呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 304 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

32.雷風恒

□卦辞(彖辞)
恆、亨。无咎。利貞。利有攸往。
○恆(こう)は亨る。咎无し。貞しきに利し。往く攸(ところ)有るに利し。
 恒は震が上、巽が下。巽は風、震は雷。雷風は共に天地の生氣である。上下に通徹し普く萬物を化育して息(や)まない。萬物の変化には常がある。
 恒の卦徳は古今に亘(わた)って易わらない。天地は恒久なのでこの卦を恒と名付けた。恒は常、久しき。恒の道は善。君子は恒の道を得ているから常に善である。小人は恒の道を失っているから常に悪である。恒は貞正だから亨る。それゆえ「貞しきに利ろし」と言うのである。
 恒に二義がある。不易の恒と已まざるの恒である。「貞しきに利ろし」は不易の恒である。「往くところあるに利ろし」は已まざるの恒である。これを合わせて常道と言う。
 常であっても貞でなければ、恒とは言えない。卦象の雷風は、速く、烈しく、雷風の氣が相俟って久しい。卦徳の巽順は、久しく巽順である。六爻皆応ずるので、疑わしくない交わりが久しく続く。皆恒の卦の意義である。

□彖伝
彖曰、恆久也。剛上而柔下。雷風相與、巽而動、剛柔皆應恆。恆亨、无咎、利貞、久於其道也。天地之道、恆久而不已也。利有攸往、終則有始也。日月得天而能久照、四時變化而能久成、聖人久於其道而天下化成。觀其所恆而天地萬物之情可見矣。
○彖に曰く、恆は久しき也。剛上りて柔下り雷風相(あい)與(おこ)し巽にして動き、剛柔皆應ずるは恆なり。恆は亨る、咎无し、貞しきに利しとは、其の道に久しければ也。天地の道は恆久にして已まざる也。往く攸有るに利しとは、終れば則ち始まる有る也。日月は天を得て久しく照らし四時は變化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下化成す。其の恆(つね)にする所を觀て、天地萬物の情見る可し。
 人事で観ると、震の長男が巽の長女と能く家を保つ象である。長男の夫は陽剛を以て上に位し、外に在って事を行い、長女の婦人は陰柔を以て下に位し、内に処(お)りて事に従う。夫は心を安んじて外に務め、婦人は夫に順って貞節を尽くして、家道長久の道を得ている。男女が世に処する恒の道である。かつ男女夫婦は人倫の始めである。夫婦があってこそ後に子孫綿々として絶えないのである。この卦を恒と名付ける所以である。
 以上のことを「恆は久しき也。剛上りて柔下り雷風相與(おこ)し巽にして動き、剛柔皆應ずるは恆なり」と言うのである。「剛柔相與し」とは、六爻が皆相応じていることである。「剛上りて柔下り」は分の常。「雷風相與し」は氣の常。「巽にして動き」は事の常。「剛柔皆應ずる」は情の常である。
 雷風が萬古に亘って久しく恒を保っているように、長男長女が恒久にして家政を斉(ととの)えている。天下百般の事業を執り行うに中り、初めに志した方針を更(あらた)めない。久しきの間において、しばしば浮(ふ)沈(ちん)盛(せい)衰(すい)に遇い、艱難辛苦することがあっても、驚き慌てることなく、倦み怠ることもない。能く忍耐して恒を守るので、その志を達して亨通しないことはない。
 中庸に「人一(ひと)たびしてこれを能くすれば、己れはこれを百たびす。人十(と)たびしてこれを能くすれば、己れはこれを千たびす。果たして此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん」とある。これも恒の意味である。それゆえ「恆は亨る、咎无し、貞しきに利しとは、其の道に久しければ也」と言うのである。
 「咎无し、貞しきに利し」とは、その道に久しくして、後に亨ると云うことである。事を行うに中り、躁(そう)急(きゆう)の念を起こしてはいけない。事に倦み、途中で迷いが生じれば、徳を一定に保つことができない。その道に久しい者ではないからである。このような者は、咎があって亨らない。恒久より勝る天地の道はない。萬物が並び育ち、相害することはない。道が並び行われ、相悖(もと)ることがない。天地は恒久ゆえ常なのである。
 聖人は恒久を貴ぶ。純一にして已まず、止まるべきところに止まる。君と為りては仁に止まり、臣と為りては敬に止まり、子と為りては孝に止まり、父と為りては慈に止まり、止まらざる所がない。千変窮まらないところに聖人の恒を見るのである。呼吸は互いに換(かわ)る。息が恒である。寒暑が互いに換(かわ)る。歳が恒である。それぞれに恒性(久しく恒を保つ性質)がある。
 生理が人に在るのは、息(やす)まないからである。人が生まれるのは天地と体を同じくし、人が死ぬのは天地と虚を同じくするからである。天地の心は無我である。人の心には我がある。
 天地の道は常である。人の道は常ではない。人の道の弊害は我によって起こる。沢山通じて感応は変化し、雷風迫って常は度を失うのである。感応する我の心は速やかである。常がないことを常とすれば、その常は久しい。雷風の変化には我の心がないことを理解すれば、天地に順応することができる。沢山咸の感と雷風恒の恒は反復するのである。その道は同じである。
 天下の理は、毎(つね)に伏(ふく)入(にゆう)固(こ)閉(へい)の下に生じ、或いは流行して氣機と為り、合わせ聚(あつ)まりはみ出し継いで発散する。静かであれば外に動き、夜に宴(えん)息(そく)すれば昼は動く。造化の理である。未だ終わって始まらないことはない。終われば必ず始まることを知れば、往く攸(ところ)があるから利ろしいことが分かる。日月は萬(ばん)古(こ)に亘(わた)り窮しない。天に麗(つ)いて循環を息(と)めず、四時の変化は一定の期(き)や節(ふし)があって歳(とし)を成す。それゆえ日月は恒久である。
 聖人は天道が恒久であることに則り萬民を教化し、恒久にして治め化する功を成す。恒は一日ではできない。久しくして速成を求めない者が恒久の道を得るのである。これを「天地の道は恆久にして已まざる也。往く攸有るに利しとは、終れば則ち始まる有る也。日月は天を得て久しく照らし四時は變化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下化成す。其の恆(つね)にする所を觀て天地萬物の情見る可し」と言うのである。天地萬物の情は、変化して息まないのである。

