呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 305 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

33.天山遯

□卦辞(彖辞)
遯、亨。小利貞。
○遯(とん)は亨(とお)る。小は貞(ただ)しきに利(よろ)し。
 遯は艮が下、乾が上。乾は天、艮は山。天の下に山がある象。山は形があり止まって動かない。天は形がなく運行して息(やす)まない。遯は逃れること。退き避けることである。遯の字は豚が人を見て走って逃げるという意味がある。遯は陰陽消長十二卦の一つである。二陰が下から進んで勢いがどんどん長じている。上の四陽は勢いを失って、消されようとしているのである。
 遯は陽が逃れて退く氣運である。陰は小人、陽は君子。小人の勢いが長じて、君子は山に遯(のが)れ退くのである。下卦二陰が追いかけて、一陽は止まり動かない。上卦三陽は健やかに進んで遯れる象である。艮の少男は止まり、乾の老父が退くと云う象でもある。乾を賢者、艮を山とすれば、賢者が世を避けて山に在る象である。いずれも遯の意義である。

□彖伝
彖曰、遯亨、遯而亨也。剛當位而應、與時行也。小利貞、浸而長也。遯之時義、大矣哉。
○彖に曰く、遯は亨るとは、遯(のが)れて而(しか)して亨る也。剛、位に當たりて應じ、時とに行う也。小は貞しきに利しとは、浸(ようや)くにして長ずれば也。遯の時義大なる哉(かな)。
 遯は四陽が上に在る。二陰が進んで陽が隠遁しなければ、否となり、観となり、剝となる(陰が長じて陽が消ずる)。
 人事に敷(ふ)衍(えん)すると、事の大小に関わらず、幾を見て能く逃れ、害から遠ざかって身体や名誉を守る時である。「遯(のが)れて而して亨る也」とは、遯の時は直ちに通ることなく、逃れ去った後に亨るという意味である。遯の時の「亨る」とは、志望を遂げることではなく、速やかに回避して恥辱を受けないことや早く逃れて幸福を得ることである。
 遯は君子に小人を避けることを勧め、小人に君子に迫ることを戒める時である。抑(そもそ)もこの卦は雷(らい)風(ふう)恒(こう)に継いでいる。序卦伝に「恒(こう)とは久しきなり。物は以て久しく其の所に居るべからず。故にこれを受くるに遯を以てす。遯とは退くなり」とある。物は久しくその所に居て変化する。だから風と雷が交わると必ず散じ、夫婦は一緒になると必ず老いる。士や君子が壮年になって行うことは、若い頃から対処している何かである。その家を善くするためには、為すことを善くすることが肝要である。沢山咸と雷風恒は天地聖人の徳の至るところである。
 進退は士や君子の大いなる閑(ゆとり)である。君子の道は大いなる進退である。進むには礼を以てして、退くには義を以てする。これが君子である。以上が天山遯が沢山咸と雷風恒に継いで、大壮の卦に先んずる所以である。沢山咸と雷風恒は坎為水と離為火に次いでおり、下経の首(あたま)となって道徳の至って極まる時である。
 天山遯と雷天大壮が沢山咸と雷風恒に継ぐのは、水雷屯と山水蒙が乾為天と坤為地に継ぐようなものである。水雷屯と山水蒙は人物の始めを造る時。天山遯と雷天大壮は君子の始めを修める時である。然れども天山遯は君子の気運が衰退する時だから、新たに事を起こすのは利ろしくない。或いは枢要の地位に居る者は禍を蒙(こうむ)る時だから、逃れて福(さいわい)を得るべきである。
 富貴は人を溺れさせ易いので、去(きよ)就(しゆう)が節(ふし)に中ることは実に難しい。時勢に暗い者は遁れることを知らない。禄位を慕う者は去ることができない。常に危難を免れない。だから先見の明と克(こつ)己(き)の勇気を持って、時に因り、義を度(はか)り、志を決めて退避し、恥をかくことなく、身体や名誉を守るべきである。
 遯の時は小人の道がだんだん伸びていく。君子は進めば窮するが、退けば通ずる時である。だから正しく厳格であることが利益にならない。光を眩まし、智を包んで、僅かな兆しに臨み、変化に対応して小人の害を避けるべきである。
 二つの陰爻が下に在って微(かす)かに見えるが、勢いはだんだん大きくなろうとしている。四つの陽爻が上に在って盛んなように見えるが、勢いはだんだん小さくなろうとしている。小さくなろうとするものは屈して、大きくなろうとするものは伸びる。
 時を知らない人には、二つの陰爻は八卦艮の一部だから下に止まって動かないので畏(おそ)れるべきではないように見える。時を知っている人は、二つの陰爻が今は止まって動かないのは、まだ四つの陽爻が盛んだからあえて動かないと見える。だが、だんだんと勢いが大きくなり上に進んで行き下に止まってはいないのである。
 今、君子が遯(のが)れなければ、何時遯れればよいであろう。且つ君子が遯れるのは世の中を棄て去って救わないのではない。しばらく去ることによって亨る道を求めるのである。
 二つの陰爻は勢いが鋭いが、その朋(陰爻)は甚だ少ない。鋭いものは最後には必ず勝つ。少ないものは大衆の心を得ようとする。君子が遯れようとすれば、陰爻は居る処を失い陽爻を求める。陰爻が陽爻を求めることを前提にして対処するべきである。だから「遯は亨るとは、遯れて而して亨る也」と言う。
 論語に「天下道有れば則ち見(あらわ)れ、道無ければ則ち隠れる」とあるのは、遯の時に対処する道である。遯の時は、陰が長じて陽が消する気運だが、九五の君は中正を以て尊位に居る。九五は厳(げん)然(ぜん)と衆陽を統(す)べて、六二の大臣と正応して遯の世を制御する。二つの陰爻は陽爻を敵としないから君子は小人の情を得る。君子は心は遯れようと欲するが、身は位に就いている。速やかに遯れてはならない。正しさを以て自らを守り、権威を以て柔に応じ、時の宜しきに順って遯れることが肝要である。
 小人の禍が未だ迫らなくて、君子の身を容れる余地がある時は、遯れられれば遯れるべきである。且つ遯の卦の時は、身が遯れることと、心が遯れることがある。位がない者は僅かな兆しを見たら身を以て遯れる。位のある者が小人を悪まずに厳しく対処する時は心を以て遯れる。身を以て遯れる者は、その身を遯れても、その道は亨る。心を以て遯れる者は、その位に在っても、小人は悪を流通させることはできない。明哲保身の道である。以上を「位に當たりて應じ、時と與(とも)に行う也」と言う。
 しかし、陰爻の勢いが伸びていくのを止めることはできない。陰爻の勢いはだんだん伸びていくのである。これを「小は貞しきに利しとは、浸くにして長ずれば也」と言う。「小」は小事である。「貞しきに利し」は正しい道を貫くことが大切であり、勢いにまかせて禍を恣(ほしいまま)にはできないと云うことである。
 小人が伸びる時は善を損なって天下国家に害を与える。聖人は深くこれを戒めている。君子は長く遯の卦に居ることが難しい。これを嘆じて「遯の時義大なる哉」と言うのである。
 遯の時は天に在り、遯の義は人に在る。小人はこの段階で君子を害する意識はない。聖人は、君子が遯は去る時であることを知らずに、最後は禍を蒙ることを恐れて、今は遯れる時だと君子に教えているのである。

