これを「晉は、康(こう)侯(こう)用(も)って馬を錫(たてまつ)ること藩(はん)庶(しよ)なり。晝(ちゆう)日(じつ)に三たび接す」と言うのである。康(こう)侯(こう)は民衆を安んずる諸侯である。馬は柔順に人を載せ遠くまで運ぶ徳がある。馬を錫わるのは、康(こう)侯(こう)が天子の命を奉じて遠くまで往き事を治めるためである。藩(はん)庶(しよ)とは恩(おん)賜(し)が盛んで多いことを云う。

□彖伝
彖曰、晉、進也。明出地上、順而麗乎大明、柔進而上行。是以康侯錫馬藩庶、晝日三接也。
○彖に曰く、晉は進む也。明地の上に出で、順にして大(たい)明(めい)に麗(つ)き、柔進みて上り行く。是を以て康(こう)侯(こう)用(も)って馬を錫(たてまつ)ること藩(はん)庶(しよ)にして、晝(ちゆう)日(じつ)に三たび接する也。
 人事に当て嵌めると、衆人が日の明を見て事に進み、明に順う時である。明智・明徳の人に順い己の知識を進め、威権ある人に順い志を遂げる時である。臣下に功があり、君主に報いる象である。君子が天子の位に即いて臣下が功をたてる。このような時は少なく、このような君主も少ない。
 今、明(明智・明徳)が地上に出て世の中は隆盛となり、治め導くこと明らかである。賞罰に私心なく功を建て寵愛を得る。順の卦徳で大明に麗くのである。臣下が道を履んで君主に事(つか)えて忠実である。臣下が君主に寵愛を承ければ、徳を磨いて上に進もうとする。謙虚に謙る君主は崇高な地位を得る。君主が寵愛を施し、臣下は忠順の徳を得るのである。
 この卦は明夷と倒(さか)置(しま)(逆さまに置かれている)である。明夷は日が入る時。晋は日が出る時である。明夷は暗い君主が上に在り、艱難辛苦に耐えて貞を保つ。晋は明らかな君主が上に在り、臣下は君主に柔順に麗く。順は臣民の徳。臣民が力を尽くして節度を保ち、君主はその身を忘れ、臣下はその家を忘れる。君主が己を恭しくして賢者に下り、昼間、諸侯に三回謁見する。これを「康侯用って馬を錫ること藩庶なり。晝日に三たび接す」と言う。
 人間社会に当て嵌めると、坤の老母と離の中女が心を協(あわ)せて、家事を進める象。国家に当て嵌めると、上卦の政府は火の性質を有し、国家を文明に進め、下卦の人民は地の性質を有し、政府に順う象である。太陽が地上に出て、普く萬邦を照らす。文明の政府が四海を統御する。六五の君が柔中の徳を得て離明の主となり、九四の大臣と上九の顧問は共に陽剛の賢者として六五の君を輔ける。君主の仁徳が四海に溢れて文明の徳化が萬邦を照らす。
 民衆は君主の徳に順う。闇(くら)い所に居る衆民が明るい所に居る君主の所に向かうのである。天下の事業は駸(しん)々(しん)乎(こ)(馬が速く走るように)として文明に進み、上下共にこれを悦ぶ。その勢いは旭(あさ)日(ひ)が升るようである。これを「晉は進む也。明地の上に出で、順にして大明に麗き、柔進みて上り行く」と言うのである。
 大明は上卦離の六五である。明君が上に在る。昼間の大明である。順は坤の三陰。群臣が下に在り、柔順に大明の君に麗く。天子は国を治める。諸侯は王室に藩(はん)屏(ぺい)(帝室を守護する)たる者を優待して、民を安んずるので、車馬の恩(おん)賜(し)がある。功ある者は報いが厚く、業ある者は寵愛される。政治や人的交流が頻繁な時は朝夕に諸侯を召して親密に交わる。これを「康(こう)侯(こう)用(も)って馬を錫(たてまつ)ること藩(はん)庶(しよ)なり。晝(ちゆう)日(じつ)に三たび接す」と言うのである。

□大象伝
象曰、明出地上晉。君子以自昭明徳。
○象に曰く、明、地の上に出づるは晉なり。君子以て自ら明徳を昭(あきら)かにす。
 太陽が西に傾き地に入れば夕べ。東から出れば旦(あした、あさ)となる。地を出て中天に升れば、光は遍く大地を照らす。
 君子はこの象を見て、人が具える固有の徳を明らかにする。その徳は日の明るさと異ならない。明らかでないのは人欲が蔽(おお)っているからである。その本(ほん)然(ぜん)として明らかな徳は一時も息(やす)まない。その明徳を明らかにして、人欲が蔽うようであってはならない。明徳は天から授かったものである。時には人欲に蔽(おお)われ、明るさを眩(くら)ますこともあるが、常に省察して、明徳を明らかにすべく努力するのである。