□大象伝
象曰、雷風恆。君子以立不易方。
○象に曰く、雷風は恆なり。君子以て立ちて方を易えず。
 震雷動きて上に在り、巽風入りて下に在る。雷風は動いて変化して常がない。大きく観れば、雷の収発は年々その時を違えることなく、風の寒温は歳々八節を違えることない。まっすぐ(方)で長久である。君子はこの象に倣って萬変に応対し、妙用窮まりなく常を失わない。これを「立ちて方を易えず」と言うのである。「立つ」は、一人地上に止まり遷(うつ)らず易(かわ)らずという意味。「方」は、其の志が向かう方面である。
 君子が世に処するときは、時・処・位の宜しきに適い、機に臨み、変に応じて時中の道を行う。その本を凛乎として動かしてはならず、確乎として抜いてはならない。堅い操があるから、卓然と自立して方向が定まる。妄りに動かないことを貴ぶ。このような道を久しく信じて、怠って廃せず、物を以て遷(うつ)らず、邪説に惑わされず、晩節を改めない。これが君子の恒であり、金(きん)玉(ぎよく)が百戦錬磨しても、剛健の性を喪わない。これが恒の大義である。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。浚恆。貞凶。无攸利。
象曰、恆浚之凶、始求深也。
○初六。恆(つね)を浚(ふか)くす。貞しけれども凶。利しき攸(ところ)无(な)し。
○象に曰く、恆(つね)を浚(ふか)くするの凶は、始めに求むること深ければ也。
 「浚」は深いという意味である。初六は陰爻陽位で才能不足だが志は強い。恒の始めに中り長久の道と永遠の効果を急いで求める。九四の剛と応じているが、九四は上卦震(動く)の主、上(六五)に行こうと欲して初六に応じない。初六は下卦巽(入る)の主。下に入ろうと欲して、互いに助け合うことはない。且つ九二(初六と比する)と六五(九四と比する)が初六と九四を隔てている。初六は九四と陰陽応じているので、望み(志)を実現させるべく九四に属することを深く求める。最下位に居て、成果を上げようとするのである。
 天下の事業は漸次に恒久の道に至って成功する。昼夜の交代や季節の移り変わりを見れば、その理を知ることができる。初六は恒の時に居て、初の位に在り、分は遠く、情は疎い。深く求めてはならない。漸次の修行をしないで、いっぺんに深い情を人に求めるのは、益がないだけでなく怨みを招く。所謂(いわゆる)卵を見て(鶏の声が)時を告げるのを望み、鹿を追って山を見ない者である。
 分限を踰(こ)えて性急に深遠の上達を求める者は、貞正であっても敗北しないものは希(まれ)である。それでも固執して性急に履行しようとすれば、結果が凶であることは必然である。だから「恆(つね)を浚(ふか)くす。貞しけれども凶。利しき攸(ところ)无し」と言う。
 交際するに中っては、好悪の情や意趣が異なるので、初めから相合する者はいない。日を積み、年を重ね、久しくして互いに誠を感じるようになって、交わる道に至るのである。
 交わりが未だ熟せず、情が審(つまび)らかにならない段階で性急に求めれば斥(しりぞ)けられる。信用されていないのに上を諫める者は、上の者を誹(そし)ったと批判されるのである。交わりが浅いのに相手の深いところを突く言葉を用いれば、相手に怨まれ嫌悪される。位が卑しいのにお高い言葉を使えば、分不相応な栄誉を求めていると思われ辱められる。何れの場合も、利ろしきところはない。
 象伝に「始めに求むること深ければ也」とあるのは、結果が凶となるのは、始めの段階で深く求めることは罪だという意味である。論語に「速やかならんと欲すれば、則ち達せず」とあり、孟子に「其の進むときの者は其の退くに速やかである」とある。
 学を成すこと久しくして道業が成り聖賢に到る。治を為すこと久しくして教化が行われる。堯舜が聖君に至ったのは、日を積み歳を重ねたからである。俄に及ぶことではない。
 事の初めに中り永遠の効果を求めるのは、学問の初めの段階で周公や孔子に至ろうと欲すること。統治の初めの段階で堯舜を目指そうと欲することである。凶にして利ろしきところがないのは知れたことである。また、智を穿(せ)鑿(んさく)することに用いたり、道を隠れることに用いたりすることも、「恆(つね)を浚(ふか)くす」の意味である。

