呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 299 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

27.山雷頥

□卦辞(彖辞)
頤、貞吉。覿頤自求口實。
○頤(い)は、貞にして吉。頤(い)を覿(み)、自ら口(こう)實(じつ)を求む。
 頤は震が下、艮が上。艮は山、震は雷。山の下に雷がある。雷は地から出た生氣で動く、山は止まって動かない。雷が山の下で動こうとするが、山に止められて妄りに動けない。下が動いて上が止まる象。上下二陽は外に実(じつ)であり、四陰は内に虚である。
 人身に当て嵌めれば上下の顎(あご)の間に四陰の歯が生えている象。下顎は震だから動き、上顎は艮だから止まる。顎(あご)は頤(あご)(頤(い))なのでこの卦を頤(い)と名付ける。頤(い)は頤(あご)であり、また口でもある。口は色々なものを養うので、序卦伝に「頤は養う也」とある。
 艮は十二月から正月にかけての気候である。冬から春に至る間に雷が山の下に在って奮迅の勇氣を養う象がある。震と艮を合わせて大きな離となり、中に坤の母を抱く。含み養う象である。養うとは口から飲食を通じて身体を養うことである。
 食べて身命を養わない者はない。一日養わなければ飢える。天下の人々は養うことに溺れ、空腹を避けるために心志を喪うまでに至る。だから聖人は頤を観る道を以て人に教える。頤を観れば養うことを思い、養うことを思えば節約することを知る。食欲を抑えて廉恥の心を立て、心志を安んずるべく、生きることを養い、徳を養う。養うことは中に在る。これが頤の意義である。
 徳を養い、賢を養い、萬民を養うと云う大義に関して、彖辞に「自ら口實を求む」と言う。また、彖伝に「聖人は賢を養い、以て萬民に及ぼす」と言うのである。

□彖伝
彖曰、頤貞吉、養正則吉也。覿頤、覿其所養也。自求口實、覿其自養也。天地養萬物、聖人養賢以及萬民。顎之時大矣哉。
○彖に曰く、頤は、貞にして吉とは、養うこと正しければ則ち吉也。頤を覿るとは、其の養う所を覿る也。自ら口實を求むとは、其の自ら養うを覿る也。天地は萬物を養い、聖人は賢を養い、以て萬民に及ぼす。顎の時、大なる哉。
 この卦を人事で観れば、上の三爻は徳を養い、下の三爻は飲食を通じて身を養う象。生を養い、形を養い、徳を養い、人を養うのは、皆頤の養う道である。息をして生を養い、飲食衣服で形を養い、威儀と礼儀で徳を養い、自分を磨いて人を養う。
 頤の養う道は貞正であるべきだが、空腹を満たすため、放恣に流れ非義非礼に至ることが少なくない。養うのに正と不正があり、正を得る者は吉を得て、正を得ない者は凶となる。
 暴飲暴食して疾病に罹り、私欲で邪念を逞(たくま)しくして災(さい)禍(か)に罹(かか)るのは頤の不正に因る。頤は身命を養い徳性を養う所以であり、正不正が肝要である。それゆえ、彖伝に「頤は、貞にして吉とは、養うこと正しければ則ち吉也」と言う。
 飲食は口から入り肉体を生育し、言語は口から出て心志に通達する。人は一日食べなければ飢える。心は形がないから捉えることができないが、言語に徳が現れる。言語をして心の徳を見て、心の徳を知る。人は教育により吉凶禍福を生ずる。飲食と言語の関係は重大である。だから君子は飲食言語を慎み、節制して誠実を尚び、利貞を守って、身を養い徳を養う。「頤を覿、自ら口實を求む」の意義である。
 人の賢不肖、養うところの正不正を省察する。これを「頤を覿るとは、其の養う所を覿る也」と言う。自ら養うところの善不善を反省し公正に養う。性を養うか、形を養うか。性を養う者は道を学び止まることによって徳を磨き人に求めない。
 形を養う者は穀物を食べ動くことによって力を労する。人に求めることなく自らを省察する。これを「自ら口實を求むとは、其の自ら養うを覿る也」と言うのである。
 頤の道が正しく偉大なら萬物を養う。萬物はその生を大いに遂げる。聖人は天地のために萬民を養う。賢人を養わずに何に由るのか。賢者が自らを養えば、君主は自分の軽率さに気付き、賢者に下り、国家の重臣として任用する。頤の道は自ら養い、賢人も養う。頤の道が貞であり吉たる所以である。
 だから聖人は賢人を養い天祿を与え、萬民を治めて、天下の民を養うのである。民は恒産があって後に恒心が芽生える。民に教化を施すべきである。民を教化するために君主は賢人を養うことから始める。これを「天地は萬物を養い、聖人は賢を養い、以て萬民に及ぼす。顎の時、大なる哉」と言うのである。

