呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 303 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

31.沢山咸

□卦辞(彖辞)
咸、亨。利貞。取女吉。
○咸は亨る。貞しきに利し。女(じよ)を取(めと)れば吉。
 咸は艮が下、兌が上。兌は澤、艮は山。山の上に澤がある象である。山は地面が高くなった所。澤は水を受ける低い所。大きい澤は海である。山の上に海はないが、造化の作用と観れば、互体(三四五)に天(乾)があるので、「天にある太陽の火の熱が海面を照らして水氣が蒸発し雨と為り山を湿(うるお)す」と観ることができる。山上にある澤が天地の造化で氣を通ずる。山と澤の二氣が共(とも)に感じ合い、造化として現われる。
 卦徳の「止(とど)まって説(よろこ)ぶ」とは、上下相応じて人が己に感じることである。卦象の「少男(下卦艮)と少女(上卦兌)が相求める」とは、男女が感じて現れることである。それゆえこの卦を「咸」と名付ける。
 この卦は下経の首(はじめ)に在り、内卦は艮、外卦は兌。艮は坤の上爻が乾の上爻と交わって生じた少男である。兌は乾の上爻が坤の上爻と交わって生じた少女である。咸とは、物と物とが相対し、その念(おもい)が相動いて一つに合することである。天地間にある全ての存在は、皆感じ合っているのである。
 中でも人間男女の情慾の感じ合いは最も甚だしい。この卦は艮の少男が兌の少女に下るところから、夫婦の始めの象。婚姻の道である。これに次ぐ恒(こう)の卦は長男長女の交わりだから夫婦の終りの象である。恒は女が男に下ることから男尊女卑を大義とし、男女が室に居る場合の大義を示している。
 咸恒の卦は共に大きな坎の象。損益の卦(山沢損・風雷益)は共に大きな離の象。損の卦も少男少女の組み合わせだが、男が女に下らないので、咸や感という意味は僅かしかない。益の卦は長男長女の組み合わせだが、女が男の上にあり恒久の大義に反する。下経に損益の卦を首(はじめ)とせずに咸恒を首とする理由である。
 上経の首には乾坤二卦を置いて天地を表わし陰陽の分を厳密に示している。下経の首には咸恒二卦を置いて夫婦の大義を示している。陰陽の交わりを通じて夫婦は人倫の始め、天地は萬物の本である。また天地は大きな夫婦である。だから乾坤二卦はそれぞれ四徳(元亨利貞)を備え、夫婦は一つの小さな天地であるから咸恒二卦もそれぞれ四徳のうち三徳(亨利貞)を備えている。
 乾坤は陰陽交わらないが、咸恒は陰陽相交わる象である。天地は分れなければ陰陽の両儀を成さないが、男女は交わらなければ子孫の生育を為さないと云うことである。
 乾坤は天地の位を定める象。咸は山澤氣を通じて、恒は雷(らい)風(ふう)相共にして造化を行なう象である。咸は感通、感応、感動、感覚、感化、感触、感和、いずれも速やかに通ずる。心があって感ずることを感と言い、心を用いないで感ずることを咸と言う。
 咸は皆。六爻が皆感和して物も我も共に自然である。無心の感は太陽の熱が海水を蒸発させること、有心の感は男女相感ずることである。人には喜怒哀楽の情と聲(こえ)色(いろ)臭(におい)味(あじ)の慾がある。家庭には父子兄弟の親があり、天下萬物には事がある。一日と雖も感を離れることはできないのである。
 天地萬物は本が同じ一つの氣(元氣)だから、天地化生の氣によって氣が化して萬物となる。形ある物は一つとして通じていないものはない。感の道は必ず通ずる。父子兄弟夫婦相感じ合うときは家政が治まり、君臣相感じ合うときは国事が治まる。彼と我が相感じ合うときは庶事治まる。それゆえ「咸は亨る」と言う。
 正しく感ずれば善ならざるはなく、不正に感ずれば悪に陥らざるはない。夫婦が礼を以て合わずに淫を以て合し、君臣が義を以て合わずに媚(び)悦(えつ)を以て合し、朋友が道を以て合わずに狎れ合えば、終に背き離れて感によって身を失う。感ずることが正しくなかったのである。だから、之を戒めて「貞しきに利ろし」と言う。
