呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 300 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

28.沢風大過

□卦辞(彖辞)
大過、棟橈。利有攸往。亨。
○大過は、棟(むなぎ)橈(たわ)む。往く攸(ところ)有るに利(よろ)し。亨(とお)る。
 大過は巽が下、兌が上。上下合わせて大坎の象であり、大水の形である。また、巽木の上に兌水が溢れる洪水の象でもある。巽の舟が兌の澤の中に沈んでいる。頥の上卦艮の山は地中の火力が突起して出来たものである。漸次に降雨により土砂を流し土砂は洲となって陸地を広げる。山は火で成り、水で減ずる。
 頤の卦極で地中の噴火で山が破滅する。大地は震えて山が崩れ岩石が飛び散り大川は塞がれ洪水となる。湖を生じて木は水底に沈没。湖の中に埋もれた大樹が頂を現す。これが大過の象である。
 大過は強大過ぎる。物は自然に適合(中)する。中を超えると過となる。言行が中正を超えると、過失(罪)に至る。過とは偏って調和を欠いていること。大過は二陰四陽で剛が柔に過ぎている。四陽並んで一大勢力となり盛んに過ぎる。澤は木を潤し養う。大水となり木を枯らすことは滅多にない。兌は悦、巽は従。悦楽に従い過ぎる。兌の少女が巽の長女の上に居る。少女が長女を凌ぎ過ぎ、長女は少女に譲り過ぎる。大過と名付ける所以である。

□彖伝
彖曰、大過、大者過也。棟橈、本末弱也。剛過而中、巽而説行。利有攸往。乃亨。大過之時大矣哉。
○彖に曰く、大過は大なる者過ぐる也。棟(むなぎ)橈(たわ)むとは、本末弱ければ也。剛過ぎたれども中(ちゆう)し、巽にして説(よろこ)びて行く。往く攸(ところ)有るに利し。乃ち亨る。大過の時、大なる哉(かな)。
 人事に観れば、四剛が中に居て内の主となり、二柔が上下に在って外の客となる。主は剛、客は柔。主は自らを是とするので、客は何も言うことができない。初上二陰を棟として四陽を配列している。棟が衆木の重さに堪えられず家屋の棟(むなぎ)が撓(たわ)む象である。剛者が集合して気力盛んに大事業を企てたが、資本が続かず中途で躓(つまず)き大困難を招く。このことを「大過は大なる者過ぐる也。棟(むなぎ)橈(たわ)むとは、本末弱ければ也」と言うのである。
 「本末」は初爻と上爻のこと。「弱ければ也」とは陰柔微力なことを云う。大過の時に中り治め整えることは国家の大事であり、図ることは国家の大計である。だが上下二陰は才力弱く大任に中ることはできない。本末が弱いので始めも終りも全うできない。棟が撓む危急の時に「往く攸有るに利し。亨る」とあるのは、九二と九五が二陰の中に居り、三と四が卦の真ん中に居て、時中の道で強の弊害を抑えるからである。
 過ぎることを憂うることはない。君子は人より過ぎる力を用いて、危急を救うために、責任もって大事を行い大功を成し遂げる。下卦は巽順なので物に逆らうことなく、上卦は兌悦なので人情に悖らない。それゆえ「剛過ぎたれども中(ちゆう)し、巽にして説びて行く」と言うのである。
 憂え畏れる大過の時に処するべく、陽剛の力で中を得て、心を平らかにする。和悦で変化に対処し、声色を動かさず、坐して功を収めるので「往く攸有るに利し。乃ち亨る」と言う。「乃ち亨る」とは、後に始めて亨ること。往かなければ亨らないのである。
 大過の時でも治められないことはない。非常の時に才能が大き過ぎる者が大任に中る。天は必ず大過の人を見出して時に中らせる。大過の時は理に過ちがなければ、変じても常を失わず、窮しても正しさを失わない。それゆえ「大過の時、大なる哉」と言う。