□大象伝
象曰、山下有雷頤。君子以愼言語、節飲食。
○象に曰く、山の下に雷有るは頤なり。君子以て言語を愼み、飲食を節す。
 山の下に雷がある。上が止まって下が動く。顎や口の作用である。言語は禍福の兆し、飲食は疾病の生ずる所以である。動くことと止まることが道を得れば、身心安泰である。
 君子は頤の象を見て、口から出る言語を戒慎して身を守り徳を積み、口から入る飲食を節制して身と徳を養う。これを積み上げれば、命令や政教を発する者は、慎みを失うことなく、貨財や資本を用いて人を養う者は、節度を失うことはない。
 頤を養う道を推し進めれば徳を養い天下を養う。養わないものは何ひとつない。人が一日で食べる量は限られる。五十年・百年と積み上げても大した量にはならない。
 大きな家に住んでいても人が居る所は一畳の大きさに過ぎない。財を積み上げ子孫に残しても、子孫は財を守らない。利欲には限りがなく財を積み上げることに汲々として飽きることを知らない。子孫のためにはならない。人からの怨みを招き、天下を乱すことにつながる。利欲を節制するよう戒めたのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。舍爾靈龜、覿我朶頤。凶。
象曰、覿我朶頤、亦不足貴也。
○初九。爾(なんじ)の靈(れい)龜(き)を舍(す)て、我を覿て頤(おとがい)を朶(た)る。凶。
○象に曰く、我を覿て頤(おとがい)を朶(た)るとは、亦(また)、貴(たつと)ぶに足らざる也。
 「爾(なんじ)」と「我」は、応爻の六四から初九に告げる言葉である。「爾」は初九、「我」は六四を指している。「龜(かめ)(亀)」には霊妙な徳があり何も飲食せず空気を飲むだけで自らを養うことができる。卦全体の形が離に似ており亀の象がある。明智を能く守るから「霊(れい)亀(き)」と称する。
 心の霊を良知と言う。初九は剛明にして正を得ており、陽徳の大本と貴ばれる性質がある。自らその身を安んずるべきである。けれども震の兆しが発動して自分の性質を捨て去り、貴ぶべき性質を失いつつある。初九は陽の実質が富有なので六二と六三を養うべきだが、応爻の六四が高位に居て権勢があることを羨ましく思い分に安んずることができない。
 陽の実質を持ちながら空虚な陰に養ってもらおうとする。六四は初九に「爾(なんじ)の霊(れい)亀(き)を舍て、我を覿て頤(おとがい)を朶(た)るのは、義に違い道に背くものである。霊(れい)亀(き)の徳はどうしてしまったのか」と告げるので「爾(なんじ)の靈(れい)龜(き)を舍(す)て、我を覿て頤(おとがい)を朶(た)る。凶」と言う。
 剛を貴ぶのは自立して私利私欲に屈しないから。明を貴ぶのはよく照らして正を失わないからである。初九は天から授かった霊(れい)亀(き)と云う性質を捨て、人間社会の地位を求める。鄙(ひ)吝(りん)恥(ち)辱(じよく)で貴ぶに足りない。貴ぶべき徳があるのに権勢を求めるから志を喪(うしな)い身を失う。だから象伝に「亦、貴ぶに足らざる也」と言うのである。