 徳は鏡のようなもの。磨くことを怠れば塵(ちり)や垢(あか)が生ずる。塵や垢は情欲から発する。刀剣も錆を生ずるが、磨き研げば光明を自ずから生じるようになる。錆も光も己から生ずるのである。徳を磨くのは、学問や修行による。格物致知(感謝と学び)を以て自らを明らかにして、誠意(志を抱き)正心(心を正して)修身(身を修める)によって自らを明らかにする。これを「君子以て自ら明徳を昭かにす」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。晉如摧如。貞吉。罔孚。裕无咎。
象曰、晉如摧如、獨行正也。裕无咎、未受命也。
○初六。晉(しん)如(じよ)たり摧(さい)如(じよ)たり。貞にして吉。孚(まこと)とする罔(な)し。裕(ゆたか)なれば咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、晉(しん)如(じよ)たり摧(さい)如(じよ)たりとは、獨(ひと)り正(せい)を行えば也(なり)。裕(ゆたか)なれば咎(とが)无(な)しとは、未だ命を受けざれば也(なり)。
 「晋(しん)如(じよ)」は進むこと。「摧(さい)如(じよ)」は抑圧阻隔(抑え阻み隔つ)すること。この卦は諸爻が皆、臣下が君主に事えるという象を以て辞(ことば)を立てている。初六は晋の初めに居て、進んで六五の君に仕えようとする。だが最下に在るので、未だ君と交わることができない。未だ禄位もない。未だ上(君)からの命令もない。
 応爻九四の大臣と下卦の柔順な家臣(六三・六四)が六五の君と初六の中間に在って、初六が六五の君のところに進むことを抑制するので、君と通じることができない。だから「晉(しん)如(じよ)たり摧(さい)如(じよ)たり」と言うのである。初六は上卦の九四と応じているが、九四は不中正なので、初六を引っ張って進ませる器ではない。進み升ることを欲しても、毎(つね)に摧(さい)抑(よく)(くだきおさえ)させられる。だが、初六は九四に阿(あ)諛(ゆ)(おもねり)屈服しないで、自分が貞正であることを守るので「貞にして吉」と言うのである。
 初六は交際が広くない。自分を信じてくれる友も、自分を知ってくれる人も少ない。将来の望みはあるが時が到来していないので、六五の信用を得ることができない。しかし、臣下の道を枉(ま)げないで、心を寛(ゆたか)にして時が至るのを待っている。
 普通の人(常人)は孚の心が通じなければ、急いで進み為し遂げることを求める。或いは急に退いて上の人が自分のことを知ってくれないことを怨む。初六はそうではない。人が自分のことを知ってくれなくても、自分は自分の徳を修めて俟(ま)つだけである。だから「孚(まこと)とする罔(な)し。裕(ゆたか)なれば咎无し」と言うのである。
 やがては初六の孚の心が六五の君に通じる。君子は出処進退を慎むのである。時が至れば進み、至らなければ止まる。どうして小人に邪魔され自分の志を喪(うしな)うことがあろうか。
 象伝に「獨(ひと)り正を行えば也」とあるのは、九四は初六に応じていて、九四は権力と勢力があるが、賢を避けて正を嫌う人(善からぬ上司)である。だから、初六を戒めて、権力を畏(おそ)れず独り自ら正を行って道を枉(ま)げることがなければ吉であることを云う。
 「未だ命を受けざれば也」とあるのは、初六と六五とは応じる位になくて、陰爻同士なので、与(くみ)することが難しい。初六の志は六五には通じないので天命には至らない。だから静かに時が至るのを待つべきだと云うことである。

六二。晉如愁如。貞吉。受玆介福于其王母。
象曰、受玆介福、以中正也。
○六二。晉如たり愁(しゆう)如(じよ)たり。貞にして吉。玆(こ)の介(かい)福(ふく)を其の王(おう)母(ぼ)に受く。
○象に曰く、玆(こ)の介(かい)福(ふく)を受くとは、中正なるを以て也。
 「愁(しゆう)如(じよ)」は悦ばないことである。「摧(さい)如(じよ)(抑え阻み隔つ)」と同じではない。愁は愁いが我より生ずるが、摧は人から阻(へだ)てられるのである。「介(かい)福(ふく)」とは大いなる福(さいわい)のことである。
