呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 298 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

26.山天大畜

□卦辞(彖辞)
大畜、利貞。不家食吉。利渉大川。
○大畜は貞(ただ)しきに利(よろ)し。家(か)食(しよく)せず。吉。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し。
 大畜は、乾が下、艮が上。艮は山、乾は天。天が山中に在る象。上卦艮が下卦乾を止める。地中の火力が盛んだから平地が突起して山を成すが、火力はすでに尽きて、噴火することもできずに止まる。乾天が剛健でも山に止められている。小さな山が大きな天を止めて貯(畜)える。それゆえこの卦を大畜と名付けた。
 大畜の時は小が大を止め貯え養う。大畜は貯(畜)えることが大きく、色々な物が集まる。養うという意味もある。
 畜に三義がある。一つは有道に就いて徳を畜(たくわ)える。蘊(うん)蓄(ちく)と云う意味。一つは徳を崇(たつと)んで権臣を畜(やしな)う。畜(ちく)養(よう)と云う意味。一つは篤実を以て剛健に過ぎることを畜(とど)める。止(し)畜(ちく)と云う意味。
 乾を剛健、日、輝光、進む、徳、行として、艮を篤実、山、止、君子、言、識、徳行とする。艮と乾が相合するのである。

□彖伝
彖曰、大畜、剛健篤實輝光、日新其徳。剛上而尚賢、健止能。大正也。不家食吉、賢養也。利渉大川、應乎天也。
○彖に曰く、大畜は剛健篤(とく)實(じつ)にして、輝(き)光(こう)日々に新たなり。其の徳、剛上(のぼ)りて賢を尚(たつと)び、能(よ)く健を止(とど)む〔能(よ)く健にして止(とど)まる〕。大いに正しき也。家(か)食(しよく)せず、吉とは、賢を養う也。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)しとは、天に應(おう)ずる也(なり)。
 この卦を人事で観れば、剛健な者が勢いに乗じて事を進めようとするのを、篤実な者が制止する時。他人の非を制止しようと欲する者はまず自分を正さなければならない。自分が不正なのに他人の非を止めようと欲すれば、道理に悖(もと)り人情に逆らうので正義を行うことはできない。だから「貞(ただ)しきに利(よろ)し」と言う。
 卦の主旨は他人が進み動こうとするのを制止することにある。進むことと止めることは相反するので「貞(ただ)しきに利(よろ)し」を第一義とする。君子は剛健の徳を有しながら外面に現さない。徳の光を和らげて小人を親愛してから後に畜(とど)め制止すれば、小人は制止されることを怨まず、素直に受け容れる。
 家を斉(ととの)えることも同じである。一家の主が剛威を止めて外面は和順に家人を撫愛してから後に畜(とど)め制止すれば、女子供は素直に制止を受け容れる。これが大畜の象であり意義である。
 一人の人間に当て嵌めれば、乾の徳は剛健で私欲なく、艮の徳は篤実で軽挙しない。天徳を自分の身に止めて善を伸ばそうと欲し、毎日自分を省みて徳を磨く。人が天徳を畜えようと欲するときは篤実でなければならない。乾が剛健に過ぎないように、艮止の篤実さで畜(とど)めることにより、光り輝くのである。
 艮の光明が乾の剛健に応じて、制止することをもって健を補佐するので、健は制止することを受け容れ、乾と艮が相磨き合って、その徳を日々新たにするのである。
 剛健に行う正義と篤実の節度を守る。徳を畜え内を修めて外に行う。学問と道徳が内に充実して自然に光り輝く。それゆえ彖伝に「大畜は剛健篤實にして、輝光日々に新たなり」と言う。
 篤実は学びの始めを成し終りを成す。艮は万物の始めと終わりを成す。篤実な人は上位に在って、天の禄を受け、その徳を天下に施す。大畜の時は艮の一陽が六五の君の上に在り徳を貴び士を尊ぶ。天下の英傑を制御して私心がない。
 賢者が世に出るのは時が賢者を必要とするからである。賢者を養い士を育てる君主が在れば、賢者と士は時に中り剛健に行い止まることを知る。家食せずに朝廷に仕えその徳を伸ばして道を行い天下の艱難を救済する。このようであれば、自分自身の吉のみならず天下の吉となる。これが「家食せず、吉」の意義である。
 吉とは出でて仕えることの吉である。六五の君主は上九の顧問官と陰陽比してよくその教えに従い広く道を施して天下の不義を制止する。正しく大きな業績なので「其の徳、剛上りて賢を尚び、能く健を止む〔能く健にして止まる〕。大いに正しき也」と言う。
 乾が下卦の場合は、上卦は常に乾を忌む心があり、乾には常に服さない意志がある。乾を忌む者は人に信服されない。この卦の上卦艮は乾が進むことを忌むことなく、乾は艮が畜(とど)めることを忌まない。だから「大いに正しき也」と言うのである。
 君主が賢者を畜(やしな)い賢者は家食せずに朝廷に仕えて君主の禄(ろく)を食(は)み、自分独りの身を善くするだけでなく天下を善くする。天道の公に順い、天に奉じて事を為す。恰(あたか)も大川を渉るが如くである。乾を大川として艮を橋梁とする。橋を渡って対岸に達する象である。民を治めて功業を成し遂げるのである。
 だから彖伝に「家食せず、吉とは、賢を養う也。大川を渉るに利しとは、天に應ずる也」と言うのである。
 「天に應ずる也」とは、六五の君主は陰柔だから自分の才能で事を成すことができない。そこで、剛陽と相応じて然る後に成し遂げられると云うことである。

