呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 297 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

25.天雷无妄

□卦辞(彖辞)
无妄、元亨利貞。其匪正正有眚。不利有攸往。
○无(む)妄(ぼう)は、元(おおい)に亨(とお)る。貞しきに利し。其れ正しきに匪(あら)ざれば、眚(わざわい)有り。往く攸(ところ)有るに利(よろ)しからず。
 无妄の卦は、震を下、乾を上にする。乾は天、震は雷。雷が天の下に在る象である。乾(天)と震(雷)は共に形而上の存在で動くものである。両方の動きが相合して天道運行し万物が生成するのである。自然の妙用が古より今日まで違うことなく続いている。无妄と云う卦名の由来である。
 上卦乾は父、下卦震は長男。父は長男の為に心を労し、長男は父の為す所に従って動く。共に妄動することはない。无妄の意義である。无妄とは自然に発する誠実。誠と名付けずに无妄と言うのは、无妄は本来誠だから敢えて誠と名付けることはないのである。无妄から離れた真実を求めれば、それは妄である。人として、本然の性質であり固有の善により心を明らかにすることを覚れば、学ばなくても誠である。だから无妄とは无心・无意・无望という意義があり、自然に任せることと解釈することもできる。
 妄とは偽り・不正・不実であり、釈尊の言う妄想・妄見・妄念・妄執のことである。であるから、无妄の者は不正・不実を絶ち離れて少しも虚妄はなく、天性自然にして理屈の及ばない境地にある。秩序を守らず礼法に従わないことが自由だと称する者は无妄に似て非なる者である。无は無。無は有の反対であり有らざることである。无は天と云う字に従っている。妄は亡に従い女に従う。亡は不実不正虚である。女は陰暗疑迷の意を象っている。
 すなわち妄なる者は陰暗疑迷が深く不実不正虚の総称である。妄无きものは天性自然真実至誠正実で動くも止まるも天に従うものである。无妄の卦は天性の卦である。天性の性は正である。正の字は一に従い止に従う。一は天であり公である。天公の道に止まり妄りに為すこと无きを正とする。
 あらゆる理(ことわり)は天に基づき天命に由る。増減することなく自然に至るものは皆天命である。善が幸いを招き、淫が禍を招くのは自然なこと。だから无妄は希望する所なく、期する所がない。君子は天を畏れ性を尽くす。常に畏れ震えることを知るのである。
 事業を修めるに志と行動が无妄ならば何事も成し遂げることができる。これが「元に亨る」所以である。一点でも天に背くときは、妄となり私欲が出て不正となる。天に従うべき无妄の時に背くことになる。これを戒めて「貞しきに利し」と言う。
 この卦は天性を体、公正を用とする。志と行動が正しければ安んじ、正しくなければ危うい。正しくないのは天命に逆らうことだから必ず人災を招く。これを「其れ正しきに匪ざれば、眚(わざわい)有り。往く攸有るに利しからず」と言うのである。「眚(わざわい)有り」は人に傷害されることであり、「往く攸有るに利しからず」は人に阻害され抑えられることである。
 卦象で言えば、初九・六二・九五は正である。だから初九に「往けば吉」と言い、六二に「往く攸有るに利し」と言い、九五に「喜び有り」と言うのである。六三・上九は不正である。だから「災」、「眚」と言う。九四も不正だから「固より之を有する也」と戒めるのである。