□大象伝
象曰、澤滅木大過。君子以獨立不懼、世遯无悶。
○象に曰く、澤、木を滅するは、大過なり。君子以て獨(どく)立(りつ)して懼(おそ)れず、世を遯(のが)れて悶(うれ)ゆる无(な)し。
 大過は澤水が巽木の上に浸り木が枯れるので「澤、木を滅する」と言う。小人の澤水が君子の木を滅ぼそうとする時、正道が滅びようとしている。この時に中り悶(うれ)えない者は少ない。ただ君子のみ、大いに人に過ぎる行いを立てて、世間の険難や人情の薄情さを懼れない。時に違い道を行えなくても、世を遁(のが)れて悶(うれ)えることはないのである。
 君子は天から言(こと)依(よ)せされた天命だけを信じる。このことを「獨(どく)立(りつ)して懼(おそ)れず、世を遯(のが)れて悶(うれ)ゆる无(な)し」と言う。「獨立」とは、邪な者達が群れることを懼(おそ)れず、名利を求めず、名利を得ても栄達と思わないこと。「世を遯(のが)れる」とは徳のある人は位がなく、また位を失ったとしても恥じないこと。位に在って大事業を任されても、富貴に溺れず、権威に屈せず、濁(にご)った世の中に対処して、巽順兌悦で俗っぽい流行の水に潤(うるお)うことはない。淫(いん)靡(び)の風俗に誘惑されず、剛にして柔を兼ね備え、過ぎても程よく往くので、大過の時に対処できるのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。藉用白茅。无咎。
象曰、藉用白茅、柔在下也。
○初六。藉(し)くに白(はく)茅(ぼう)を用(もち)う。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、藉(し)くに白(はく)茅(ぼう)を用(もち)うとは、柔、下に在る也。
 「藉(し)く」は地面に敷くもの。「白(はく)茅(ぼう)」は潔白なものである。昔、祭(さい)祀(し)に白(はく)茅(ぼう)を敷き、酒を注いで神が降臨した。「茅」は巽の象。「白」も巽の象である。初の柔が下にあり剛を承けるのは、「茅」を敷いて物を受ける象である。
 初六は陰柔にして最下に居り、剛を受ける。賤しき処に安居して妄動せず、大過の時に中って、慎んで上に仕える。やや慎み過ぎるが、傲慢な人に比べれば勝る。人を軽んじて侮る者には当然咎があるが、人を敬することが過ぎる者に咎はない。
 大過に処するに誠と敬する心が大事である。細やかに己を戒め慎んで人を敬すること神明の如くすべきなので「藉(し)くに白(はく)茅(ぼう)を用う」と言う。白(はく)茅(ぼう)を用いることは、戒(かい)慎(しん)恐(きよう)懼(く)の至りである。事の始めに慎めば、天下の大功を立て、大利を興すことにつながる。

九二。枯楊生稊。老夫得其女妻。无不利。
象曰、老夫女妻、過以相與也。
○九二。枯(こ)楊(よう)稊(ひこばえ)を生ず。老夫、其の女(じよ)妻(さい)を得。利(よろ)しからざる无(な)し。
○象に曰く、老夫女(じよ)妻(さい)は、過ぎて以て相い與(くみ)する也。
 草木は陰(いん)潤(じゆん)が過ぎれば枯れ、陽(よう)燥(そう)が過ぎても枯れる。九二は陽剛で内卦の中を得ている。初六に比しているので陰の潤いに助けられ過不足を補うことができる。その結果、枯れた楊から新芽が生ずるので「枯(こ)楊(よう)稊(ひこばえ)を生じ」と言うのである。
 九二は陽剛の夫、初六は陰柔の妻、夫妻と見る。九二の年齢は初六の倍と見て老夫と少女と言う。老夫が少女を娶るのは適切な組み合わせではないが、妻の助けを得て精氣が盛んになり枯(こ)楊(よう)が稊(ひこばえ)を生ずるように子孫を生育する。夫が老いており妻が若ければ自然と妻は夫を敬うようになる。
 大過は君主が驕(おご)る時ゆえ、夫が妻に下るように君主が臣下に下れば、剛柔相(あい)補(おぎな)い盛が衰を助けるので、悪いことにはならない。それゆえ、「老夫その女(じよ)妻(さい)を得たり。利しからざる无し」と言う。
 象伝に「老夫女妻とは、過ぎて以て相い與(くみ)する也」とある。老夫と少女では年齢が離れ過ぎているが、陰陽相和して子孫を得て、家系を絶やさないので「以て與(くみ)する也」と言うのである。