 「女を取(めと)れば吉」とは、感じることが最も大切だと云うこと。兌は悦び、艮は止まる。その道を悦んで心が事に止まれば亨る。夫婦の道においては夫が首(はじめ)となって唱え、婦が随って之に和する。行ないの順序である。吉は事の終り。人情の相感ずることが正しく亨通すれば、終りを保つことができる。咸の大義である。

□彖伝
彖曰、咸感也。柔上而剛下、二氣感應以相與、止而説、男下女。是以亨、利貞、取女吉也。天地感而萬物化生、聖人感人心、而天下和平。觀其所感、而天地萬物之情可見矣。
○彖に曰く、咸は感ずる也。柔上りて剛下り、二氣感應して以て相與(くみ)し、止まりて説(よろこ)び、男(だん)、女(じよ)に下(くだ)る。是(ここ)を以て亨り、貞しきに利しく、女(じよ)を取(めと)れば吉なる也。天地感じて萬物化生し、聖人、人心を感じて、天下和平なり。其の感ずる所を觀て、天地萬物の情見る可し。
 この卦は主として「感応」を説いている。「感応」の道には、遠近幽(ゆう)深(しん)序(じよ)次(じ)階級がない。繋辞伝に「君子のまさに為すあらんとし、まさに行なうあらんとするや、焉(これ)に問いてもって言う。その命受くるや響きのごとく、遠近幽(ゆう)深(しん)あることなく、遂に来物を知る。/君子が何かを為そうとし、何かを行おうとする時は、易経に問いかけ、易経の教えに従って実行する。易経は問いかけに速やかに響くように応えてくれる。遠近や幽深の区別なく、未来を予測してくれる」とあり、「易は思うことなきなり。為すことなきなり。寂然として動かず、感じて遂に天下の故(こと)に通ず。/易占は思想でもなく実践でもない。ひっそりと静まって微動だにしない。人が心から易占に問いかければ、易占はそれに感応して、天地万物に関するあらゆる対応策を導き出してくれる」とある。感応は迅速であることを説いているのである。
 天下萬般の事は心が合一して相感じる段階に至れば、亨(とお)らないことはない。咸は亨(こう)通(つう)出入の門。それゆえ「咸は感なり」と言う。天地広大無辺の神徳陰陽二氣の交感でなければ、萬物を化成することはできない。二氣が正しく相感じるから造化の功を成すのである。天地君臣父子兄弟朋友萬物皆情をもって相感じるから通じるのである。
 天の氣が下降して地の氣が昇り、男が女に下り女は随う。これを「柔上りて剛下り、二気感応してもって相い與(くみ)するなり」と言うのである。兌は説ぶと云う意味が、艮は止まると云う意味がある。陽(艮)が動いて陰(兌)に遇えば止まり、陰(兌)が静かにして陽(艮)を得れば悦ぶ。止まるのは直き(素直な)象、悦ぶのは合わせ受ける象である。健なるがゆえに止まり、順なるがゆえに悦ぶ。(陰が)悦ぶのは陽を悦ぶのであり、(陽が)止まるのは陰が止まったのである。(陽が)止まれば(陰が)悦び、止まらなければ悦ばない。陰は陽が止まるから悦ぶ。止まらなければ悦ばないのである。陽が止まらなければ陰の悦びを感じることはできない。陽が自ら止まる所以である。
 神は止まることを悦ぶ。神は物の形に現れない。天地間に往来変通して測り知ることができない。活動は四時錯(たがい)に行われ、神の為さないことは何一つない。情を専らにして他に囚われない。説(よろこび)は情に従うのを楽しみにする。強いるものではない。止まるのは情が相接するからであり、説は情が相合わさったものである。
 人間に当て嵌めれば、その事、その物を説(よろこ)びて、止まる意味になる。夫婦の道も、止まりて説ばなければ離れ、説び止まらなければ乱れる。造化の作用も説び止まらなければ風雨寒暑の時を失い、災いが生ずる。女が悦んで感ずれば、男は止まって応じ、男が止まって感ずれば、女は悦んで応ずる。以上のようであるから、夫が唱えれば妻が随うのである。
 咸は内卦が止まって外卦が悦び感ずれば必ず応ずる。咸の道は通じないことを心配せず、正しくないことを心配するので「止まりて説び、男は女に下る。是を以て亨り、貞しきに利しく、女(じよ)を取(めと)れば吉なる也」と言う。「止まりて説び」は、人情を、「男(だん)、女(じよ)に下る」は、形を云う。卦は感ずることを義として、爻は静かであることを義とする。感は心の作用、静は心の法則である。