□大象伝
象曰、天下有山遯。君子以遠小人、不惡而嚴。
○象に曰く、天の下に山有るは遯なり。君子以て小人を遠ざけ、惡(にく)まずして嚴(げん)にす。
 上卦乾は天の氣なので昇って去る。下卦艮は山なので止まって居る。山は天を侵すことはできないし、及ぶこともできない。天が高いのは天が山から遠ざかるからではない。天と山は隔絶しているから、天が高いのである。
 下から山を観ると山の頂は天のように見えるが、山の頂に登ると天は益々高く、遠く及ぶことができないことがわかる。天が山から遁れ去ったような感じである。山は天に近づけない。
 遯の時は二つの陰爻が時を得て勢いに乗じ、徐々に君子を凌ごうとするのである。君子はこの卦象に則り、小人に対して悪しき声や激しい態度で接してはならない。形正しく厳(おごそ)かに慎み深く己を保ち、小人が近づきにくい威厳によって、自然と退き去るようでなければならない。
 天が山から遠ざかるのではない。山が天に近づくことを諦めるように、君子が小人を絶つのではなく、小人が君子を絶つことを諦めるのである。君子が小人を悪(にく)めば小人は怨み激して怒り狂う。君子に威厳がないと侮(あなど)られて恥をかくことになる。小人を悪むことなく威厳を保つのである。威厳は礼を以て身を律することで、小人を遠ざけるためのものではない。このことを「君子以て小人を遠ざけ、惡まずして嚴にす」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。遯尾。厲。勿用有攸往。
象曰、遯尾之厲、不往何災也。
○初六。遯(のが)るるの尾(しりえ)なり。厲(あやう)し。往く攸(ところ)有るに用ふる勿(なか)れ。
○象に曰く、遯(とん)尾(び)の厲きは、往かずんば何の災あらん也(や)。
 遯は初六と六二の二陰が進んで陽を駆逐する時である。遯れ去る者は九三、九四、九五及び上九の四陽だが、爻の象においては、二陰が進んで陽を駆逐するとは解釈せずに、六二を除く五つの爻は、皆遯れ去る者だと解釈する。卦と爻の解釈を別にするのは、易を読む時の秘訣である。
 初六の位は六爻の最下に居るので、遯れ去ることが遅くてみんなに後れをとってしまったと解釈する。遯れ去る道は、先にして速やかなる者を易(やす)くして吉、後れて遅い者を難くして凶とする。初六は陰爻陽位で才能は不足しているが志は強い。且つ陰柔にして卦の下に在る。陰柔だから物事に暗く、明らかな智恵はなく、下に居るので滞って果断に決する志はない。遁れようとして後れた者だから「遯(のが)るるの尾(しりえ)なり。厲(あやう)し」と言う。「厲」とは災いが身に及ぶことである。
 首は前に在り尾は後ろに在る。首の趣く所を尾は禁ずることができない。だが、遯れて後に在る時は危ない。遯れ去るべき時に中っては、知を蔵(かく)し徳を包んで速やかに遯れ去るべきである。進んで事を成そうと欲すれば、必ず大いなる災害を受ける。だから、これを戒めて「往く攸(ところ)有るに用いる勿(なか)れ」と言う。
 幾を見て(微かな兆しを察知して)遯れ去ることは、善いことだが、今さら往くと危ない。未だ仕えていない者が、どうして出て往く必要があるのか。「往く攸(ところ)有るに用いる勿(なか)れ」とは、初六は例え用いられても功がないと云うことである。
 象伝の「往かずんば何の災あらん也」とは、初六は遯れ去って災害を避けるべきだが、もし、遯れ去ることに後れたとしても、才能を奮い進み行くべき時ではないと云うことである。