□彖伝
彖曰、无妄、剛自外來而爲主於内。動而健、剛中而應、大亨以正。天之命也。其匪正有眚、不利有攸往、无妄之往、何之矣。天命不祐、行矣哉。
○彖に曰く、无妄は剛、外より來りて内に主と爲り。動きて健、剛中にして應じ、大いに亨りて以て正し。天の命也。其れ正しきに匪ざれば眚有り、往く攸有るに利しからずとは、无妄の往くは何(いずく)に之(ゆ)かん。天命祐(たす)けず、行かん哉(や)。
 无妄の卦は天地否から来ている。否の時に初九の一陽が卦外から来て正徳を得て成卦主と為る。上卦乾は太陽の光熱で地上の精を変化させ、万物を造化する元である。下卦雷は地から出る生気であり万物を鼓舞して造化の用を助ける。今雷が地から出で来て天に付き万物を鼓動する。これを「无妄は剛、外より來りて内に主と爲り」と言うのである。
 天には空虚がある。地に近い所を「空」と、地に遠い所を「虚」と言う。「空」に雷は作用するが、「虚」には雷は進めない。だから妄りに進むべきでないことを示すために、天雷の卦を无妄と云うのである。雷は動く性質を有するが虚まで至らず空を動く。乾は空の上の虚に有り息まなない健やかさがあり物に屈しない。これを「動きて健」と言うのである。
 人に例えれば乾は父、震は長男である。長男が祭主となって家系を承け継ぐ象である。乾の老父が大地から養子を得てその家を継がせる。人心に例えれば、道心が主となって人心が命を聴く時である。皆「剛、外より來りて内に主と爲り」の象である。
 長男が下に在り父に従う時だから、自分の行為を恣(ほしいまま)にすることはできない。これが人倫の无妄である。父子が志を合わせて、乾剛が九五に居て、下六二の柔中に応じている。天命の合致する所であり、人力を致す所ではない。
 六二は力を労せずして九五の財産を受ける。だから六二の爻辞に「耕(こう)獲(かく)せず。菑(し)畬(よ)せざれば、往く攸有るに利し/一生懸命に農作業に励むが、多くの収穫を望まず、結果は自然の摂理に任せる(耕獲せず)。要領よく短期間で土壌を肥やして、多くの収穫を得ようなどと邪な心を抱かない(菑畬せざれば)。このような心がけであればこそ、天の計らいにより、短期間で多くの収穫を得られる(往く攸有るに利し)」と言う。以上のことを、彖伝では、「剛中にして應じ」と言うのである。
 動くに天をもってし、誠実無我で勤め行えば、天の計らいを得て、无妄の天命に則ることができる。大いに志を得ることを「大いに亨りて以て正し。天の命也」と言うのである。「大いに亨りて以て正し」は无妄の卦徳の真(しん)面(めん)目(もく)、天性自然至公至実の象である。物については「性」と言い、天については「命」と言う。それゆえ「性命」と言うのである。
 人は神明ではなく、肉体を有するがゆえに、外物に誘惑されて无妄の実を失うに至り、名利の念を絶つことができない。无妄の時を犯して私欲を差し挟み、進んで事を為そうとする。天命に違い、必ず不慮の災いを被る。これを「其れ正しきに匪(あら)ざれば、眚(わざわい)有り。往く攸(ところ)有るに利しからず」と言うのである。
 貴賎貧富も強弱盛衰も天命である。けれども妄念が起こってその分を守ることができないのは卦象に背き天命を犯すことだから、天は助けてくれない。何処に往くにも何も宜しいところがあるはずがない。无妄の時は進んで事を取らない。全てを自然に任せ、ただ謹慎することに務めるのである。気運が循環して去ることを待ち、神に祈り無事を保つことが大功である。
 これを「无妄の往くは何に之かん。天命祐けず、行かん哉」と言う。「行かん哉」と云う言葉は、強く警戒しているのである。

