九月二十八日の言葉 十多の説……道教 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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道教の方に十多の説がある。
一、思多ければ神(こころ)怠る。
二、念多ければ志散る。
三、欲多ければ智損ず。
四、事多ければ形疲る。
五、語多ければ気傷(やぶ)る。
べらべらしゃべるのは気が散るものであることは誰もよく気がつく。
六、笑多ければ臓損ず。
これは一寸意外に思う人が多いであろう。笑うことは気持ちが好いから内蔵の為に良いと思えるが、此処(ここ)はくだらぬことにへたへた笑う意味であるから、締め括(くく)りがない。臓は含蓄力であるから、ひきしまらぬのは悪い。
七、愁多ければ心懾(おそ)る。
八、楽多ければ意溢る。
九、喜多ければ志昏(くら)し。
十、怒多ければ百脈定まらず。
九など一寸誰も気がつかぬことで、なかなかきびしい。玩味するとなかなか味がある。(以上、安岡正篤一日一言から)

この「十多の説」は、「郷研清話」に収録されている文章で、昭和五十二年に書かれたものだと思います。安岡先生は儒教のみならず、老荘思想、道教、仏教という中国思想にも精通しておられますが、道教というのは老荘思想に仏教の影響が加わったもののようです。

では、安岡先生の著作「人物を修める、東洋思想十講」(致知出版社)から、老荘思想と道教について学んで参りましょう。

……中国の思想文化を歴史的に考察してまいりますと、孔子・孟子に荀子を加えた孔孟荀と老荘列の二つの大きな系統に分けられます。したがって、孔孟荀に老荘列を配して初めて中国の学問・思想の源流を知ることができるのですから、……老荘…黄老(こうろう)を少しご紹介いたします。
そもそも老荘とは列子も含めて言うわけですが、本当は黄老と申します。黄は中国文化の象徴的な存在である黄帝、老は言うまでもなく老子のことであります。それが漢末頃から老荘と言われるようになりました。そして儒に対して道、儒家に対して道家と申します。しかし、老荘・黄老をよく道教と言いますが、これは厳格に言って妥当ではありません。というのは漢代に入ってまいりましたインド仏教が、次第に民衆に普及してゆくにつれて、仏教と儒教・老荘との交流が始まり、一方においてインド仏教の中国化、儒家・道家の仏経化という現象が現れてきました。なかんずく道家との交流が著しく、やがて道家は通俗道学となり、また道教という独特の宗教を発展させたのであります。したがって、黄老・老荘と道教とは、全くの別物ではありませんけれども、同一ではないのであります。そして、また一方、インド仏教も老荘の影響を強く受けまして、ここに禅…禅宗というものを生むに至りました。つまり黄老・老荘が一方において禅を発達させ、他方において道教を生んだ、ということができるわけであります。こうして儒道仏の三教ができあがって、これが中国文化の三大潮流になるのであります。
そして、この三教が日本に伝来して、日本の古神道…惟神道(かんながらのみち)と交流し、日本文化の本流ができあがるのであります。したがって、日本民族の思想・学問を究めようとすれば、どうしても古神道と儒仏道三教の本質を明らかにしなければなりません。それがわからなければ日本精神・日本文化はわからないということになります。

以上です。老荘思想と道教、そして儒教、仏経との関係が分かりましたでしょうか。わたし達が日本人のことを、日本人の心の拠り所を知ろうと思えば、これらを学ばなければならないのです。
ということで、道教の十多の説を一つひとつ、わたしなりに解説して参ります。
一、思多ければ神(こころ)怠る。
邪(よこしま)な思いが多いと、神仏を敬う心を失っていく。日本では自分は無宗教であると思っている人が多いようですが、そんなことでは、人物には遠く及ばない、この世を司る曰く言い難い大きな力(これを神仏と表現しているのです)に対する畏敬の念を失っていく。精神的に堕落する。
二、念多ければ志散る。
「念」とは、「心中深く含んで考えること」と漢和辞典にはありますが、ここでは、「邪念」とか「考えすぎること」と解釈して、邪念が多いと志を忘れてしまう。考えすぎて行動しないと志を実現できない。
三、欲多ければ智損ず。
私利私欲で動いて行くと智慧から遠ざかる。智慧とは仁の道、仏の道に達するための叡智のこと。
四、事多ければ形疲る。
やる事に一貫性がなく、ただ闇雲に行動していくと、自分の形、即ち人格としての一貫性がなくなる。
五、語多ければ気傷(やぶ)る。
これはもう、「訥言敏行」という論語里仁篇の言葉に尽きます。くだくだと言葉を発する前に機敏に行動せよ、という意味です。言葉が多いと人間の行動の源泉である「氣」が傷む。
六、笑多ければ臓損ず。
くだらないことでヘラヘラ笑っていると、肝腎要(肝臓と腎臓と腰)がふにゃふにゃになる。
七、愁多ければ心懾(おそ)る。
不平不満愚痴をこぼして心配ばかりしていると、臆病者になる。
八、楽多ければ意溢る。
これは二つに解釈できます。一つは、楽ばかりしていると意欲をどんどん失ってしまう。もう一つは、何事も「楽しむ」という境地であれば、意欲がどんどん湧いてくる。おそらく最初の解釈なのでしょう。
九、喜多ければ志昏(くら)し。
喜ぶことばかり多く、艱難辛苦の経験がないと、志などどうでもよくなって堕落してしまう。
十、怒多ければ百脈定まらず。
いつも怒ってばかりいると、脈が定まらない、つまり心が安定しない、不安定である。