六二。顚頤。拂經。于丘頤、往凶。
象曰、六二往凶、行失類也。
○六二。顚(さかしま)に頤(やしな)わる。經(つね)に拂(もと)る。丘に于(おい)て頤(やしな)われんとし、往けば凶。
○象に曰く、六二の往けば凶とは、行けば類を失う也。
 六二は陰柔ゆえ自ら養うことができない。陽に養ってもらうことを待っている。頤養の道は上が下に施すことを常とする。天子は天下を養い、臣下は天子の禄を食み、大衆は官吏に養われる。皆上が下を養う。だが六五は陰柔で下を養うことができない。
 六二を養えるのは初九しかいないのである。上が下に恵む道に背き常理に悖(もと)る。これを「顚(さかしま)に頤(やしな)わる。經(つね)に拂(もと)る」と言う。「經(つね)」とは常理。「拂(もと)る」は違うことである。
 六二と六五は応じないので六五は六二を養わない。常理に違うが六二は上九に養ってもらおうと求める。上九は六二と応比の関係にないから六二を拒む。六二は自ら養う力がないので上の勢力が盛大なのを見て同類親族でもないのに妄りに求める。恥ずかしいことなので凶である。上九は六二を受け容れない。六二は比する初九を失い従うべき人をなくす。だから「丘に于(おい)て頤(やしな)われんとし、往けば凶」と言うのである。
 六二は下の位の初九に教えを受けることを好まない。応ずる相手である六五は陰柔なので上九に養ってもらおうと求める。上九は六二と応比の関係ではないので謝絶される。六二は職を全うすることができないから罷免されても仕方がない。六二が上九を求めることは、分を弁(わきま)えず情に悖(もと)るものであり、同類の友(初九)を失うことになる。だから象伝に「行けば類を失う也」と言う。

六三。拂頤。貞凶。十年勿用。无攸利。
象曰、十年勿用、道大悖也。
○六三。頤(い)に拂(もと)る。貞なれど凶。十年用ふる勿(なか)れ。利(よろ)しき攸(ところ)无(な)し。
○象に曰く、十年用ふる勿れとは、道大いに悖(もと)れば也。
 六三は陰柔不中正で下卦の上に居り、上九と応ずる官長の位。だが、自治の力なく、人を養う徳がない。内卦震(動)の極に居て、上卦艮(山)が止めても動いて止まることを知らない。
 上九の剛陽に養われて職に就き身を養うけれども、驕(きよう)奢(しや)節度なく、嗜(し)慾(よく)厭(あ)くことなく、業務に倦(う)み利得を急ぎ、理で慾を制することも、道で情を御することもできない。遂に財産を失い、家を喪い、公職を失う。頤の時に中り、自ら口実を求めず、自ら養わないで人に求める。養われる者は静かであるべきなのに、妄りに不平不満を言い、やりたい放題。頤養の道に払(もと)る。
 上九に養われるのは正しいが、重職の役割を全うしない。頤に払(もと)るところが大きいから、「頤に拂(もと)る。貞なれど凶」と言う。
 速やかに過ちを改めるべきなのに、乞い求めて恥ずるところなく、少しも独立の心がない。鄙(ひ)吝(りん)醜(しゆう)辱(じよく)(いやしくはずかしいこと)これより甚だしきはない。このように鄙吝(いやしき)輩(やから)の多くは、風を傷(そこな)い、俗を害する。これより大きな国家の不幸はない。このような者は絶対に用いてはならないのである。
 このことを「十年用うる勿(なか)れ。利しき攸(ところ)无(な)し」と言い、深く六三を責めて突き放している。

六四。顚頤吉。虎視眈眈。其欲逐逐。无咎。
象曰、顚頤之吉、上施光也。
○六四。顚(さかしま)に頤(やしな)わる。吉。虎視眈眈たり。其の欲逐(ちく)逐(ちく)たり。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、顚に頤わるるの吉は、上の施し光(おおい)なる也。
 六四は柔正で初九の剛正と陰陽正しく応じている。大臣の位に在るが陰柔で才能と力がないので人を養うことはできない。そこで賢者を得て国政を補佐してもらう。すなわち初九の賢者を得て民が安心する政治を実現する。下の者に養われるのは本末転倒なので「顚(さかしま)に頤(やしな)わる」と言う。自分の力不足を省みて、賢者に謙るので咎なく吉を得るのである。
 六四は人を治める位にあるが、陰柔ゆえ賢者を得て補佐してもらい自分は沈(ちん)黙(もく)荘(そう)重(ちよう)に威厳を養う。遠くを志して徳量を弘大にする。養うこと逐(あり)々(あり)として間断なく、篤実重厚であることを欲する。このようであるから、凡庸な人物(六四)でも民を養うことができる。これを「虎視眈眈たり。其の欲逐(ちく)逐(ちく)たり。咎无し」と言う。
 「其の欲」とは私利私欲ではなく、初九の賢者に求めて己の不足を補うことである。初九と六四の両爻を二物(虎と亀)の象とする。六四が初九を尚ぶこと霊(れい)亀(き)の如く、益を求める心は餓えた虎の食を求めて飽くことを知らず、継続して止(や)まざるが如く、専一で他にはいない存在として初九と比す(親しむ)。
 象伝に「上の施し光(おおい)なる也」とあるのは、六四の仁政の恩施(ほどこし)が光大なことを云う。