六二。執之用黄牛之革。莫之勝説。
象曰、執用黄牛、固志也。
○六二。之(これ)を執(と)るに黄(おう)牛(ぎゆう)の革を用う。之を説(と)くに勝(た)ふる莫(な)し。
○象に曰く、執るに黄牛を用うるは、志を固くする也。
 「之を執る」の「之」とは、遯の時に遁れ去らんとする諸爻を指す。「黄(おう)牛(ぎゆう)」の「黄」は中を得ている。中は性質が柔順である。「革を用う」の「革」は志が堅固なことを云う。
 六二は成卦主で上の九五に応じている。遯の卦は遁れ去ろうとする象だが、六二は遁れようとするのを止める。
 だが、卦の象から観ると、陽爻の君子が遁れ去ろうとするのは、六二の陰爻が存在するからである。
 爻の象から観ると、六二は柔順中正で忠信・篤実の徳があり、他の五爻を止めようとする。卦の象は陰陽の徳を重視して解釈し、爻の象は中正の徳を重視して解釈する。
 六二は中正の徳を得た社稷の忠臣である。人として守るべき道を明らかにする教えを弁えている。その志を守ることは黄牛の革のように堅固である。
 六二は衆陽が(九三・九四・九五・上九)遁れ去ろうとするのを止めるため、ある時は法を以て繋ぎ止め、ある時は利を以て繋ぎ止める。六二は情を以て衆陽を繋ぎ止めるので、衆陽は国家に忠誠の志を感じて安易に遁れ去ることを止める。だから「之を執うるに黄牛の革を用う。之を説くに勝(た)ふる莫(な)し」と言う。
 「勝(た)ふる」は堪えること、「説」は解脱することだから、「之を説くに勝(た)ふる莫(な)し」とは、諸爻が六二から解脱して遯去することが堪えられなくなると云う意味となる。
 六二は人臣の位に居て国家を任されている。遯の時であっても、遯れてはならない者だから、衆陽が遯れようとするのを繋ぎ止めるのである。普通の人は達すれば楽しみ、窮すれば憂うものだが、君子はそうではない。窮してもまた楽しみ、通じてもまた楽しむ。世を遯れても悶々とすることはない。
 六二は小人が進んで用いられ君子が退く時に中り、忠順の道を歩み中正にして偏らない。順い行って逆らわず、志を堅固にして改めない。道を楽しみ憂いを忘れ、堪えて遯れ去らないのは、遯の時に居る君子の道である。
 象伝に「志を固くする也」とある。遯の時に衆陽が遯れ去ってしまえば、社稷を守る者がいなくなるから、六二は必死で衆陽を繋ぎ止めようとする。そのため、先ず己が中正の志を固くして、衆陽に己の志を伝えようとする。忠臣として社稷を守るために、衆陽を繋ぎ止めると云う己の志を堅固にするのである。