 世の人は動くことばかりを知って静かであることを知らない。だから物事が入り乱れて悪い情慾が起こり、その身を戦いの場に置いて帰る所を知らない。あるいは、静かであることしか知らず、動くことを知らずに、社会の秩序から離れ、世俗から隠れて虚しき清らかさを守り、その身を虚無に置こうと欲する者もある。
 これらは中道を失った者であり、咸の義を知らないのである。天地の氣が交わり相感じて応ずれば萬物が変化生育して、聖人の徳が誠に至る。天下億兆の心を感動させれば、それに応じて衆人の情は優しく柔かくなり、慾心がなくなり平かになる。衆人の上が天下の情と乖離せずに均しく平和になる。天地も聖人も皆感の道に由らないものはない。
 感は他でもない自分が純粋で一途に誠実を発して、他の一途な誠実と合わさる。これを「天地感じて万物化生し、聖人人心を感ぜしめて、天下和平なり」と言うのである。天地にあっては天地の感通があり、萬物にあっては萬物の感通がある。天下に唯一つとして感のない者はない。また感じて通じない者はない。感ずる道は情を知る道である。
 酒色を好む者もあれば歌舞伎を好む者もある。文学を好む者もあれば武芸を好む者もある。好む所は一つではないが、好む所を察すれば、情を知ることは肺(はい)肝(かん)を見るように明らかである。
 情の感ずる所を知って、政治を行なえば国を治めることは難しくはない。だから「その感ずるところを観て、天地万物の情見るべし」と言うのである。
 天地萬物は往来変化する。止まれば彼が説び、神が感じて順応する。これが自然の機(はたらき)であり、相生ずる本である。君臣父子夫婦兄弟の関係は、艮の卦の止まる所に止まる。互体(二三四)巽には巽順(謙り柔順)な性質がある。天下和平の象である。夫婦はすなわち天地であり、夫婦の交感はすなわち化育である。感通の理(ことわり)を観れば、(天地)人の道を知ることができる。

□大象伝
象曰、山上有澤咸。君子以虚受人。
○象に曰く、山上に澤有るは咸なり。君子以て虚にして人を受く。
 山の上に澤がある。至って静かで虚なるもので山に勝るものはない。山は虚だから澤の氣が通じるのである。人心も虚だから君主に受け容れられるのである。君子はこの象に倣って、中(うち)に何も挟(さしはさ)むことなく、人の善を受け容れるのである。
 富貴を中に挟み、権力を中に挟み、見聞を中に挟むと、善き事でも受け容れられない。君子の心は寂(じやく)然(ねん)不動で時に堪え、廓(かく)然(ぜん)(心が広くからりとしているさま)と天に誓い、虚心で人を受け容れるのである。
 能力があるのに能力がない者に質問し、多くを知っているのに知らない者に質問する。以上のように、舜は問うことを好み、善を為した。禹は昌(しよう)言(げん)(道理に適う善美な言葉)を慎んで拝した。孔子は学ぶに中り常の師がいなかった。全て己を虚しうして人を受け容れたのである。
 水や鏡には私心がなく美しい物も醜い物も同じく照らす。これを「虚」と云う。善は受け容れるが悪は受け容れないという念が心の中にあれば、その心はすでに虚ではない。どれが善でどれが悪というように分けることはできないのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。咸其拇。
象曰、咸其拇、志在外也。
○初六。其の拇(おやゆび)に咸ず。
○象に曰く、其の拇(おやゆび)に咸ずとは、志外に在る也。
 「拇(おやゆび)」は足の大指。艮を手や足の指と見る。初六は足の親指。よく動き柔を以て艮に属している。咸の道は自分以上に親しく近い者はいないので、六爻を人身に配している。
 初六は咸の始めだから人身に配すれば足である。初六は九四に応じている。すなわち九四に感じている者である。今、一念が始めて起り事を為そうとしている。しかし己は陰であり身は賤しく力不足である。だから九四の援助を乞うのである。
