呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 302 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

30.離為火

□卦辞(彖辞)
離、利貞。亨。畜牝牛吉。
○離は貞しきに利し。亨る。牝(ひん)牛(ぎゆう)を畜(やしな)えば吉。
 離為火は上下共に火・明が重なっている象である。火は造化の原子の一つ。火がない所はない。火そのものには形はないが物に附いて形を顕(あらわ)す。
 人事で観ると人の明。人の明とは智のこと。人虚しく明らかで私情を挟まず事に従う時は、為す所悉(ことごと)く附く所を得て、明らかに通る。火は照らすという徳がある。人生に一日として火を欠かしてはならないが、使い方を誤れば玉石ともに燃やして大災害を生ずることがある。人の心も同じである。その麗く所が正しければ、仁義忠信の美徳となり、正しくなければ邪思妄想悪しき巧の凶徳となり、不善を為すのである。
 心の火を鎮めて防ぎ、厳しく慎んで恐れることが大切である。聖人は丁寧に利貞の戒めを下した。それが「牝(ひん)牛(ぎゆう)を畜(やしな)えば吉」である。牛の性質は順、牝(めす)は順の至りである。牝牛は角があるけれど曲がっているから、他を衝くことなく己の身を突くので、己を省みる象である。
 六二は中正、六五は中不正。正は亨り、不正は亨らない。これを戒めて「貞しきに利し。亨る」と言う。六二は離の卦主ゆえ、「牝牛を畜えば」というのは六二を指している。坤為地の彖辞の牝(ひん)馬(ば)は柔順の喩えである。
 この卦の彖辞の牝(ひん)牛(ぎゆう)は至って柔順であることの喩えである。馬は陽で健やか、牛は陰で静か。離の卦は外が剛で内が柔、牛もまた外が強いから重い荷物を運び内は柔なので人に従う。この象を取って「牝(ひん)牛(ぎゆう)を畜(やしな)えば吉なり」と言うのである。

□彖伝
彖曰、離麗也。日月麗乎天。百穀草木麗乎土。重明以麗乎正。乃化成天下。柔麗乎中正、故亨。是以畜牝牛吉也。
○彖に曰く、離は麗(つ)く也。日月は天に麗く。百(ひやつ)穀(こく)草(そう)木(もく)は土に麗く。重(ちよう)明(めい)にして以て正に麗く。乃ち天下を化成す。柔中正に麗く、故に亨る。是(ここ)を以て牝牛を畜えば吉なる也。
 離の卦は一陰が二陽の間に附着している。人に喩えると心。心魂が肉体に附着している象である。だから、彖伝に「離は麗く也」と言う。麗の古字は雨。雨は網の目の象形、附く、係るの意味がある。離の卦には附着の意味がある。
 君は仁に附き、臣は忠に附き、父は慈に附き、子は孝に附き、士は文武の道に附き、農は耕作の業に附く。以上は麗の意味。離の亨る所以である。
 麗(れい)順(じゆん)の道に邪正がある。偽りの謀を用いるのは悪いこと。智ある者と智を争い身を害する。これらは邪である。邪に附けば昏(くら)くして塞(ふさ)がる。正に附けば明らかにして通ずる。天地には全て象がある。日や月、百穀草木。氣は天に附き、天の氣は日月星辰に附き、また人に附く。天地人三才は皆氣が附いたものである。
 この卦の内卦は性善明徳を、外卦は文明の道や師友を表わす。この卦は徳を磨いて日に新たにすると云う意味がある。二の陰爻は中正を得ており、五の陰爻は柔が中を得ている。
 君主は峻徳を明らかにして尊位に附き、臣下は明徳を明らかにしてその位に附く。君臣心を合わせて朝廷を正し、家来を正し、万民を正して天下を化成する象である。
 離の卦の明という性質に則って道義を押し広めて、明によって昏(くらい)を啓(ひら)いて文明を化成する。これを「離は麗(つ)く也。日月は天に麗く。百穀草木は土に麗く。重(ちよう)明(めい)以て正に麗く。乃ち天下を化成す」と言うのである。
 人に附く道は、従う所を選んで、慎重かつ柔順に中正の道に従う。これを「柔中正に麗く、故に亨る」と言う。
 人が学んで智を得るのは利(よ)き刀を得るようなものである。世に立って実業に中り、衆人が競争するのは、剣術を熟練するようなものである。剣道の達人は敵と戦わずして、誰も向かってこない。学問智識を用いるのも、このようでなければならない。
 智を正しく用いれば、自分にとっては、心を治め、身を修め、家を整える。社会にとっては、国を治め、天下を平らかにする。しかし、智を不正に用いれば、偽りの謀で人を害し、身を滅ぼし、挙句の果てには国家を乱すことになる。
 智を用いるのは火を用いるようなものである。人の上に立ち、政教に関する者は、庶民を教育するに中り、智育を進めるだけでなく、必ず厚く徳育を奨励しなければならない。これを「是(ここ)を以て牝(ひん)牛(ぎゆう)を畜(やしな)えば吉なる也」と言うのである。

