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あのね、それ、テレビに踊らされてるよ。
てか「なれのはて」て。。。
それはそれとして、僕らは「自分はちゃんと分別をもって、マナーよく、ひとに迷惑をかけずに生きている」「常識人」なんてバカな勘違い、してたりします。
もし、ほんとにそう思ってるとしたら、かなーーーーーり、痛いヤツだったりします。超コントです( ̄▽ ̄)
僕も昔はそうだったけど、いま、この瞬間にも、自分の正義、自分だけの快適、を相手にいま押し付けようと、つまり「自分は快適に生きたい」と、僕らは思っていて、そのために、自由に振舞うひとが「迷惑」だと、やめなさい、正しなさい、と押し付けてる図ね。 相手も「自分の快適」のために行動してるだけだったりする。
「わたしにとって不快」なだけで。「わたしのマナー、ルールに反する」だけで。
「迷惑」に目くじらを立てて見張って「怒る側」「いつもイライラする側」で生きるのかっていうことでもあるのです。
「心屋のひと」「心屋一門」って、悪い表現でいわれることも時々あります。僕も、はじけられすぎて困ることもあります(笑)でも、心屋のひとたちは、いま、飛び出そうとしているのです。「正しさ」「正義」の世界から。そもそも根っこは優しくてキチンとしてる、できる人達なんですよね。そのひとたちが、「他人のために」自分を抑えてきた人生から、自由に自分らしく生きるために、自分の人生を生きるために、いま自分を変えようとしているのです。 ものすごい勇気を出して変えている途中なんです。僕にとってはとても大切な愛すべき仲間なのです。
もちろん、まだ始めたばかりで加減がわからなくて暴走してしまうようなひともいるかもしれないんだけど、それも仕方ないんだ。ルーキーなんだもの。最初からうまくなんて行かなくて。
なのに、そんなひとを捕まえて、そんなことさえできないひとから「迷惑だ」というひともいます。しかたないんだけど。。。そういうのを見張りながら文句言いながら、「自分は常識人」と、他人をそうやって見下して生きてるひとに言われる筋合いはないのです。
他人のためにガマンして自分を殺して、ただのいいひとのふりして、自分の腹の中は真っ黒なひとと、
ひとに迷惑かけて頼って、それでも自分を生きているひととがいるのなら、僕は断然後のほうを応援し続けるのです。
自分を生きるために、ひとに嫌われる覚悟してみないか、といつも言ってます。どれだけ、そうじゃない生き方をしてきたひとにとって勇気がいることかわかるから。それができないからといって、それを批判するのは悲しいな、と僕は思うのです。
心屋のひとたちは、本当は心優しくて、キチンと自分を律して、迷惑をかけないように生きることなんて、朝めし前なのです。でも、いまは、そんなことよりも「自分を生きる」ということを、いま最優先させているだけなのです。
日本人にもポイ捨てするひとは沢山います。そして「自分はひとに迷惑をかけていない」「自分はちゃんとしている」というひとが、実は知らないうちにどれだけの迷惑を周りに振りまいているのかも知らずに、正義ぶっていることが一番迷惑なことだと早く気づいて欲しいのです。
そして、だからこそ、そういうのはイヤだ、キライだ、というのも大切なことです。ただ、「私はキライ」というのと「あれはおかしい」と、自分と「区別」するのは意味が違って。好き嫌いは仕方のないものですが、「正義」と「悪」を分けた時点で、分離された自分との戦いが始まるのです。
僕だってそうです。気を遣って、気をくばって、気を効かせて、迷惑かけないように、ガマンして、平気なフリして、自分を律して生きる、なんて、もうプロ中のプロですよ、いつでもやれます(笑)
でも、そんなバカな生き方は、捨てたのです。そんな「迷惑な生き方」は、やめたのです。そんなことしてたら、自分が死んでしまう、と気づいたのです。無難なだけで、不平不満だらけの、クソつまらん人生になるんよ。だから、やめたんよ。
自分の好きなことのためなら、どれだけひとに迷惑をかけてもいい、なんてことはひと言も言ってないんだよ?(よく誤解される)そんなことまでいちいち言わないといけないのかなぁといつも思うのです。
「迷惑」の基準なんて、ひとそれぞれだから、そんなものすべてのひとの迷惑にならないように生きるなんて不可能で。それを「自分は迷惑かけてない」なんていうひともいて、どれだけ勘違い野郎なんだろ、と思う。自分がよかれと思ってやったことが、知らないうちにひとに迷惑をかけ、不快にさせていることなんて山ほどあるのにね。僕も自分がそうだったのにずっときづかなかった。
素敵な理解を、ありがとう( ´ ▽ ` )ノ
そして、こうであることを祈りつつ。。。ていうか、そうだよね?