□大象伝
象曰、天下雷行、物與无妄。先王以茂對時育萬物。
○象に曰く、天の下に雷行き、物與(みな)无妄なり。先王以て茂(つと)めて時に對して、萬物を育す。
 この卦の内卦は雷、外卦は天。天に心なく雷は動く。天の下、万物霊を含む、動かないものは何もなく、天に属しないものは何もない。无妄は誠である。誠は天の道である。道の本原(もと)は天から出ている。天の道は自然である。雷が天下に行き、物が天下に動くのも、自然から発生するものである。
 今天の下に雷が行き塞がり滞っていた気を散じて万物が鼓動する。万物は共に動いて草木は萌し、翼ある者は飛び、足がある者は走り、山林に生ずる者は山林で動き、川や沢に生ずる者は川や沢で動き、あらゆる物が生気を受けて勃(ぼつ)然(ぜん)として発育しないものはなく、万物各々その性命を正しくして違うことがない。これを「天の下に雷行き、物與(みな)无妄なり」と言う。
 物は无妄の天理によって発育する。昔の王様は无妄の天を以てする卦象を観て、王様としての徳を盛んにして万物を養育した。動く者、植える者、各々その性質に応じて天地の化育を助けた。徳政を行って、恵みを施し、人民を奮い起こして各々その業に就かせた。これを「茂めて時に對して、萬物を育す」と言う。
 「時に對して」とは時に中ることである。昔の王様は少しも時宜に違うことがなかったのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。无妄。往吉。
象曰、无妄之往、得志也。
○初九。无妄なり。往きて吉。
○象に曰く、无妄の往くは、志を得る也。
 「无妄なり」とは公正で私心なく動いて妄ではないこと。希望するところがあってはならない。徳ある人が思いがけない喜びに遇うのは、所謂「易に居て命を俟(ま)つ」であり、君子が幸いを得る所以である。徳があって志を得るのは无妄だが、徳がなくて志を得ようとすれば妄である。无妄は天理だが、妄は人欲である。
 初九は陽剛の正徳があって内卦の主。内卦震に陽が始めて生じて、至誠を保っている。一陽が外から来て主となったが、挙動を慎み動きたいけれども未だ動かずに天命を待っている。
 動けば必ず天に応ずる。このようであるから、一念の誠がないことがなく、外に現れるのは誠だけである。至善の天性を養い勉めることなく道に中り、思うことなく自得する。誠実にして无妄の道を全うする。何処に往き、何事を為しても、吉でないことはない。だから「无妄なり。往きて吉」と言うのである。
 日常の事について説けば、誠を以て身を修めれば身が正しくなり、誠を以て事を治めれば理を得る。誠を以て人に臨めば人を感化するのである。論語の「言忠信、行徳敬なれば蠻(ばん)貊(ぱく)の邦と雖(いえど)も行われん」とはこのことである。
 初九は震の長男であり上卦乾の父に奉仕して命に従うと云う務めを執る。だから父の歓心を得て、その志を得るべく下に在るので位を得ていないが、正道を行おうとする素直な志を達する。だから象伝に「无妄の往くは、志を得る也」と言うのである。

六二。不耕獲。不菑畬。則利有攸往。
象曰、不耕獲、未富也。
○六二。耕(こう)獲(かく)せず。菑(し)畬(よ)せず。則ち往く攸有るに利し。
○象に曰く、耕(こう)獲(かく)せずとは、未だ富まざる也。
 「耕(こう)獲(かく)」の「耕」は田畑を耕すこと。「獲」は稲や穀物を収穫すること。「菑(し)畬(よ)」の「菑(し)」は土地を開墾して草を刈ること。「畬(よ)」は開墾して二三年経過し沢山の収穫が得られる田畑。「耕(こう)獲(かく)せず。菑(し)畬(よ)せず」とは、耕さなくても収穫があり、草を刈らなくても沢山の収穫が得られると云うことである。
 无妄の幸いは無心であることが福を得ると云う例えである。「せず」とは無心なこと。利益を謀る心がないから利益を得る。功を計らずして功を得る。天道は无妄、万物の性命も无妄である。
 无妄の福があれば、无妄の災いもある。動植物が無情に叩き折られるのは无妄の災いである。人の道も望んだ通りに成ることもあれば、成らないこともある。望んでも得失があって、禍福も思い通りにはならない。どんなに望んでも天の助けや吉や利益を得られるとは限らないと、聖人は教えているのである。
 六二は陰柔中正の徳があり自適している。中正の陽剛九五に正応して勤勉に仕事をやり終える。公正で偽りや妄らな心がない。全てを天性の自然に任せ、務めるべきことを素直に務め、為すべきことを素直に為し、結果の成敗得失を考える心はない。過去に対しても現在に対しても将来に対しても願い望むことはない。このようであるから耕さずして収穫することができる。
 草を刈ることなくして沢山の収穫が得られる。為すところも為さざるところも願い望むことなく、田畑を耕し収穫を得ようと考えたり、土地を開墾して沢山の収穫が得られる田畑にしようと考えない。天性自然の无妄の徳義に合致している。
 天爵(その人に備わった徳の高さ)を修めて、人爵(人が定めた爵位、官位)を求めるのは、田畑を耕して収穫を得ようとすることである。利や不利に囚われず為すことも為さざることも望まないことを「耕(こう)獲(かく)せず。菑(し)畬(よ)せず。則ち往く攸(ところ)有るに利し」と言うのである。則ちの一字を深く玩(がん)味(み)すべきである。
 至誠は物事を動かす機がある。大公(君主)は順応する妙用がある。人を感動させようとしなくとも、感動せずにはいられない。功を得ようと期さなくても、功を得られないことはない。
 臣下や子が君主や父に事えるのは臣下や子の道を尽くすのであり、利益を期待して事えるのではない。道を以て事えれば悟らない君主はなく、道を以て事えれば悦ばない父はない。「往く攸(ところ)有るに利し」の意義である。
 象伝に「未だ富まざる也」とある。功を得るために他人を用いず、自分から施しを為そうとしないのだから、その収穫は僅かであり、未だ富有を得るような幸があるのではない。しかし、未だの一字を使って、終には富むことを示している。
 天命を知る者は妄ではない。身を修めて徳を磨き時を待ち天を楽しみ、人の務めるべき事を務め、成敗得失を懸念することなく富貴を求めない。富有を得る心がなことを寓したのである。
 六二の爻辞が農業や田畑のことを説くのは、初爻から五爻(三四五爻と下卦)にかけて風雷益の象があるからである。
 繋(けい)辞(じ)伝に「包(ほう)犧(ぎ)氏没して、神農氏作(おこ)る。木を斲(き)りて耜(し)と為し、木を揉(た)めて耒(らい)と為し、耒(らい)耨(どう)の利、以て天下に教うるは、蓋しこれを益に取る/包(ほう)犧(ぎ)氏が没して、次に神農氏が王位についた。神農氏が木を削って耜(すき)をつくり、木を撓(たわ)めて耒(らい)(耜(し)の柄(え))とし、これを使って耕作することの便利さを天下の人々に教えたのは、おそらく益の卦(上の二陽が柄のとって、三陰が柄の身、下の一陽が耜(し)の尖端を象徴する)から思いついたことであろう」とある。