□大象伝
象曰、天在山中大畜。君子以多識前言往行、以畜其徳。
○象に曰く、天、山の中に在るは大畜なり。君子以て多く前(ぜん)言(げん)往(おう)行(こう)を識(しる)して、以て其の徳を畜(たくわ)う。
 大畜は乾天が艮山の中に在る。山の中に天地を蘊(うん)蓄(ちく)している。君子が心の中に天地人三才の道義と古今の事理を蘊蓄し、古の言行を鑑みてその徳を新たにする。「前言」とは古の教訓にある言葉で徳の華である。「往行」とは古の功業であり徳の実である。
 聖賢の嘉き言葉や善き行いは皆徳が凝縮している。君子が道を学ぶときは、多くの「前言往行」を聞き知ってその功用を考えて体得し、その言葉と行為の所以を黙識して、自分の徳を畜(たくわ)え成す。他に自分の徳を磨く方法はない。学問も教育もその言行に現れる。それゆえ「前言往行を識して、以て其の徳を畜う」と言う。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。有厲。利已。
象曰、有厲、利已、不犯災也。
○初九。厲(あやう)き有り。已(や)むに利し。
○象に曰く、厲き有り、已むに利しとは、災を犯さざる也。
 初九は乾の一部ゆえ剛健にして下に在る。才能道徳も志も強いので必ず進み行こうとする。しかし初は陽が微力ゆえ、進んで行けば危険に遭遇して災いを招き寄せる。しかも艮の主爻に遠く、応爻は執政の大臣である。この大臣は他の卦の応爻と同じではなく、自分を畜止しようとする。大畜は健を止めることを大義とするので応ずる者は敵である。
 六四は六五と志を同じくして天下を冒(おか)し進む者を制止する。このような時運なので、初九が冒進すれば、下が上を凌ぎ、庶民が執政を犯す者となり忽(たちま)ち災難に陥ることになる。甚だ危ない道なので、冒進を止めるべきである。冒進することの危なさを知って進み行くことを止めれば災いには遭遇しないのである。以上を「厲(あやう)き有り。已(や)むに利し」と言う。
 初九は陽剛の才能を有しているが、上の者に畜止されるので、己の分に安んずる。剛健の才能はよく事を成すがよく事を誤る。自戒して災いに遭遇しないのは六四のお陰なので、六四に感謝しなければならない。