 六五は王位にあるが陰柔の爻なので直ちに王とは言わずに「王(おう)母(ぼ)」と言うのである。且つ正当な朝(ちよう)覲(きん)(諸侯が参内して皇帝に拝謁すること)ではないことを示している。
 六二は臣下の位に在って六五の君に見(まみ)えようと欲して進む者である。だが、初六と同じように九四によって抑え隔てられて進むことができない。前に坎険(三四五)があり、艮の山(二三四)に隔てられている。故に「晉如たり愁如たり」と言うのである。
 六二が変ずれば下卦は坎になる。坎には坎険という意味があるから憂えることになる。王事を任されても君と応じていないので、事業を為し遂げられない。憂え懼れないでいられようか。愁如の象である。陰柔の六五が君位に在るのは、君主が幼いので太(たい)后(こう)が朝廷に立っているようなものである。この時に中り、六二は固く貞正を守らなければならない。故に「貞にして吉」と言う。
 六二は中正ゆえ、道を枉げて権力に阿(あ)諛(ゆ)する(諂(へつら)う)者ではない。一旦は、九四に阻まれるが忠誠の志を貫いて、時機が至れば誠の心が六五の君に感通する。賤しき者が聡明な心を蔽って賢人に進むことを阻(へだ)て、志士が國を憂えなければ、正を守ることはできないのである。抑(そもそ)も六二と六五とは柔中で、同じ徳が相応ずるが故に、終に六二は六五の礼の待遇を受け、応じていなくても、福(さいわい)がやって来る。これを「玆(こ)の介(かい)福(ふく)を其の王(おう)母(ぼ)に受く」と言う。良い臣下が明らかなる主(あるじ)から福(さいわい)を受ける。孝行の孫が福(さいわい)を王母から受けるのである。
 象伝に「中正なるを以て也」とある。六二は一旦志を得ても、運命は如何ともできないことを知り、一心に忠順の志を尽くすので、終に進むことができて、素志(素(もと)の志)を遂げられることを云うのである。中庸に「君子易(やす)きに居て、以て命を俟(ま)つ」とあるのは、このことである。六二と六五は共に陰ゆえ応じないが、日は地上に昇り、萬物は明に進む象がある。同徳もって相応ずる。「乾為天」の九二と九五、「風沢中孚」の九二と九五が、共に剛中を以て同徳相応ずるのと同じである。

六三。衆允。悔亡。
象曰、衆允之。志上行也。
○六三。衆允(まこと)とす。悔亡ぶ。
○象に曰く、衆、之を允(まこと)とす。志上り行く也。
 六三もまた進んで六五の君主に見えようと欲して、九四に阻まれる。だが、六三は下卦の上に在り下の二陰と志を合わせて心を同じくする。大衆は、六三の忠誠を信じている。
 大衆の望みは六三が大衆に先立って進むことである。故に「衆充(まこと)とす。悔(くい)亡ぶ」と言う。「悔(くい)」とは、九四に密かに親しむ者として、大衆に疑われることである。
 六三に少しでも九四に阿(あ)諛(ゆ)する情があれば、朋友の疑いを解くことはできない。永く不義の汚名を受けて大いに後悔する。
 しかし、六三は朋と接して大衆の上に居り、下を率いて上に付く象がある。上の明主(六五)に従うのは、太衆(坤)の願いと同じである。
 六三は柔順を極め、志は充(まこと)であるから大衆から信用される。六五の君主には離の卦徳がある。文明は大衆を引き付けて、明智は大衆を知る。だから鼠(そ)窃(せつ)(こそどろ)の奸を燭(て)らし、康(こう)侯(こう)の衆を集めて、賊臣を討つのである。六三は諸侯を率いて六五の君主に仕え、衆陰(下卦坤)は六五の君命を受けて上九と共に九四を討伐し九四は罪に伏するのである。
 晋の時は大いに光り藩(はん)庶(しよ)の錫(たまもの)により勤王の功を上げる。昔から、太衆の心を捉えなければ、何かを為し遂げることはできない。大衆の心が順わなければ、正しくても成功しないのである。孟子の「助け多い之に至り、天下之に順う」とは大衆が允(まこと)を信用すると云うことである。
 六三は九四の権威が強く、進路を妨げることを知っている。だから朋友(六二・初六)に信用されなければ、六五に認められないことを悟る。六三は九四にも信頼され、無道を行わずに時に対処する。富貴功名を志す者は大衆に信用されない。