六三。无妄之災。或繋之牛。行人之得、邑人之災。
象曰、行人得牛、邑人災也。
○六三。无妄の災なり。或いは之が牛を繋(つな)ぐ。行(こう)人(じん)の得(う)るは、邑(ゆう)人(じん)の災なり。
○象に曰く、行(こう)人(じん)の牛を得(う)るは、邑(ゆう)人(じん)の災也。
 「无妄の災」とは、自分が原因ではないのに、天災のような災難に遇い、これを免れることができないことである。人が災難に遇うのは、妄意や妄行から起こるのが当然の理。だが、時には无妄であるにも関わらず災難に遇うことがある。六三は陰柔不中正で无妄の時に中り、理由はないのに災難に遇う。
 例えば、牛を邑(むら)の路傍に繋ぎ置き、牛の持ち主が、そこを離れていたところ、路行く人が牛を盗み去ったとする。たまたま近くにいた邑(ゆう)人(じん)が、戻ってきた牛の持ち主から詰問され、賠償させられるようなものである。牛を盗み去った路行く人には利得だが、邑人は何もしていないのに、賠償すると云う災難に遇った。
 だから「无妄の災なり。或いは之が牛を繋(つな)ぐ。行(こう)人(じん)の得るは、邑(ゆう)人(じん)の災なり」と言うのである。
 何の罪もないのに偶然災難に遇う。孔子が陳(ちん)蔡(さい)で災難に遇ったように、君子でも災難を免れることはできないのである。どうして普通の人が災難を免れることができようか。
 世の人が无妄の災難に遇えば天を仰いで怨まない者は少ない。人は運命に順うことが大切だと聖人が諭しているのである。
 牛を失った人は災い多い客人である。牛を盗んだ人は罪が大きい客人である。邑人は災い少ない主人である。行人(牛を盗んだ人)は客人であり、邑人は主人である。象伝は主人の立場に立って解釈して「邑人の災也」と言うのである。
 六三は陰柔不中正で内卦震(動)の極点に居るから妄りに動いて道を喪(うしな)い易い。戒(かい)慎(しん)恐(きよ)懼(うく)すべきなのに、恣(ほしいまま)にして遂に災難に遇う。素行を慎まなかったので无妄の災いを招いたのである。
 六三から上九に至る(上卦と三四五爻)まで天風姤の象がある。天風姤は突然災難に遇う卦である。邑人を主として解説すれば无妄の災い、牛の持ち主を主として解説すれば有妄の災いとなる。