九三。棟橈。凶。
象曰、棟橈之凶、不可以有輔也。
○九三。棟(むなぎ)橈(たわ)む。凶。
○象に曰く、棟(むなぎ)橈(たわ)むの凶は、以て輔(たすけ)有る可からざる也。
 九三を「棟(むなぎ)」と云うのは、大過の中位に居るからである。だから、九三・九四共に「棟(むなぎ)」と云う。九三で「橈(たわ)む」と、九四で「隆(たか)し」と云うのも、卦の中位に居るからである。
 九三は過剛で不中。才能も志も強いが、精力には限界があるので民衆を統制することはできない。自分の力を過信し政策を乱発し精力がもたない。身を滅ぼして家を失う。「棟(むなぎ)」が重さに「橈(たわ)み」、折れてしまう。剛に過ぎて人事を治められない。誰も九三を輔(たす)けようとしない。上六と陰陽相応ずるが、上六は才力が弱くて九三を輔(たす)けられないのである。
 上六は両端の上に居て棟(むなぎ)を圧迫している。正応の九三に輔けられて利を分かち合おうとするが、上六は九三を輔けることはできない。以上のことから「棟(むなぎ)橈(たわ)む。凶」と言うのである。
 象伝にこれを解釈して「以て輔(たすけ)有る可からざる也」と言う。
 九三変ずれば澤水困となる。困の六三に「六三。石に困しみ、蒺(しつ)藜(れい)に據(よ)る。其の宮に入り、其の妻を見ず。凶/六三は柔弱にして位正しくなく過ぎたる不中と欠点だらけの小人。応ずべき相手上六とも応じない。困窮・困難の時において、上に進もうとすれば、九四と九五の君子に阻まれ、下に進もうとすれば九二の君子に阻まれる。そもそも六三は初六と共に九二を揜って困らせようとしているのであるから、刺のある蔓草(九二)の上に居るようなもので甚だ落ち着かない。進むことも退くこともできないので、自分の家に帰って安んじようとするが、妻は家を出て行ってしまい誰からも相手にされない。八方塞がりでどうにもならない」とある。参考にすべきである。

九四。棟隆。吉。有它吝。
象曰、棟隆之吉、不橈乎下也。
○九四。棟(むねぎ)隆(たか)し。吉。它(た)有れば吝(りん)。
○象に曰く、棟隆きの吉なるは、下に橈まざる也。
 九三には「棟(むなぎ)橈(たわ)む」、九四には「棟(むなぎ)隆(たか)し」と云う。全く反対の意味である。九四は陽爻陰位で剛に過ぎることなく、初六の陰柔に応じて剛柔調和している。「隆(たか)し」とは地形が豊かで中央が高いことである。
 九四が橈(たわ)む棟(むなぎ)を隆(りゆう)起(き)させることができるのは初六が下から支えてくれるから。上六が九三を上から圧迫したのとは正反対である。
 人事に観れば、民衆は望みを得て、君主には忠臣、父には孝子が、その非を諫(いさ)めてくれる。国家の基礎は堅固で、傾き覆(くつがえ)る憂いはない。吉であることは知れたことなので、「棟(むなぎ)隆(たか)し。吉」と言うのである。
 九四が志を外れて、初六の輔けを無用のものとして、私利私欲に走れば、必ず汚(お)辱(じよく)を得るから、「它(た)あれば吝(りん)」と戒めている。