九二。悔亡。
象曰、九二悔亡、能久中也。
○九二。悔亡ぶ。
○象に曰く、九二の悔い亡ぶるは、能く中に久しければ也。
 九二は陽爻陰位。才能はあるが志が弱いので悔いあるべき者。下卦巽の卦意に「進退果たさず」とある。果敢ではない象ゆえ才能があっても逡巡して決定することができない。不正だから恒の徳を継げない恐れがある。それゆえ「悔」という言葉を用いる。
 下卦の中に居て六五の君と陰陽相応じ、剛中の徳で柔中の君を補佐する。五を夫の位、二を妻の位とすれば剛は婦人の徳ではないが、二の妻が五の夫の及ばないところを助ける。恒常の道であり吉の所以となるから「悔亡ぶ」と言うのである。
 象伝の「能く中に久しければ也」とは、不正であるから小徳が出入りして悔いあるべしといえども、剛中の才徳で久しく中の道を守って終始変わらないときは、悔いはなくなることを云う。人は善に居ても久しくなければ、功を得ることができないのである。

九三。不恆其徳。或承之羞。貞吝。
象曰、不恆其徳、无所容也。
○九三。其の徳を恆(つね)にせず。或いは之に羞(はじ)を承(すす)む。貞しけれども吝。
○象に曰く、其の徳を恆にせず、容るる所无き也。
 「羞(はじ)」は恥、卑しみ悪む心。「徳」は得、中庸にして霊の輝き顕(あきら)かな者である。「恆(つね)にせず」とは、具えている徳が間断があって常がないこと。恒の徳に間断ある人は、何処に行っても何を為しても吝(りん)嗇(しよく)を被むるのである。
 九三は過剛不中で上六に応ずるが上六は正位の君ではない。孔子の弟子・冉有と季路が魯国の大夫の季氏に仕えるようなもの。節を曲げて守ることを失い、汚名を後世に伝えることになる。
 九三が上六に従うのは涵(かん)養(よう)が足りないからである。富(ふう)貴(き)利(り)達(たつ)の人を見ると心を動かされて、志を守り身を修めることができないのである。身を立てることが出来ず、大きな節を失って天地の間に逃れる所もなくなる。進んでは九四に阻止され、退いては九二に阻止されるのである。
 才能と志は強いが、外卦震(雷)と内卦巽(風)が接して交わる九三と上六は振るい動く(震)男と多欲(巽)な女が遇うように、心が乱れて、騒いで進み退き、定まる所がない。愛し撫(ぶ)育(いく)したかと思えば、悪んで殴打するなど、喜怒哀楽が常ではない。
 だから高位(上六)に上って辱(はずかし)めに遇うことを警戒しなければならない。それを怠り恒の徳を守れなければ凶や吝を受ける。だから「其の徳を恆(つね)にせず。或(ある)いは之(これ)に羞(はじ)を承(すす)む。貞しけれども吝」と言うのである。
 人は誰もが立身出世を望むが、自分の器量を顧みて騒いで進むことを戒めなければならない。農業には恒産が、商工業には恒業がある。その恒を守らなければ取る所がなく辱めを受ける。
