九月二十七日の言葉 経書と史書 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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経書は実生活の注脚として読むべきだが、それには世故(せこ…世間づきあいの上のさまざまな事柄、辞書から)を積み、齢を重ねること、世の辛苦を嘗めることが大切だ。そこで若い間は史書を読むこと、人物を研究して経史を一如(いちじょ…辞書には載っていないが、一の如し、全一の如し、つまり、ある人物の全てを知り尽くすということだと思われる、引用者注)することを心掛けねばならぬ。(以上、安岡正篤一日一言から)

経書というのは、論語、大学、中庸、仏典などの基本的な思想書。史書というのは、偉人伝、所謂伝記や人物伝のことです。経書が生きてくるのは体験を通してですから、世故を積み、齢を重ね、世の辛苦を嘗めることが前提条件となります。従って、若い人は史書を、偉人伝、伝記、人物伝を読むことが求められるわけです。しかし、今の若者は人物伝の類をほとんど読まない。これは非常に問題です。自分の理想とする人物像を頭の中に描き、それに向かって修養を積むことで人間が磨かれるのです。理想とする人物がいなければ、修養を積むということしなくなる。そうなると人間は堕落する一方です。

安岡先生は「人物を創る」(プレジデント社)で、次のように言っておられます。

人生の指導原理となる「経学」
東洋には「四部の学」と称するものがあります。
これは東洋における学問上の分類であり、「経」「史」「子」「集」のことをいいます。このうち「子」は人生の独特の観察と感化力を持つ秀れた人物の著作のことを言い、これは「経」に従属させるべきものです。「集」の内容をなすものは、詩文です。ですから、経、史、詩文というふうに三つに分けて考えなければならない、と思います。これは私共が学問修養をしてゆく上において、非常に意義深い分類方法であり、こういう分類方法は西洋の学問の分類方法においては見られないやり方です。
なぜこれが意義深いやり方であるかと言いますと、この四部の中の「経学」というのは、「我らいかに在るべきか」を研究する、我々の生活の原理に関する学問であります。我々の生活の信念を養い、生活の指導力となってゆくところの哲学……これが経学であります。経学は我々の理性を深め、性を養う所以のものであります。
これに対して、「我ら人間が如何にありしか、かくありしが故に我らはかくあらざるべからず」というふうに、歴史に徴して人間の在り方を考えるのが「史」。だから、この意味において史学は経学を実証するものであります。「史」の中より「経」を見いだすことができるわけです。「経」が理性を深めるものであるのに対して、「史」は強いて言えば意志を養うべきものであって、「経」を離れて「史」なく、経史の学を兼ね修めて知行合一的に我々の全人格を練ってゆくものであります。