□大象伝
象曰、明兩作離。大人以繼明、照于四方。
○象に曰く、明兩(ふた)たび作(おこ)るは離なり。大人以て明を繼ぎて四方を照らす。
 「明両(ふた)たび作(おこ)る」は、八卦の離が重なった象。離は日(太陽)。日と称せず明と言うのは、宇宙に太陽は二つなく、日は君主の象で君主のみに適用して臣下人民には適用しないから明と称する。
 離は八卦の離が重なった象。日月の明はいつも違わず、大人の明は四方を悉(ことごと)く照らす。大とは徳のある王公。大人は大徳で天地と徳を合わせ、日月と明を合わせる。
 「明を継ぐ」の「明」は内卦の離。天から授かった明徳である。「継ぐ」は外卦の離。文明を修め学ぶことである。明を継がなければ時を経ても昏(くら)くなる。明徳を明らかにして、日に新たに又新たにすることが明を継ぐことである。
 明智ある君主はこの象に則り、先哲の言行を学び、日新の功を積み、身を粉にして庶政を施すのである。老いるまで天理の光明に順い、少しの私欲もなく、重明の徳を大いにして、天下を照らして治めるのである。
 六五の君主は陰爻陽位で太陽(日)の徳、六二の賢臣は陰爻陰位で太陰(月)の徳。日月交わって明らかである。大人は天地とその徳を合わせ、明君賢臣とその意を合わせて、天下に臨む。
 聡明叡智の君主が眼力を尽くし、心を尽くして善政を施し、教化を遍く継いで息(やす)まない。これが大人の離である。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。履錯然。敬之无咎。
象曰、履錯之敬、以辟咎也。
○初九。履(ふ)むこと錯(さく)然(ぜん)たり。之を敬すれば咎无し。
○象に曰く、履むこと錯(まじ)わるの敬は、以て咎を辟(さ)くる也。
 離は心の卦。心は行ないに現れる。「履むこと」は行なったこと。天沢履の九四の爻辞「虎の尾を履む」と同じである。九四は愬(さく)愬(さく)たるが故に吉であり、九五を敬するが故に咎を免れる。錯とは、交錯雑乱(交わりが乱れて)進退を決められないこと。天下の事業が交錯して本質を見失い枝葉末節ばかりになることである。
 「履むこと錯(さく)然(ぜん)たり」とは、動き始めた段階。「敬すれば」とは、物事を丁寧に反復することである。初九は剛陽の資質を具えて、文明の徳がある離の始めに居る。日の出前の暁の時、道路は暗く、歩みは錯然とする象である。禍福の機微が初動する時に萌す火の燃え始め。事業を起こす始めの段階。一番下に居るので履み行うことの始めの段階である。
 人には貴賤上下があり、その履み行う所は千差万別である。初九は剛なので、物事を成し遂げようと欲して上に進もうとする。すぐ上に居る離の主爻六二を敬い慎んで仕えれば、将来は咎なきを得る。
 初九は剛明の才能を具えて一番下で働き、慎み懼れるので「履むこと錯(さく)然(ぜん)たり。之を敬すれば咎无し」と言う。上に応爻はないので、妄動すれば必ず辱めを受ける。
 だから聖人は敬するようにと初九を戒め咎を免れるように導いたのである。火は炎上し鋭く進むと過ちを犯す恐れがあるので、一番下に居る初九を戒めて、他の爻に通達したのである。
 だから象伝に「履むこと錯(まじ)わるの敬は、以て咎を辟くる也」と言う。初爻は事業を為す始めだから、慎んで事を行ない、人を敬い、事を敬い、丁寧に執務すれば功がある。これを「履むこと錯(まじ)わるの敬は、以て咎を辟くる也」と言うのである。
六二。黄離。元吉。
象曰、黄離、元吉、得中道也。
○六二。黄(こう)離(り)なり。元吉。
○象に曰く、黄離元吉とは、中道を得れば也。
 黄は中央の正色だから「中」と云う意味がある。また忠信という意味にも喩えられる。さらに黄光は吉(きち)祥(じよう)(めでたい兆し)の氣でもある。六二は卦主で柔順中正の徳を具えているので「黄離なり。元吉」と言う。純粋な臣下が中庸の徳をもって君に附き、よく民を治め教化するのである。
 離の卦は、火、心、麗、照、燃焼(焚)、智、文、明という多くの意味を合わせもっている。黄(こう)離(り)の意味を、火と云う視点で見れば、剛強を用いて慎まないときは、あっという間に玉石共に燃焼する大災害となる。逆に柔順を用いて敬い慎むときは、よく暗い所を照らして、悪い物を煮て、民を養い大きな利益となる。
 心と云う視点で見ても同じである。忠信を主とすれば身を修め、家を斉えるが、忠信でなければ、身を滅ぼし、家を破る。
 麗も智も文も明も、邪正の二つがある。聡明で叡智のある者でなければ天下を化成することはできないので「黄(こう)離(り)」と言う。
 黄の字には、柔順忠信文明等の様々な象や徳が具わっている。善を尽くし、美を尽くし、上においては文明の君を助け、下においては文明を教化をする。
 人事で観れば、天下を大所高所から見て、正しい社会的地位を得て、天下の大道を行なう者である。以上のようであるから、離の卦は六二の時において、黄離の徳を具える者があれば、柔順の徳で人を愛して、天下国家に大善を施すが、柔順の徳を失えば、大災害を与えることになる。
 象伝に「中道を得れば也」とあるのは、黄(こう)離(り)は中正にして中庸でなければならないと云うこと。柔順中正の徳があるから「元吉」と言うのである。黄は中央の土色、黄氣は吉祥の兆しである。天運盛んな時ゆえ、文明の政治を行ない、事業を興すべきである。誰がこれを妨害することができようか。誰も妨害することはできない。これを「黄(こう)離(り)元(げん)吉(きつ)」と言うのである。

