太宗・李世民 | 心の風景

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李世民(598-649)。

 

唐の第2代皇帝(位626-649)。太宗とも呼ばれます。中国史上屈指の名君とたたえられています。

 

『貞観政要』の記事で述べましたが、李世民は父親李淵の建国を助け、群雄を打倒し、20代の若さで全国を統一します。

 

悲劇の元は李世民が次男だったことです。すでに長男の李建成が皇太子の地位に就いていました。

 

しかし、余りにも有能な李世民の声望は高まり、こちらを後継者にという動きが出てきたのでしょう。本人も野心をもったことは十分考えられます。

 

自分の地位が脅かされると感じた皇太子は、李世民の失脚をはかります。

 

李世民は先手を打って、長安の玄武門で皇太子を殺害します。この事件を「玄武門の変」といいます。これによって李世民は皇帝に即位します。

 

古今東西、親子兄弟で権力をめぐって殺し合うのは、それほど珍しいことではありません。しかし、やはり褒められたことではないのでしょう。まして中国は上下関係に厳しい儒教の国です。

 

李世民もそのことは分かっていました。良心からか虚栄心からか、おそらく両方だと思いますが、自分が名君になって良い政治をすることで、非道な行いを償い、世評を挽回しようとしたのでしょう。『貞観政要』に見られる、臣下に批判を要求し、それを甘受する姿勢は主にここから来ていると思います。

 

この点が、自分の欲のために肉親を殺害しても平然として、何も変わらぬ凡百の権力者と違うところです。

 

別の角度から見れば、「玄武門の変」があったからこそ、名君・太宗が生まれたと言えないでしょうか。もし李世民が長男で、すんなり皇帝になれたなら、歴史に残る名君にはなれなかったでしょう。

 

ただし、晩年の李世民は臣下に批判されることが増えていきます。もっと長生きしたら、晩節を汚したかもしれません。おそらく、栄光に包まれ、過去の汚点はもう消え去ったという思いで気がゆるみ、即位時の気持ちを忘れかけてしまったのでしょう。初心を忘れぬことがいかに難しいかを物語っています。