あなたも、正しい
私も、正しい
どちらも、正しい。
だから、正しさを競わなくていい。
被害者は、被害者だと思っている。
ところが、
実は加害者も、自分こそが被害者だと思っている。
だから 「そうする権利」 があると思っていく。
「被害者は、加害者を裁く‘当然の権利’がある」
「あなたが私のむかつくことをするから、攻撃してもいい」
そう思っている。
「だって私は被害者なんだ」
そして、お互いが、より「被害者」であるために
自分の「被害」と「正当性」をより主張する。
「こんなことされたのよ」
「こんなこと言われたのよ」
「だから、仕返しして当然なのよ」
そこまで、自分の正当性を固めたい。
それはどうしてだろう。
それは
「うしろめたさ」があるから。
それが何なのかは分からない。
その「うしろめたさ」「何かがばれる怖さ」
それが「正当性」を主張させる。
「正当性」とは「自分は悪くない」という主張
そう「思っている」のではなくて「そう思いたい」
「そうであってほしい」「そうだと信じたい」
だから、「正当性を主張」する。
そんな自分がいることに日々気づく
今日この頃です。
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自分が「正しさ」を語っているときは
要注意です(笑)
正しさは、競わなくていい。戦わなくていい。
正しさを競おうとすると、あらさがしと、自分の被害探しになってしまう。
認めてもらえないときは、
先にこちらが相手の言うことを、立場を、事情を認めてみる
聴いてもらえないときは
先にこちらが相手の主張をちゃんと聞く
それでもダメなときは、
そこに自分の大切にしたいことが合わないときは
黙って去ればいい。
正しさを主張するためにだけ、そこにとどまっている必要もない。
その相手を見張り、にらみ続けることもない。
認めてもらえないときは
認めない自分がいる
聴いてもらえない、理解してもらえないときは
聴こうとしていない自分がいる。
(自分の正しさを主張することしか考えないで聞いている自分)
誰も攻撃していないのに
誰も責めていないのに
「責められた」と「感じる」自分がいる。
その「感じるもと」が 「後ろめたさ」「てれ隠し」「恐怖隠し」かもしれない。