九五。枯楊生華。老婦得其士夫。无咎无譽。
象曰、枯楊生華、何可久也。老婦士夫、亦可醜也。
○九五。枯(こ)楊(よう)華(はな)を生ず。老婦其の士(し)夫(ふ)を得(う)。咎(とが)もなく譽(ほまれ)も无(な)し。
○象に曰く、枯(こ)楊(よう)華(はな)を生ずるは、何ぞ久しかる可(べ)けん也。老婦士(し)夫(ふ)は、亦(また)醜(はじ)とす可(べ)き也。
 九五は上六と陰陽相比し陰潤の助けを得て花を生ず。それゆえ「枯(こ)楊(よう)華(はな)を生ず」と言う。華を生ずるのは、生氣が尽きようとする兆しである。九二は初六の助けを得て稊(ひこばえ)を生じたが、九五は下に助けがなく、上六に比するしかない。根がない楊(枯(こ)楊(よう))が雨露の潤いを得て、一(いつ)旦(たん)華(はな)を発(ひら)く。しかし、根がないので、すぐに凋(しぼ)んで華が落ちてしまうのである。
 老婦は上六を指している。陰が極まって衰える喩えである。士夫は九五のこと。士は未だ妻を娶らない者を称するので少年である。九五が上六の内助の功を得られないことの喩え。陰爻が上に居るので老婦と呼び、陽爻がその下に居るので士夫と呼ぶ。
 九五は剛爻が剛の位に在り、上六と陰陽相比し、過極の陽が過極の陰に親しむ。九二の老夫が女妻を得たのは正当ではないが、子供が生まれ枯れた楊に新芽が生じた。しかし、九五と上六には子供が生まれる可能性がない。楽しみは一時的で永続しないが、失うこともなく、得ることもないので「老婦其の士夫を得。咎もなく譽も无し」と言うのである。
 夫婦の序列からすれば士夫が老婦を得ると云うべきだが、老婦が士夫を得ると云うのは、老婦が士夫を求めるからである。醜態は老婦にある。九五は君位に居るのに九四の賢相に比せず上六の老陰に比する。君主が賢臣を捨て小人を愛するのは、自動車がタイヤを捨て、船が舵(かじ)を捨てるようなものである。
 だから象伝に「老婦士夫、亦醜とす可き也」と言う。九五は尊位に居るが、下に助けなく下を救う徳も力もないから、功を成すことができないのである。

上六。過渉滅頂。凶无咎。
象曰、過渉之凶、不可咎也。
○上六。過ぎて渉(わた)りて頂(いただき)を滅す。凶。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、過ぎて渉るの凶は、咎む可からざる也。
 「過ぎて渉(わた)りて頂(いただき)を滅す」。危険を犯して河を渉り彼岸に達することができず、水が首の上に溢れて頂を没する。上六は大過の極に居て重険不中。多難の時に中り、君主が憂いて臣下は屈辱にまみれ、天下の事を成せずに死ぬ。険難甚だしく、衆人の渉れない河だが、上六には大きな志があるので勇敢に河を渉る。だが、頂を没するので、「過ぎて渉りて頂を滅す」と言う。
 国難を救おうとして勇んだのである。頂を滅したのは才能がなかったからである。自分にとっては凶だが、勇気を持って河を渉り頂を滅したので道義において咎はない。それゆえ「凶。咎无し」と言うのである。
 事態は凶。上六が窮するを悲しむ。道理は咎无し。上六は誠を尽くしたのである。上六は才能不足で困難を救うことはできないが、その志と大義を咎めるべきではない。孔子曰く、義を見て為さざるは、勇無き也。又曰く、志士仁人生を求めて以て仁を害すること無く、身を殺して以て仁を成すこと有り。共に上六に当て嵌まる。それゆえ象伝に「咎む可からざる也」と言う。是非を論じて、利害を論じないのである。

 

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