 人心は感ずる所があれば、身は忽(たちま)ち動いて、感ずる所に至ろうとする。身が動くときは必ず足から始まる。足が進むときは必ず親指からである。だから「其の拇(おやゆび)に咸ず」と言う。未だ物には感じないと雖(いえど)も志は外卦の九四に向かっているのである。
 象伝に「志外に在る也」とある。初六は孤独の士。疎遠の臣下である。陰柔で下の地位にあり、上に相親しむことも、相得ることもできない。だから独立して事を為すことはできない。才能や技術は少しあるが、心の学問を知らない。九四の陽剛に教えてもらうしかないのである。
 志は心の動きである。初六の志は外にある。初六自身は咸の卦の初に在り止まること(咸の卦徳)を知っている。
 外は九四を指している。吉凶と不正を言わないのは、吉凶は事物の善悪により異なり、正不正は善に感ずれば正であり不善に感ずれば不正だからである。

六二。咸其腓。凶。居吉。
象曰、雖凶居吉、順不害也。
○六二。其の腓(こむら)に咸ず。凶。居れば吉。
○象に曰く、凶なりと雖(いえど)も居れば吉とは、順なれば害あらざる也。
 「腓(こむら)」は脛(すね)の骨がない所である。九五の脊(せき)柱(ちゆう)の肉に応ずる。「腓(こむら)」は自分の力で往くことができない。脊(せき)柱(ちゆう)の肉は自分の力で来ることができないが、感ずれば通ずる。体は一つで志は同じ。相感ずる情があれば往来の乱れはない。
 六二は中正にして九五に応じている。九五は思慮深く六二に応じて、他に心を動かさない。しかし、咸の道は情慾より出る。六二は操が堅固ではない。事が未だ至らないのに心が先ず動いてしまう。未だ来ていないのに意を先に迎え、妄動して躁(さわ)いで進み、固く守ることができない。九五が遠いのを疎んじて近くにいる九三の剛に従おうとする。
 九五は善人だが、九三は不善人である。九三が動けば六二も共に動き、九三が止まれば六二も共に止まる。「腓(こむら)」が脛(すね)について動き止まるようである。九三は股で頼りにできないから「其の腓(こむら)に咸ず」と言うのである。
 陰柔の人は自立できないことに苦しみ躁(さわ)いで動かずにはいられない。自分で決定する志操がなく見識もない。他人に就いて動き止まる者は、六二のように、名を喪い、節を喪い、恥をかくのである。自ら乱れて凶を招き寄せるのである。六二が自制して見識を立て、志操を堅固にし、居る所に安んじて動かず、九五の求めを待つときは進退の道を得る。名も節も喪って恥をかく咎を免れるのである。これは吉の道である。だから「居れば吉」と言う。居るとは動かないという意味である。
 象伝に「順えば害あらざる也」とあるのは、六二が九三に馴れ比(したし)むという妄動を止めて、九五の応を待つべきことを言う。安居して妄動せず入ることを求めれば吉にして害はない。
 この爻変ずれば「沢風大過」になる。大過の九二に「枯(こ)楊(よう)稊(ひこばえ)を生じ、老夫その女(じよ)妻(さい)を得(う)。利ろしからざるなし」という文章がある。この爻に当て嵌めれば、六二の処女(むすめ)は九五と良縁があるのだが九三に妨げられるという象となる。併せ観るべきである。

九三。咸其股。執其隨。往吝。
象曰、咸其股、亦不處也。志在隨人、所執下也。
○九三。其の股(もも)に咸ず。其の隨うを執(と)る。往けば吝(りん)。
○象に曰く、其の股(もも)に咸ずとは、亦處(お)らざる也。志人に隨うに在り、執(と)る所下なる也。
 九三は下体(下卦)の上に居て上体(上卦)の下に附く。股(もも)の象である。股(もも)は上下に随って動き、執る所堅固ではない。他に随うことばかりで自ら主体的に動かない。九三は陽爻が陽位に居り才も志も強いけれども、少男の体を以て少女の後に随う。その志は人に随うことに在る。上六の陰爻と応じているので、上六に感ずることが正しい。