 六三の志は国を安定させることにある。意氣と和らぐ心があるから太衆に信用されるのである。六五も六三を信用する。九四から嫉妬されるが中傷されることはないので、悔いが亡ぶ。六三が心を磨けば、朋友から信用され、君主にも認められる。騒ぎ進むことは君の意に合わないのである。
 象伝の「志上り行く也」とは、朋友(六二・初六)の疑いを解いて信用されるのは、志が堅く、誠心を君に尽くすことを云う。

九四。晉如鼫鼠。貞厲。
象曰、鼫鼠貞厲、位不當也。
○九四。晉如たり、鼫(せき)鼠(そ)なり。貞なれども厲(あやう)し。
○象に曰く、鼫(せき)鼠(そ)、貞なれども厲しとは、位當らざれば也。
 鼫(せき)鼠(そ)は大きな鼠で貪る者でもある。晋の時は衆爻各々進んで六五の君主に謁見しようとするが皆陰弱である。九四は陽爻陰位で不中正。上下四陰の中に在り、互体坎(三四五)と艮(二三四)の主爻である。坎は隠(いん)伏(ふく)、艮は鼠。坎は隠にして明を傷(やぶ)り、艮は止にして順を傷(やぶ)る。
 火地晋の互卦は水(すい)山(ざん)蹇(けん)で、行き悩むという意味だから、晋の卦が進むことを阻害するのである。九四は徳がないのに大臣の位に居り、上に居る陰柔の主(六五の君主)の位を狙って、その位を犯し凌ぐために権力を弄し、威力を発揮しようとする。
 下に居る衆陰の諸臣が上に進んで六五の君主を補佐しようとするのを阻み、上下の間を隔絶する。則ち位を盗み禄を盗み、国家を蝕む賊臣であり、文明・明智の時を害する鼫(せき)鼠(そ)である。だから「晉(しん)如(じよ)たり、鼫(せき)鼠(そ)なり」と言うのである。
 下卦坤は土、互体(三四五)坎は穴。坤は田んぼ、穀物、坎は飲食、隠伏ゆえ、鼫(せき)鼠(そ)が大穴に出入りして穀物を穴の中から引き出して食べる象である。昔から大臣に功労があって高位に居て、功を恃んで才能を誇ると、国家は自分が居なければ立たないと思い上がるようになる。そして、予算を濫用し政権を利用して利益を独占し私欲を満たすようになる。
 君子は位を得れば人の道を全うしようと欲するが、小人は位を得れば欲を満たそうとする。人情は人の功を嫉み、過ちを攻撃するものである。大いに善いことが行われてもこれを評価せず、小さな悪が行われると非難の声が溢れる。
 功あるゆえに晩節を汚して身を滅ぼして家を喪う者がある。だから「貞なれども厲し」と言って、そのようになる前に、速やかに志や行いを改めるように戒めているのである。
 大臣が以上のようならば下の者はこれを真似て、貪り取る風土が益々甚だしくなり、清廉の風土は日に日に滅んでいく。大臣の家計が質素ならば政治は隆盛になる。
 人は富貴を求めるものである。朝廷が臣下に充分な俸禄を出し、待遇を与えれば、臣下が鼫(せき)鼠(そ)の貪りを真似することはない。欲を満たそうとする人は商売に従事してお金を増やせばよい。九四は大臣としての自覚が足りないのである。
 象伝の「位當らざれば也」とは、小人が高位に居て剛強を恃み、上を欺き下を凌ぎ、権力を弄して法を蔑(ないがし)ろにすれば、鼫(せき)鼠(そ)と同じく位に在るべき人物ではないと九四を戒めているのである。
六五。悔亡。失得勿恤。往吉无不利。
象曰、失得勿恤、往有慶也。
○六五。悔亡ぶ。失(しつ)得(とく)恤(うれ)ふる勿(なか)れ。往けば吉、利しからざる无(な)し。
○象に曰く、失(しつ)得(とく)恤(うれ)ふる勿(なか)れとは、往きて慶(よろこ)び有る也。
 今、萬物が明らかに進む時である。六五は離の卦の主爻で、大いに明らかなる徳を以て尊位に在り、柔中を得ている。ただ柔なるがゆえに権威は薄く、下卦もまた陰弱にして補佐に任ずる者がない。以上のことから九四の大臣が強剛で暴(あらい)ことを以て上下の情を隔絶して相通ずることを阻むのである。
 これは常に悔いある所以だが、六五は柔中の明徳があるから智を以て人を選び、孚を以て人を化す。能く時勢を察して機会を待ち、終には悔いは消滅する。それゆえ「悔亡ぶ」と言う。