九三。日昃之離。不鼓缶而歌、則大耋之嗟。凶。
象曰、日昃之離、何可久也。
○九三。日昃(かたむ)くの離なり。缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌わざれば、則ち大(だい)耋(てつ)を之れ嗟(なげ)く。凶。
○象に曰く、日昃(かたむ)くくの離は、何ぞ久しかる可けん也(や)。
 「昃(かたむ)く」は、日が傾くこと。「日昃(かたむ)くの離なり」は、日が傾く時。「缶(ほとぎ)」は常用の瓦の器。「缶(ほとぎ)を鼓(こ)して」とは、缶(ほとぎ)を近くに置いて常に用いること。または質朴の喩え。八十歳を「耋(てつ)」と言い、「大(だい)耋(てつ)」とは八十歳以上の老人を称する。「大(だい)耋(てつ)を之れ嗟(なげ)く」とは、憂いても何の益もなく、衰退していくことである。
 九三は重剛にして過ぎたる不中、急いで進もうとする。下卦の終り、上卦の手前に居るので、一日が終わり(日が傾き)、また一日が来る(日が昇る)象。だから「日昃(かたむ)くの離なり」と言う。
 人の老いが極まって死に至らんとする。離の心が終ろうとする時である。「日昃(かたむ)く」は心が暗いことに喩えられる。老いが極まり死に至らんとする時は、天命があることを知り、天命に従い自らを得て、天を楽しみ、命に任せて、天が定めた人生に安んじて常用の器でお酒を酌み交わし歌を唄って楽しむべきである。
 心安んずることができずに、徒に利を貪って生き続けることを願い、老いてゆくことを嘆き、生を好んで死を恐れるのは、愚かなことである。それゆえ「缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌わざれば、則ち大(だい)耋(てつ)を之れ嗟(なげ)く。凶」と言うのである。
 智慧ある人は、後継者を見つけて事業を継ぐ。天道・流行・陰陽・変化・日月は錯行して、昼夜は交代することを知り、人の生死、貧富、長寿・夭折、いずれも天命だと弁えている。
 九三は天命を知らない。八十歳以上の老人には事を為す力がほとんど残っていないのに、徒に心を苦しめて、妄想を抱く。何の益があろうか。論語の「其の老ゆるに及んでは血氣既に衰う、之を戒むること得るに在り/年を取ると血氣が衰えて、易きに流れるから、欲張らぬよう戒めねばならぬ」とは、このことである。
 象伝はこれを解釈して「日昃(かたむ)くの離は、何ぞ久しかる可けん也」と言って、九三を批判しているのである。