九二。輿説輹。
象曰、輿説輹、中无尤也。
○九二。輿(くるま)、輹(とこしばり)を説く。
○象に曰く、輿(くるま)、輹(とこしばり)を説くとは、中にして尤(とが)无(な)き也。
 「輿(くるま)」は車。進行することの例えである。「輹(とこしばり)」とは車軸を縛るもの。天が回旋するように大きな車の象である。「輿(くるま)、輹(とこしばり)を説く」とは、車から輹(とこしばり)が外れれば車に乗って走ることができない。すなわち、進行することを止めることである。
 この爻変ずれば離となる。離は分離する意味で、「輹(とこしばり)」を説明する象である。大畜の時ゆえ、六五の君主は下にいる民が冒進することを制止し、一歩も進めないようにする。九二は六五と正応だから、六五を懼れる。自分は剛健にして下卦乾の真ん中に居り、初九と同じく進んで行けば止められる。
 剛中の徳で進むことは不可であることを知り、自ら止まって進まない。車の輹を脱して車体と車輪とを分解して前に進めないようにする。だから「輿(くるま)、輹(とこしばり)を説く」と言うのである。自分から輹(とこしばり)を脱して行かない。幾(き)を知り時を識る者である。
 九二は大畜の時に中り、六五の君主と六四の大臣とが志を合わせて臣下を制止するのを見て、六四の意志で制止していると誤解する。三陽連合して進もうとするのは下卦乾の剛健な性質による。九二は臣下の冒進を制止するのは六四の専断ではなく、六五の天意から出たことを知る。九二は冒進して秩序を乱すことが非であることを悟り、自ら進行を止める。九二が陽爻陰位で中の徳を具えているから自ら進行を止めることができるのである。
 象伝に「中にして尤(とが)无(な)き也」とある。人は剛健であるべきだが、剛健に過ぎて中を過ぎると必ず物を損なう。九二は慎んで命令を守り輹(とこしばり)を脱して君主に背かない。剛にして中を得ているからである。その剛中の徳を貴んで「中にして尤(とが)无(な)き也」と言う。九二は剛中の才能道徳があり臣下の位に居る。国家の掟を奉ずる忠臣である。君主の厳命を慎んで守り走り進む車の車輪を取り外して君主に逆らわない。それゆえ「中にして尤(とが)无(な)き也」と言う。
 六五の虚中の君主は剛中の賢人を用いるためこれを畜(とど)める。退けるのではない。畜(とど)めて九二を忠臣とすることを欲するのである。

九三。良馬逐。利艱貞。曰〔日々〕閑輿衞。利有攸往。
象曰、利有攸往、上合志也。
○九三。良馬逐(お)う。艱(かん)貞(てい)に利し。曰(ここ)に〔日々に〕輿(しや)衞(えい)を閑(なら)う。往(ゆ)く攸(ところ)有るに利し。
○象に曰く、往く攸有るに利しとは、上(かみ)、志を合わする也。
 「良馬」は壮健で鋭く進む者に例える。「閑」は習うこと。「衞」は防ぐこと、護ることである。「輿(しや)衞(えい)を閑(なら)う」とは、車の操縦と防衛の術を練習することである。九三は下卦乾の上位に居る。剛に過ぎて上に応爻はない。先導して鋭く進み力を尽くして勤務する。屈しないこと良馬を疾駆するようである。苦労は覚悟の上なので「艱(かん)貞(てい)に利し」と言う。
 「日々に輿(しや)衞(えい)を閑(なら)う」とは、士たる者は各々学ぶことで国家の楯(たて)となるから、日々兵事を訓練することである。応爻の上九は上卦艮止の主である。艮の山が大いに止めれば良馬の勢いとはいえ容易に進むことができない。けれども九三は剛健正位だから遂に進むことを得る。大畜の卦は畜めることを大義とするが、陽剛にして進むものは艱難に中らせ、辛苦を経験させて人情に通じた後で志を合わせる。畜が極まって通ずる時である。
 進むことは速やかで良馬に乗って疾駆するようである。だから象伝に「上、志を合わする也」と言って、上九と共に進行するのは、お互いの情意が相合うことだと説明している。
 乾は剛健とはいえ、よく対処し、正しさを固く守って、然る後に「往(ゆ)く攸(ところ)有るに利し」なのである。九三を止める者がないので随意に進行するのである。よく乗る者は堕ち、よく泳ぐ者は溺れる。得意の事に中っては戒慎すべきことを常に心がける。大畜の時だからなおさらである。それゆえ「艱(かん)貞(てい)に利し」と言う。
 車が進み行く際、妄動することなく程度を守って徐行すれば、尤(とが)を免れる。「良馬」は鋭く進むこと、「輿(くるま)」は徐行の象である。「良馬」と「輿」の組み合わせで鋭く進むことと徐行することの関係を表現しているのである。