 象伝に「容るる所无(な)き也」とは、人は常があるから共に行動できる。常のない人や節操のない人は、羞を受けるしかないと云うことである。父が子に安んずることができない。士が朋に誠心で接することができない、子であれば不孝、臣であれば不忠、婦人であれば不貞、兄弟であれば不慈・不敬である。
 どうして天地の間に容れられることがあろうか。これは重く責めて、深く咎めた言葉である。論語の「人にして恒無くんば、以て巫(ふ)醫(い)を作(な)すべからず」とは、このことを云ったのである。

九四。田无禽。
象曰、久非其位、安得禽也。
○九四。田(でん)に禽(えもの)无(な)し。
○象に曰く、其の位に非(あら)ざるに久しくす、安(いずく)んぞ禽(えもの)を得ん也。
 禽(えもの)は鳥獣。九四は陽爻陰位。才強いが志は弱い。初六と陰陽応ずるが、動(震)の主ゆえ恒久を失っている。震を狩人、巽を禽に喩えれば、狩人は前に進み、禽は後に退く。九四は高く上に動き、初六は深く下に入る。震には進む性質、巽には隠れて見えない性質がある。狩りして獲物がないから「田に禽无し」と民心を失うことに譬えたのである。
 恒の道が貴ぶのは、徳がその位に適い、才がその任に堪え、上に仕えて建設的で明らかな所にあり、下を治めて安んずるところにある。年を経て久しければ、益するところが多い。徒に久しくしても何の益もない。今、九四は不中不正で大臣の位にあるが、上に仕えて建設的なところはなく、下を治めて安んずるところがない。徳が位に適っておらず、才はその任に堪えず、国を治めても教化することができない。民を治めても恩恵を与えることができない。徒(いたずら)に曠(こう)官(かん)(官吏の身でありながら、その職務の責任をつくさない)の誹(そし)りを招くだけである。これが「田に禽无し」の意味である。
 初六は陰柔の小人ゆえ九四に応じても全く益がなく、鳥獣のいない土地で狩りするようなものである。九四は小人が阿(あ)諛(ゆ)追(つい)従(しよう)することを悦ぶ。恒の徳を発揮できない。以上のことから、象伝に「其の位に非ざるに久しくす、安んぞ禽を得ん也」と言う。
 九四は居るべき所に居らず、乗るべき時に乗っていない。為すべき方向を誤って、交わる人を間違えているのである。長く腰を据えても功はない。「田に禽无し」の時は、失うことが著しく人から見ればすぐにわかる。有用の心を無用の地に用いることを惜しむべきことを示したのである。
 孟子が言う「人鶏犬有れば、則ち之を求めることを知る。放心有りて求めることを知らず。/人は自分が飼っている鶏や犬がどこかへ行ってしまうと、すぐにそれを追いかけることを知っているのに、自分の本心がどこかへ放失さっれてしまっていても、それを探し求めて再び自分に取り戻すことを知らない。(明治書院・新釈漢文大系『孟子』・内野熊一郎)」とはこの事である。
 易の例として、初九の陽剛が六四の陰柔に応ずる場合は吉とする。下に在る賢者が六四の宰相を補益するという意味である。初六の陰柔が九四の陽剛に応ずる場合は凶とする。初六が卑賤の小人にして宰相の権門を出入りするからである。