九四。突如其來如。焚如、死如、棄如。
象曰、突如其來如、无處容也。
○九四。突如として其れ來(らい)如(じよ)たり。焚(ふん)如(じよ)たり、死(し)如(じよ)たり、棄(き)如(じよ)たり。
○象に曰く、突如として其れ來如たりとは、容(い)るる處(ところ)无(な)き也。
 「突如として其れ来如たり」は剛強という意味、「焚(ふん)如(じよ)たり」とはその性質が残暴で烈火のように物を焚(や)くという意味、「死如たり、棄(き)如(じよ)たり」とは其の身が滅亡して名を廃棄するという意味。
 離の卦は初爻を薪(たきぎ)、二爻を火、三爻を烟(けむり)とする。離の卦は明。明は人に附く。火が木に附くようなもの。火は木に宿して木を焚(や)き、明は人に附いて人を害する。九四は下卦が終って上卦に移る始めだから、下卦の薪は尽きて、その火は上卦の薪に伝わり、下卦の明は尽きて、上卦の明に継承しようとしている。世の中は暗く衰えてきているが、これから盛んになろうとうする時である。
 九四は陽剛不中正、性質は烈火のように剛氣粗暴で害を他に及ぼす。卦象で見れば、下卦から上卦に衝き上がり、爻の変化で見れば、三爻から四爻へ衝き上がる勢いがあるので「突如として其れ來如たり」と言う。上卦の始めに中り、昨日の日はすでに暮れ、今日の日が出ようとしている。しかるに上下の二つの火の間に挟まっているから焚かれる心配がある。よって「焚(ふん)如(じよ)たり、死如たり、棄如たり」と言うのである。
 六五は柔順光明の主で、九四に乗っているから、九四は六五に尽すべきだが、剛氣粗暴の勢いで火を明にすることなく、火を烈火のように燃焼させ人徳に背くことになる。九四は大臣の位にいて、部下や民に憎まれて追放されるような大罪を犯すのである。
 このような極悪人は世に受け入れられない。殺されて、廃棄されるに至る。天下を治めるどころか、自分の身を滅ぼす。これを「焚(ふん)如(じよ)たり、死如たり、棄如たり」と言うのである。剛氣粗暴の勢いで自爆する。初九とは応ぜず、九三とは比さないから、従う部下はなく、災いや咎を招くのである。
 象伝に「容(い)るる處(ところ)无(な)き也」とあるのは、九四は剛氣粗暴なので、堪忍・忍耐する徳がないと云うことである。