 それなのに遠くを疎(うと)んじて近きを親しむ。上六を捨てて六二に比し、共に動いて止まる。内に自らを守る堅く確かな貞操はなく、外に執著(とりつい)て見聞の情慾を以て随う。上位(下卦の上)に在りながら下位(二と初)に従い、己に如かざる者に服する。それは陰柔とずるずるつながることになるから正しい「感」ではない。卑しく恥ずるべきことである。自分では止まろうとするが、六二に惹かれ、本当は信じていないのに信じるふりをする。往きて事に応ずれば、天下に悪影響を及ぼす。だから「其の股に咸ず。其の隨うを執る。往けば吝」と言うのである。
 象伝に「其の股(もも)に咸ずとは、亦(また)處(お)らざる也。志人に隨うに在り、執(と)る所下(しも)なる也。」とあるのは、六二が妄動して凶を招いたように、九三は己の陽剛の徳を棚に上げ、陰柔の六二に感動して下に居る六二の進退動止に随うと云う見識の卑しさを批判しているのである。「亦(また)處(お)らざる也」とは、其の位に安んずることができないことを惜しんでいるのである。
 君子たる者、人の上に立って卓然と自立すべきである。守る所が正しくなく、感ずる所が道から外れたまま、臣下に従うことは、私情に執着して随うことだから、恥ずべきことである。
 この爻変ずれば「澤地萃」となる。萃の六三に「萃(すい)如(じよ)たり、嗟(さ)如(じよ)たり。利(よろ)しき攸(ところ)なし。往けば咎(とが)なし。小(すこ)しく吝(りん)(集まって来ては、ためいきばかり。何事もうまくゆかない。積極的に求めて行けば、友を得て、咎めはない。やや吝)」とある。参考にすべきである。

九四。貞吉悔亡。憧憧往来、朋從爾思。
象曰、貞吉悔亡、未感害也。憧憧往来、未光大也。
○九四。貞しければ吉にして悔(くい)亡(ほろ)ぶ。憧(しよう)憧(しよう)として往来すれば、朋(とも)爾(なんじ)の思いに從う。
○象に曰く、貞しければ吉にして悔亡ぶとは、未だ感の害あらざる也。憧憧として往来するは、未だ光大ならざる也。
 九四は卦の中央に在り、変ずれば(上卦は)「離」となる。「離」は中が虚(むな)しく神の居る所である。中庸の「上天の載(こと)は聲(こえ)も无(な)く臭(におい)も无(な)し。四(しい)時(じ)行われ百物生ずる」ものである。
 聖人の心を感じれば天下が和平する。聖人は何を思い、何を慮(おもんぱか)るであろうか。君子が天下において、聲(こえ)に応じて氣を求めれば、人々が相感ずるだけでなく、匪(ひ)類(るい)異(い)物(ぶつ)でも、皆慕い尊び親しむようになる。万物を慮(おもんぱか)れば、天下は和平する。
 九四を人体に敷(ふ)衍(えん)すれば、胸の位置。胸は心臓の在る所。心の体である。寂(じやく)然(ねん)として動かず、その作用は感である。胸に在る心臓は脳と感通することが尤(もつと)も近く、耳目が快・不快を聴いたり視たりして、喜怒哀楽するのは、先ず脳が悩み、同時に心臓が感じて氣を発するのである。脳は上に在って寂(じやく)然(ねん)として動かない。男が端(たん)然(ぜん)として高(こう)堂(どう)に坐するが如くである。心臓は女が騒然として台所に居るが如くである。
 思いは心が発動(氣を発)するもの。発動することを感と云う。このようであるから、心は明らかで不善ではない。萬(ばん)殊(しゆ)(各(おの)々(おの)異なる)にして是非邪正明暗浄(じよう)穢(かい)混淆として一呼吸の間に千転萬化して起(き)滅(めつ)の跡なく、思い測り数えることはできない。貞正であり、静定であるから、意志や情念は自然・誠実である。心が正しく、意志が誠であれば、思いの感ずる所も自ずから正中の道理に合する。だから「貞しければ吉にして悔亡ぶ」と言う。
 咸の時は、初六も九四も不正にして相応ずる。悔いがあるべき者である。初六が陽爻に、九四が陰爻になれば(往来して入れ替われば)水火既済となり、皆正位を得るから吉となって悔いが亡びるのである。
 だから初爻が九四を求めると、九四は心に感じて志を共有し、時に往来して初爻を慰める。これを「憧(しよう)憧(しよう)として往来すれば、朋(とも)爾(なんじ)の思いに從う」と言うのである。憧憧とは思慮が多くて意が定まらないこと。下って往来するという貌(かたち)である。私心で相感じて定まらないのである。