九四。可貞。无咎。
象曰、可貞、无咎、固有之也。
○九四。貞にす可し。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、貞にす可し、咎无しとは、固(もと)より之を有する也。
 九四は陽爻陰位で不中正。才能は強いが志は弱い。だから妄動して災禍に罹り易いのである。だが九四は上卦乾に居り剛健の性質があり、貞しさを貫く才能もある。だから妄動することを戒めて「貞にす可し」と言うのである。
 君主に近い位に居り、下に応援なく、无妄の君子が小人の位に居る。「貞にす可し」とは、妄動の病を治療すべきと云うことである。安静にして固く貞しく静かな道を守り、期したり望んだりすべきではない。无妄の時を犯さなければ、事を為すことができなくても、事に敗れることもない。このようであれば咎を免れる。だから「咎无し」と言うのである。
 象伝の「固(もと)より之を有する也」とは、「貞にす可し」と云う戒めを常に実行し、終身安静にして固く貞しい道を守ることを云う。

九五。无妄之疾。勿藥有喜。
象曰、无妄之藥、不可試也。
○九五。无妄の疾(やまい)なり。藥(くすり)する勿(なか)れ、喜び有り。
○象に曰く、无妄の藥(くすり)は、試(もち)う可からざる也。
 「疾(やまい)」は災難のようなもの。无妄の時に水害干(かん)害(がい)疾(しつ)病(ぺい)等の災難や夷(い)狄(てき)や盗賊に遇うことは天運、「これを致す莫(な)くして至る」ものである。自分から引き起こしたものではないので、治世を害することはない。日々の流れの中で食事をするようなものである。
 明君の治世でも必ず災害は起こる。堯(ぎよう)の時代も水害があり、舜(しゆん)の時代も干害があった。また文王は羑(ゆう)里(り)に囚(とら)われ、周(しゆう)公(こう)も流(りゆう)言(げん)の被害があった。孔子にも陳(ちん)蔡(さい)の災難があった。
 このような時に中っては、ただ正道を守り徳を修め安んじて天命を待つべきである。自分の智恵を過信して険しい局面に立ち向かって行って幸いを求めてはならない。
 放っておけば災難は自然に消滅する。九五は剛健中正で尊位に居る。无妄をよく守るから災難が少ない。災難が少なくても疾(やまい)には罹(かか)る。剛中ゆえよく摂生して寒暑を凌ぎ、程よく飲食する。だから疾(やまい)に罹るけれども薬(やく)石(せき)を施す必要はない。放任しておけば自然に元気に復る。妄りに薬を用いれば他の疾(やまい)を生ずる憂いがある。
 「喜び有り」とは癒(い)えることを云う。摂(せつ)生(せい)した功である。君主は国家が意外の変事に遇った時、静かにこれを制御すれば、武力を用いなくても変事は自ずから治まる。憂慮することはない。これを「无妄の疾(やまい)なり。薬(くすり)する勿(なか)れ、喜び有り」と言う。
 象伝の「試(もち)う可からざる也」とは、薬を用いる必要はないこと。

上九。无妄。行有眚。无攸利。
象曰、无妄之行、窮之災也。
○上九。无妄なり。行けば眚(わざわい)有り。利しき攸(ところ)无(な)し。
○象に曰く、无妄の行くは、窮まるの災也。
 上九は无妄の時に在って陽爻が无妄の極に居る。公正の道を守って徳を修めるべきである。だが不中正で乾の極に在るから、妄りに希望の念を生じて、无妄の時を犯す。利貞の戒めに背き正道を踏み外して、自ら災禍に罹るに至るのである。
 彖伝に「其れ正しきに匪(あら)ざれば眚(わざわい)有り、往く攸有るに利しからず」と云う者である。だから「无妄なり。行けば眚(わざわい)有り。利(よろ)しき攸(ところ)无(な)し」と言うのである。
 凶害の甚だしい者である。六三や九五のような无妄の人でも、不慮の災いに遇うことがある。まして上九は不中正で卦極に居り、妄りに希望する。あらゆる思慮は妄心であり、あらゆる計画は妄動である。妄の妄なる者ゆえ、災害に至るのは当然である。
 しかも乾の極点は天道が極まり必ず変ずる時だから、象伝にこれを説明して「窮まるの災也」と言うのである。
 上九は居る所が地に非(あら)ず、遇う所は人に非(あら)ず。さらに進み行こうとすれば、言葉が忠信であろうと時に通ずることは難しく、逆に言葉によって咎めを招く。行いが篤敬であろうとも勢いが阻害される時だから、逆に災いを招くのである。
 以上が无妄の上九の時である。たとえ君子であろうとも、如何ともすることはできないのである。

 

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