六五。出涕沱若。戚嗟若。吉。
象曰、六五之吉、離王公也。
○六五。涕(なみだ)を出すこと沱(た)若(じやく)たり。戚(うれ)へて嗟(さ)若(じやく)たり。吉。
○象に曰く、六五の吉は、王公に離(つ)けば也。
 「沱(た)若(じやく)」とは涙が流れること。「戚(うれ)へて」とは憂い悲しむこと。「嗟(さ)若(じやく)」とは傷み悲しんで声を出すこと。いずれも非常に悲しんで苦しむことを形容した言葉である。下卦の煙が上に進んで来て目を衝(つ)く象である。
 六五は柔中で尊位に居る文明国の君主。下には六二の臣下がいる。六五は文明国の政治を任されているが、憂い悲しみの度合いが深い。君主たる者は天下に先立ちて憂い、天下に後れて楽しむものであり、憂患に生きて安楽に死すものだからである。
 九三、九四の剛が煙を揚げて下から逼(せま)って来る。六五はその暴力的な剛(つよ)さに堪えられない。悲しみが顔色に現れて涙を出し、憤りが声に現われて、傷み悲しみ声を出している。
 六五には柔中の仁徳があり、離明の主爻なので、時勢を見極め朝晩戒め慎んでいる。騒いだり腹を立てたりして、己を失うことなく、凶を転じて吉と為し危害を免れる。だから「涕(なみだ)を出すこと沱(だ)若(じやく)たり。戚(うれ)へて嗟若たり。吉」と言うのである。
 六五が艱難辛苦に対処しているうちに、二つの剛(九三、九四)の勢いは段々衰えて国家は安寧に至る。吉なる所以である。君主たる者、六五の時に中り、誠の心で内面は戦(おのの)きながら、外面には悲しさや憂いを現して、国家の危機を心配する。社会が安寧に至ることを図って深く慮るのである。
 やがて時勢は変化し、権力を持った奸人達は自滅する。権力は君主の手に戻り、長くその位を保って、民を幸福に導く。功を成す人物には才能と地位が必要である。才能があっても地位がなければ、世に用いられない。地位があれば、為すべきことを成すことができるのである。
 象伝に「王公に離(つ)けば也」とあるのは、易経が時に中って進むべき君主の道を明らかに示しているのである。
 六五が変ずれば天火同人となる。同人の九五の爻辞に「九五は剛健中正の天子。正応の六二と和合しようとするが、九三・九四に邪魔されて、始めは憂い悲しみ泣き叫ぶけれども、終には喜び笑うに至る(九五。人に同じくするに、先には號咷して後には咲う)」とある。その意味を玩味すべきである。

上九。王用出征。有嘉折首。獲匪其醜。无咎。
象曰、王用出征、以正邦也。
○上九。王用(も)って出(い)でて征す。嘉(か)有り。首(かしら)を折る。獲(う)ること其の醜(たぐい)に匪(あら)ず。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、王用って出でて征すとは、以て邦を正す也。
 「王用って」の「王」とは六五を指す。「用って」とは六五が上九を用いると云うこと。「首(かしら)」とは首領、集団の頭という意味。「醜(たぐい)」は、醜(みにく)いことではなく「類」のことである。
 上九は人の身体で言えば首。だから「首(かしら)を折る」と言う。首(しゆ)級(きゆう)(討ち取った敵の首)という意味もある。上九は陽剛にして離(火)の卦の極点に居る。九三は下卦の上に在り、王に従わず剛健に過ぎて暴走して民を残害した。上九は王の命令を受けて九三を征伐する。天下の害を除いて、天下を保持するのだからやむを得ないことである。天に代って戦で征伐するしかない。
 国を保つために反逆者を討つ。王の六五が柔中の徳で命令に従わない九三を征伐するのは、道をもって無道を征伐するのだから、天はそれを許し人民はそれに応じて、反乱軍の首領を誅(ちゆう)戮(りく)する。以上を「王用って出でて征す。嘉有り。首を折る」と言う。
 処刑または捕縛するのは、反乱軍の頭(幹部)だけである。手下に寛大ならば、(王命により戦をした上九が)咎めをうけることはない。恩沢と威厳の両面で対処すれば、厳しさに過ぎることもなく、甘過ぎることもない。それゆえ「獲(う)ること其の醜(たぐい)に匪(あら)ず。咎无し」と言うのである。
 象伝の「王用って出でて征すとは、以て邦を正す也」とは、王が天に代って戦をする時は、妄りに武力を用いて民を混乱させることなく、反乱軍の首領を排除して国を正しく導くと云うことである。その功は大きいのである。

 

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