 また国家に敷(ふ)衍(えん)すれば、四爻は宰相の位であるから、天下全体に心を配り平等に相感ずるべきである。それなのに、私心で初爻に感ずるのは、心を用いることが偏狭なのである。
 象伝に「未だ感の害あらざる也」とは、純念の一意に止まれば感通の正義を害さないと云うことである。「未だ光(こう)大(だい)ならざるなり」とは、九四は妄想が多く意思が定まらないので感応する所が狭小で光大ではないと云うことである。
 咸は人心の霊が天地神明と合一して相感ずる道。天性や自然を尚ぶのである。天下に億兆の事物がある。感ずる所以は本心の明鏡に由る。心は水の如く、咸は影の如し。心が清く静かで澄み徹して、安んじて動かなければ、照らし映さない形や影はなく、感通しない事物はない。思うことなく、為すことなく、寂(じやく)然(ねん)として動かない本体が水の如き心である。然るに妄りに思慮工夫を馳(はしら)せ、分(ふん)別(べつ)憶測すれば、心の水は忽(たちま)ち動いて汚(お)濁(だく)する。形や影を照らし映すことも感通することもできないのである。

九五。咸其脢。无悔。
象曰、咸其脢、志末也。
○九五。其の脢(せじし)に咸ず。悔(くい)无(な)し。
○象に曰く、其の脢(せじし)に咸ずとは、志末(すえ)なる也。
 「脢(せじし)」は喉の骨である口の下、心臓(心)の上に在り、感ずる所の邪正は心の住する所、言う所の是非は口の掌(つかさど)る所。共に九五に関係する所ではない。「脢(せじし)」は不感不言の位に在る。
 九五が陽剛中正の才徳を以て君の位に居る象。下の六二に応ずるが、六二は腓(こむら)(脛(すね))ゆえ自ら動けず感応しない。九五の「脢(せじし)」も応じない。「其の脢(せじし)に咸ず。悔无し」とは、脢(せじし)には心がないので、悔いもないと云うことである。邪正は九四(心)に係わり、是非は上六(口)に係わる。
 心に志は在るが未だ発せられないのは、老荘や仏教の徒が以心伝心で心を空にするようなものである。けれども、君主の位は九五が司るべき所、友は九五が交わるべき所、民は九五が治めるべき所である。
 宇宙の事は全て九五の分内にある。全てを一つに視て仁を同じくすれば、萬物を得ることができ、大きな志を得る。人を絶って世を逃れようと欲すれば、志は狭小になる。
 象伝に「志末(すえ)なる也」とあるのは、君位に在って独り自ら安んずることを考え、億兆の民を撫で恵むという志が乏しいと云うことであり、君徳が薄く少ないという意味である。九五は中正の徳があり私心に惑(わく)溺(でき)しないので、悔いなきことを得る。

上六。咸其輔頬舌。
象曰、咸其輔頬舌、滕口説也。
○上六。其の輔(ほ)頬(きよう)舌(ぜつ)に咸ず。
○象に曰く、其の輔(ほ)頬(きよう)舌(ぜつ)に咸ずとは、口(こう)説(ぜつ)を滕(あ)ぐる也。
 「輔(ほ)」は上(うわ)顎(あご)。「輔(ほ)頬(きよう)舌(ぜつ)」の三字が合して口の義となる。輔(ほ)は頬(ほお)の裏、頬(ほお)は表、舌が動けば輔(ほ)が応じて頬(ほお)はこれに従う。総ては言語を以て人を感ずると云う象である。
 上六は陰柔不中で卦極に居る。兌(悦ぶ)の口は、誠を以て人に服さず、佞(ねい)弁(べん)利(り)口(こう)を以て人を悦ばし、咸を求めようと欲するのである。小(しよう)人(じん)姦(かん)徒(と)の常態であり、君子が卑しんで憎む所なので「其の輔(た)頬(きよう)舌(ぜつ)に咸ず」と言う。凶と言わないのは、言わずと知れたことだからである。
 誠は物を動かす。誠がなければ物を動かすことはできない。上六と九三は応じており、九三と六二は比している。九三は上六と応ずべきだが上六を舎てて六二と比す。上六に不満を持って怨んでいるのである。
 象伝に「口(こう)説(ぜつ)を滕(あ)ぐる也」とあるのは、口先で佞(ねい)弁(べん)を振るい人を悦ばせて感を求めようと欲する小人の醜態を形容したのである。聖人がこのような辞を下すのは、責めることの極みであり、上六の罪は、凶や吝よりも深いと知るべきである。
 

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