六五。恆其徳貞。婦人吉、夫子凶。
象曰、婦人貞吉、從一而終也。夫子制義、從婦凶也。
○六五。其の徳を恆(つね)にす。貞。婦人は吉。夫子は凶。
○象に曰く、婦人は貞にして吉とは、一に從って終れば也。夫子は義を制す。婦(ふ)に從うは凶なる也。
 六五は柔中の仁徳があって九二剛中の大臣と陰陽正しく応じ、九四剛明の大臣と陰陽正しく比している。能くその徳を恒(つね)にする君主ゆえ「其の徳を恆(つね)にす」と言う。だが順貞を執って其の徳とするのは婦女の道。寛大な仁で威厳を以て徳とする君主に在っては、宜しくない。因って下に深重の微義を諭(さと)し戒め「婦人は吉。夫子は凶」と言う。中を得ているが、不正だからである。
 「貞」とは貞常・貞固の意味である。恒を恒として事変に通ぜず、固執して移らないことを貞固と云う。婦人が節操貞固なのは吉である。丈夫の道は変に応じ義を制し幾を見て時宜に適応することを貴ぶ。これを貞常と云う。常を常とするに止まり、事変に適応できなければ凶である。六五は卦主として風雷の権力を操り盛徳大業を為す者ゆえ常に処すれば経に貴び、変に処すれば権を貴ぶ。婦人の貞に倣うべきではない。
 象伝に「一に從って終れば也」とある。婦道は一夫に従ってその身を終わる者ゆえ貞を以て吉とすると云うことである。
 「夫子は義を制す。婦に從えば凶なる也」とある。丈夫の道は事変に応じ、宜しきを裁き制することを徳業とする。婦女子のように人の政(まつりごと)に従うのは狭隘の至りゆえ凶とすると云うことである。優柔不断の君を戒めて順徳を守るのは、婦人の場合は宜しいが、丈夫には宜しくないのである。
 五爻は君位で夫の位。君主が柔弱で下に居る九二に従い牝(めす)の鶏(にわとり)が晨(あした)を司る(女性がいばって政治を乱すたとえ・書経)のは宜しくない。君主や夫は自立すべきである。事に臨んでは独断の才があってもよいが、婦人の順を以て正としてはならない。
 五爻変ずれば「澤(たく)風(ふう)大(たい)過(か)」となる。大過の九五に「枯(こ)楊(よう)華(はな)を生ず。老婦その士(し)夫(ふ)を得(う)。咎(とが)もなく誉(ほまれ)もなし」とある。参考にすべきである。

上六。振恆。凶。
象曰、振恆在上。大无功也。
○上六。恆(つね)を振(ふる)う。凶。
○象に曰く、恆(つね)を振(ふる)うて上に在り。大いに功无(な)き也。
 「振(ふる)う」は「奮(ふる)う」である。震の威を奮う。動揺急速または軽く進むという意味である。上六は陰が重なり(陰爻陰位)不才、不中、正位で恒の卦極に居る。物が極まると変ずる。恒が極まり終に動いて静かにしていられなくなる。
 定見、定守がなくなり、その位に安んずることができなくなった。紛(ふん)華(か)(飾られた華やかさ)を喜んで安静を悪み、革(あらた)めることを欲して常に従うことを厭(いと)う。恒の奮うの象である。
 震と巽は共に木である。上六は上卦震の極で樹木の末梢である。下卦巽(風)の極にある九三に応ずるので落葉の貌となり、妄動して恒を守ることができない。九三は「其の徳を恆にせず。或いは之に羞(はじ)を承(すす)む」者。淫(いん)悍(かん)(色好みが強い)無行の(行いが正しくない)妻である。
 上六は恒を奮って功なく狂躁反目の夫である。恒久の道は貞正と安静を久しく守り動かず変じない。日を積んで歳を重ね、然る後に得られるのが恒久の道である。一朝一夕に騒ぎ進み妄りに求めても得られない。だから「恆(つね)を振(ふる)う。凶」と言うのである。
 恒を奮うのは久しく守る道を変ずることである。凶は物欲が盛んで良心が悉(ことごと)く喪(うしな)われた結果である。
 象伝に「大いに功无(な)き也」とあるのは、功が絶えて無くなったと云うことである。上六は陰邪の資質で震動の極に居り、奮って揺さぶり動かそうとする。功を得ることを志しているが、恒を奮えば事を為せないだけでなく、事を害(そこな)い、終には身に禍をもたらす。上六は恒の法則を破って国家に災いを及ぼすので、「大いに功无(な)き也」と戒めているのである。

 

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