六五。拂經。居貞吉。不可渉大川。
象曰、居貞之吉、順以從上也。
○六五。經(つね)に拂(もと)る。貞に居れば吉。大川を渉(わた)る可からず。
○象に曰く、貞に居るの吉は、順にして以て上に從えば也。
 六五は陰柔で君位に居り、下に応ずる爻がなく、上の一陽(上九)に養われる。六五は君主だが人を養うことができずに人に養われる。君主の道は、師として万民を養い教化することである。だから君主を天子と言う。天子は天の父として天の道に則り、万民を子として教化する。だが六五の君は頤養の時に中り万民を教化することができない。下位者に補佐する者がいないので、現役を退いた上九に助けを求める。君道の常理に悖るので「經(つね)に拂(もと)る」と言うのである。
 この卦は養うことに意義がある。初九と上九のみが陽剛富貴で人を養う才能道徳がある。時勢は初九と上九にある。六五は陰弱ゆえ権威が弱く、六四の大臣も六二の臣下も微力で、また初九と応比の関係にある。六五は孤立して、その地位は危うく、志を確立させなければ、地位を失う恐れがある。
 六五は上卦艮に居るので止まり守れば可とする。六五の才能には限界があり君主の地位にあってもどうすることもできない。妄動して大事業を為そうと欲してはいけない。妄動すれば君位を失う恐れがある。固く貞の道を守るべきである。
 上九の賢者と親しみ己を捨てて人に従い、賢者に任せれば吉を得る。それゆえ、「貞に居れば吉。大川を渉る可からず」と言う。
 象伝に「順にして以て上に從えば也」とあるのは、六五は上九陽剛の賢者に順従して少しも違背することがあってはならないと云うことである。

上九。由頤。厲吉。利渉大川。
象曰、由頤、厲吉、大有慶也。
○上九。由(より)て頤(やしな)わる。厲うけれども吉。大川を渉(わた)るに利(よろ)し。
○象に曰く、由(より)て頤(やしな)わる、厲(あや)うけれども吉とは、大いに慶(よろこ)び有る也。
 頤は初九と上九の陽剛が四陰を養う象である。下に居る初九は養うことが難いが、上に居る上九は養うことができる。四陰は上爻に養われるから「由(よ)りて頤(やしな)わる」と言うのである。
 上九は成卦主なので責任は重く、驕(おご)りを恣(ほしいまま)にして怠りが見えれば、万民に疑われて怨まれる。危うい道である。任に中り常に畏(おそ)れ慎む念を懐(いだ)けば吉を保つことができる。周公旦の如く憂い畏れて艱難に立ち向かうことを憚(はばか)らなければ吉を得る。それゆえ「厲うけれども吉」と言うのである。
 上九は不中正なので危うい。だが、頤の時に中り陽明富貴の徳で天下万民を養い助ける。その道は広大で功徳が大きいので吉を得る。六五は「大川を渉(わた)る可からず」だったが、上九に至れば止まる必要はなく、開通しようとする時を迎える。
 六五の君主は才能道徳足りないので上九に補佐を依頼する。上九は天下の大任に中って、天下の艱難を救い治安を成し遂げる。それゆえ「大川を渉るに利し」と言うのである。
 象伝に「大いに慶び有る也」とあるのは、陽剛が己を養い天下を養い、己も人も共に福慶(さいわい)があることを云う。

 

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