九三。繋遯。有疾厲。臣畜妾吉。
象曰、繋遯之厲、有疾憊也。畜臣妾吉、不可大事也。
○九三。遯を繋(つな)ぐ。疾(やまい)有り。厲(あやう)し。臣(しん)妾(しよう)を畜(やしな)えば吉。
○象に曰く、繋(けい)遯(とん)の厲きは、疾有りて憊(つか)るる也。臣(しん)妾(しよう)を畜(やしな)えば吉とは、大事に可(か)ならざる也。
 「遯を繋ぐ」の「繋ぐ」とは、羈(き)絆(はん)(牛馬などを綱などで繋ぎ止める、行動を束縛する、足手まといになる)と云う意味である。九三は宜しく遯れ去るべき時にあって、六二と陰陽親しく相比している。六二に節義があることを感じて、情けと好(よし)みの羈(き)絆(はん)を被(こうむ)り、超然として遯れることが忍びなくなる。
 九三の心は小人に制御され、危殆(あやうい)道を歩むことになる。聖人は九三の志が富貴功名に溺れて早く遯れることができないことを卑しく思う。だから「遯を繋ぐ」と言うのである。
 陰を以て陽を繋げば疾(やまい)となる。陽を以て陰を畜(とどめ)れば吉となる。遯(とん)逃(とう)解脱の道は速やかに遠くまで行くことを貴ぶ。係(かかわり)累(わずらう)ところがあれば、速やかに遠くまで行けるはずがない。係(けい)累(るい)があれば遯れ脱する機会をなくして進退窮まり憂い苦しみ、病気になる。これは、危うい道である。だから「疾(やまい)有り。厲し」と言う。
 九三は剛明の性質があるのに六二に馴染み繋がり恋々として遯れないので、危うきに終わる。疾(やまい)は名を損すると云う意味があり、「厲し」には中(うちに)傷(そこなう)と云う意味がある。以上は、九三の正面(卦の形)の意味を解釈したものである。
 係(けい)絆(はん)(繋ぎ止めて行動を束縛する)を被(こうむ)る君子は遠く遯れて退くことができないが、小人六二を臣(しん)妾(しよう)として養えば問題ない。六二と九三は陰陽親しみ比するので、九三が親愛の情を以て六二を養えば、六二もそれを恩に感じて柔順に従う。
 九三が卑しい臣(しん)妾(しよう)に気持ちを許すのは六二に惑わされるからである。小人や臣(しん)妾(しよう)を畜(やしな)う方法は相手を悪(にく)まず威厳を以て侮(あなど)られないことである。このようであれば、憊(つか)れを免れて吉となる。それゆえ「臣(しん)妾(しよう)を畜(やしな)えば吉」と言う。
 象伝に「疾(やまい)有りて憊(つか)るる也」とあるのは、係(けい)累(るい)のために因(いん)循(じゆん)(ぐずぐず)して果断決行することが出来ず、疾(しつ)病(ぺい)に罹り憊(つか)れ気力がなくなることを云う。「憊(つか)るる」とは、苦心して焦(しよう)慮(りよ)することの極みである。「大事には可ならざる也」の「大事」とは、出処進退を云う。君子の出処進退は天下に影響を及ぼすから、剛決を以てこれに対処すべきと云うことである。
 「大事には可ならざる也」の「可ならざる也」とは、残念ながら今は適切な出処進退ができないが、下に臨んで臣(しん)妾(しよう)を撫で恵むような小事には吉であると云うことである。