 これまでは九四が上下を隔絶して君徳の明が下に達しなかったが、今や已(すで)に通じて、六二の臣下に遇うことができ、共に計る。それゆえ明らかに罪を伐つときは、鼫(せき)鼠(そ)は罪に伏して、康(こう)侯(こう)が寵愛を承ける。以上のようであるから、得失は一時のみで、憂えることがなくなる。それゆえ「失得恤うる勿れ」と言うのである。「往けば吉」の「往く」とは礼と徳が盛んになることを期待して上九に委任することを云うのである。
 象伝の「往きて慶び有る也」とは、上九の賢者に委任すれば慶(さい)福(わい)があると云うことである。九四の「晋如たり、鼫(せき)鼠(そ)なり」とは、得ることを心配し、失うことを心配する卑しき人である。「失(しつ)得(とく)恤(うれ)うる勿(なか)れ」とは、誠を尽くし忠を尽くす君子の行いである。
 晋の時は、人情に溺れやすく、功利を計る私心がないわけではない。六五は明智を恃(たの)んで、上から意見を差し挟み、功利を得ようとして、失得を恐れている。これを戒めて「失(しつ)得(とく)恤(うれ)うる勿(なか)れ」と言うのである。
 天下の大事は利害に惑い易い。利害を計らず是非を計れば、明らかな智慧で対処することができる。君主が固(まこと)に為すべきことを為して、功利を計る心がなく、吾が徳を修めれば、盛徳教化が自ずから行われ、人心が治まる。君道を得て、道は治まる。
 これが「往けば吉、利しからざる无し」である。人君の憂いは人を得られないことに在る。事の失(しつ)得(とく)を恤(うれ)える必要はない。このことを「失(しつ)得(とく)恤(うれ)うる勿(なか)れとは、往きて慶び有る也」と言う。

上九。晉其角。維用伐邑。厲吉无咎。貞吝。
象曰、維用伐邑、道未光也。
○上九。其の角(つの)に晉(すす)む。維(こ)れ用(も)って邑(ゆう)を伐(う)つ。厲(あやう)けれども吉にして咎(とが)无(な)し。貞なれども吝(りん)。
○象に曰く、維(こ)れ用(も)って邑(ゆう)を伐(う)つとは、道未(いま)だ光(おおい)ならざる也。
 「其の角(つの)」の「角(つの)」とは陽で上に在る者である。威力が猛々しいのである。上九は陽剛にして晋の卦の極点に在り、過剛にして中を失っている。故に「其の角(つの)に晉(すす)む」と言うのである。進むを知りて退くを知らない者である。
 六五と上九とは陰陽比して輔(たす)ける関係である。六五は上九に命じて九四の権臣を征伐しようとする。これを「維(こ)れ用(も)って邑(ゆう)を伐(う)つ」と言うのである。
 兵力を用いればリスクが伴う。威力猛々しい権臣を伐つのはリスクが高いが、君命を奉じて賊臣を誅(ちゆう)するのは、明を輔け暗を伐ち、正を助け邪を祓(はら)う正義があるので吉にして咎がない。それゆえ「厲(あやう)けれども吉にして咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「厲」とは殺傷の禍(わざわい)があることである。「吉」とは戦いに勝つこと。また、得ることである。「咎(とが)无(な)し」とは負けることはないこと。また、道に違わないことである。
 権威や権力が盛大で跋扈する強い家臣を除こうとして、臨機に対処できずに、常套のやり方に拘(こだわ)って、終に国家の大事を誤る者は少なくない。晋の時は柔を貴んで剛を貴ばない。
 邑(村・地域)を伐つことは正義があるとはいえ、理想的な社会の在り方とは云えない。それゆえ聖人は戒めて「貞なれども吝(りん)」と言うのである。邑を伐つことの大義を一個人に見ると、内は私を治めて、過ちなく、家に居れば子弟を戒め、童僕(男の子供のしもべ)を治め、職場に居れば、私の交わりを塞ぎ、仮託(他の者にかこつけること)を厳格にするのである。
 象伝の「道未(いま)だ光(おおい)ならざる也」とは、所謂「訴え無から使めん乎(や)(論語・顔淵第十二・十三章)/孔子は争い事のない社会を実現しようとしたが、道半ばで終わった」という意味である。
 六五の君が上九に命じて九四の強暴を討伐することは当然なので固(もと)より成功する。しかし、礼や徳を欠いた状態で戦を用いれば、祭祀を絶えさせるに至る。鼠が昼間出てきて、干(かん)戈(か)(武器)を封(ほう)内(だい)(国

 

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