六四。童牛之牿。元吉。
象曰、六四元吉、有喜也。
○六四。童(どう)牛(ぎゆう)の牿(こく)なり。元吉。
○象に曰く、六四元吉とは、喜び有る也。
 「童牛」とは未だ角(つの)が生えていない子牛。「牿(こく)」とは僅かに生えた角に横木を結び付けて角が人を害するのを防ぐ。六四は陰柔で大臣の位を得て、初九に応じている。大畜の時に中り臣民の妄動を制止するのである。
 初九の童牛が妄進して君主に背こうとする。初九に応じている六四は横木を用いて初九の角が人を害するのを防ぐので「童牛の牿(こく)なり」と言う。臣民が剛猛になって悪を為し罪を犯すのは無知な童牛が角で人を害することである。執政の大臣がこれを制止するのは牛に横木を用いるのと同じである。臣民が悪を為すことを防ぐのである。これは大吉の所以となるので「元吉」と言う。
 物事が微弱な段階で対処すれば容易に制止できる。盛んになってからでは容易に制止できない。天下の事も未然に防止すべきで、事が起こってからでは容易に制止できない。初九の陽気は微弱ゆえ畜止するのにさほど苦労しない。「元吉」とは臣民の風俗が善くなることを云うのである。
 象伝の「喜び有る也」とは、臣民が私欲を恣(ほしいまま)にすることを制止すれば不平を唱える者が少なくないが、厳命で臨めば臣民は従い漸次に善に親しむようになる。悪から遠ざかり、風俗は篤実で素直になる。これより優れた治国の功績はなく喜びは大きいと云うことである。

六五。豶豕之牙。吉。
象曰、六五之吉、有慶也。
○六五。豶(ふん)豕(し)の牙なり。吉。
○象に曰く、六五の吉は、慶(よろこび)有る也。
 「豶(ふん)豕(し)の牙」とは、去勢したので牙を用いる勇気がない豚のことである。六五は柔が尊位に居る。大畜の時に中って力で制止することなく天下の不善を畜止する。六五の畜止により、下卦三陽は豶(ふん)豕(し)の牙のように剛健の勢いを恣(ほしいまま)にできない。だから「豶(ふん)豕(し)の牙」と言い、六五の君主が冒進する臣民を制止して罪悪に至ることを防ぐので「吉」と言う。
 本を制することなく末を追えば、厳しい法律や刑罰を用いても天下の不善を制止することはできない。本を制御すれば、厳しい法律や刑罰を用いなくてもよく治めることができる。六五はよく本を制御することができる。
 君子は豶(ふん)豕(し)の牙の功用(牙のある豚を去勢して冒進を制止する)を用いるべきである。天下の悪は力で制することはできない。悪の兆しを察してその本を塞(ふさ)ぎ絶つ。臣民が私利私欲で動くのは、聖人の教えを知らないからである。
 それゆえ自分が飢えれば殺人すらしかねない。聖人はこれを制止するために、厳しい法律や刑罰を用いることなく、教え導き修養させ廉恥の心を知らしめて、論語に所謂(いわゆる)「之を賞すると雖(いえど)も竊(ぬす)まず」という風俗に至らしめるのである。
 六五は尊位に居て九二を教え導く。九二は車輪を外して徳を修め牙を用いない。九二が徳を修め牙を用いない慶びは天下の慶びである。それゆえ象伝に「慶(よろこび)有る也」と言うのである。

上九。何天之衢。亨。
象曰、何天之衢、道大行也。
○上九。天の衢(ちまた)を何(にな)う。亨(とお)る。
○象に曰く、天の衢(ちまた)を何(にな)うとは、道大いに行われる也。
 「衢(ちまた)」は分かれ道。「天の衢(ちまた)」とは天の道のように闊(かつ)達(たつ)で障害のないこと。「何(にな)う」とは驚(きよう)喜(き)している言葉。大畜は一陽が上に止まって三陽を中に蔵畜する。上九は鋭く盛んで事物に老練し、時勢を熟知している。昔は臣下を止める者だったが、畜止することは已に終り、家食しない賢人の道が大いに行われる。
 君主は賢人を貴び、塞がっていたものは開ける。人の才能は日々進化し、教化されないものはない。徳の教えが広がり天下の人々は正義に従う。何処に行っても何をやっても成し遂げられないことはない。飛ぶ鳥が大空を飛翔して縦横自在である。それゆえ「何ぞ天の衢(ちまた)なる」と言うのである。
 昔止められたのは用いられる時ではなかったからである。だから、角に横木を付けて才能道徳を修養したのである。大器晩成し厚く積み上げれば発することが迅速になる。上九に至れば大畜の徳が養われて道を行う時となる。大畜は止まるに終わらない。極まり通じて地天泰(上九が変ずれば地天泰)となるのである。

 

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