九四。好遯。君子吉。小人否。
象曰、君子好遯。小人否也。
○九四。好(よみ)すれども遯(のが)る。君子は吉。小人は否(しから)ず。
○象に曰く、君子は好(よみ)すれども遯(のが)る。小人は否(しから)ざる也。
 九四は初六と相応じている。初六は九四の最も親愛する者ゆえ、九四は初六と遯れ去る志を同じくするので「好(よみ)すれども遯(のが)る」と言う。好は悪の反対。従(しよう)容(よう)と遯れて忿(ふん)戻(れい)(怒り悖(もと)る)の行いをしない。富貴の念を絶ち窮(きゆう)居(きよ)の志を尚ぶ。遯を決する者である。だが、初六は陰爻陽位、九四は陽爻陰位である。不正同士が応じるのは正しい道ではない。
 遯の時に中り、君子は剛大の氣を能く発揮して私利私欲に克(か)ち、微かな兆しを観て、愛する者と別れる。遯の時にやるべきことを知り、己の好みを忘れ、遯れ逃げ解脱する道を履行する。その身を潔くする美しさを遂げれば、君子である。愛する者がいても、能く遯れて其の義を失わない。これを「君子は吉」と言う。
 小人は愛する者と別れられない。親しみ馴(な)染(じ)むことに拘(こう)泥(でい)して、私利私欲に克てないのである。好することは知っているが遯の時を知らないのである。君子の行いと相反して自ら禍を招くので「小人は否(しから)ず」と言う。
 君子が世に処して大義に中る時は、私利私欲を捨て正義を断行して疑わない。だから象伝に「君子は好(よみ)すれども遯(のが)る」と言う。但し、小人は専ら情欲に随い、宿命を知らない。身を処して事を行うことが、常に君子と相反する。だから「小人は否(しから)ざる也」と言う。小人の害を受けないのは君子の吉だが、君子が遯(のが)れてしまえば小人はどうすることもできない。
 「好(よみ)すれども遯(のが)る」とは、「好む所があって遯(のが)れること」とする説もある。「好」は論語の「吾が好む所に従わん」の「好」である。世人の好む所は富貴功名にあるが、君子の好む所は天命を授かり、誠の境地に至ることにある。世人は世間の枠組みの中でせわしくするが、君子は世間の枠組みを取り払って悠々とする。これを「好(よみ)すれども遯(のが)る」と解釈しても意味は通じる。

九五。嘉遯。貞吉。
象曰、嘉遯、貞吉、以正志也。
○九五。嘉(よ)く遯(のが)る。貞にして吉。
○象に曰く、嘉(よ)く遯(のが)る、貞にして吉とは、志を正しくする也。
 九五は六二と陰陽相応じているが、剛健中正で時と勢いを知り、変に応じて微かな兆し(幾)を観て、将来に禍があることを察す。六二との親愛を割(かつ)断(だん)(割いて断(た)つ)して能く遯れ去る者である。
 其の遯れるのは先ならず後ならず適(まさ)に事機の会(兆しの最適時)に中るのである。遯の卦において嘉き者である。その道を得て貞であれば、吉でない道理がない。だから「嘉く遯る。貞にして吉」と言うのである。
 象伝に「志を正しくする也」とある。九五は六二と相応じ親愛する者だが、九五は大義を忘れずに私利私欲を棄て、嘉く遯る。中正の徳を維持して乱れない。昔から遁れる者は多いが、大切にされなくなって遯れたり、成功しなくなって遯れたりする。災いは免れるかもしれないが、遯の時の遯れ方ではない。九五は中正の徳があり、遯れ方は惜しむところがない。貞吉の所以である。

上九。肥遯。无不利。
象曰、肥遯、无不利、无所疑也。
○上九。肥(ゆた)かに遯(のが)る。利(よろ)しからざる无(な)し。
○象に曰く、肥(ゆた)かに遯(のが)る、利(よろ)しからざる无(な)しとは、疑う所无(な)き也。
 「肥(ゆた)かに遯(のが)る」の「肥(ゆた)か」とは、充(み)ちて大きく寛(ひろ)く裕かなことである。この卦の爻は皆遯れ去ることを欲しているが、応比の係累(初と四、二と五)がある。唯上九だけは応比の係累がない。だから、進退に労したり慮(おもんぱか)ることがなく、疑い顧みる念もないので、速やかに遯れ去ることができるのである。
 遯の時において余裕綽(しやく)々(しやく)として超然たる者である。遯の道は、後(下卦)に在る者は遅く緩やかで難渋する。前(上卦)に在る者は速やかで容易である。上九は卦の極点に居るので、最も先(上卦の最上)に在る者である。しかも陽剛にして上卦乾の首(かしら)に在るから、遯れ去ることが疾(はや)く、速やかである。
 之に勝る者はない。乱れることなく、可愛がられ辱められることなく、驚くこともない。小人の禍が及ぶこともない。且つ陽剛であるから、明らかに決断する才能がある。害が至ることなく跡形もなく遯れ去る。これほど大きな吉があろうか。だからこれを称賛して「肥(ゆた)かに遯(のが)る。利(よろ)しからざる无(な)し」と言うのである。
 象伝に「疑う所无き也」とある。上九は、遯の時に中り、遯れ去り解脱する道において、一点の疑いや障碍がないのである。

 

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