今日は、ちょっとイラッとすることを聞いてしまった。
……ので、かかずにはいられなかったのですが……
でも、概要全部を書くわけにもいかないので
読んでくれる人はところどころ推理して読んでみて下さい。
震災以降、……というか、震災が起こってから。
メディアや外部、
ボランティアとして被災地に関わった者はこぞって
「あの日のことを忘れない」
「震災を忘れちゃいけない」
そう口にしてきたし、耳にしてきたと思う。
私もそう。
電子書籍の「心声―ココヘ―」を作ったのも
“メディア情報の少なすぎる町からの発信”
と、
“想いを吐き出す(伝える)ことで少しでも気持ちを落ち着けてほしい”
……という名目で制作しました。
原稿を書いてくれるという人にはお願いして、
「無理だ」と言う人にはお願いできなかった。
それは当然のことなんだけど、
これって、正直、
「自己満」だなあと想いながら作った感情が残ってる。
確かに、残すことは大事。
伝えることも、届けることも大事なものだと思う。
だけど、
「忘れない」
「忘れちゃいけない」
って言うのは、常に「外部の人へ」のもの。
被災しなかった人、
テレビであの日の報道を見ていた人、
震災に遭っていない日本人。
その人達が、結局は「忘れる人」として定義されている。
「忘れちゃいけないから」
「記録を取りたいから」
「証言を下さい」
「あの日、どうでしたか」
それを訊ねられるのは、
「忘れたくても絶対に忘れることが出来ない人」。
繰り返し問われる。
何度も聞かれる。
忘れたくても忘れさせて「もらえない」。
だって忘れた頃に「訊ねられる」から。
治るか治らないか、
ようやく蓋が出来たようなカサブタを、
思いっきりひっかかれて剥がされるような。
私も、山元町に限らず亘理町でも
いろんな人達にあった。
話を聞けば、同じ人なんていない。
それぞれの震災があって、
それぞれの哀しみがあって
それぞれの被災があった。
そんな人達の悲しみの種類を
「選択」して「訊ねる」人間も、外部。
「私たちは忘れるので、私たちが忘れないようなインパクトのある出来事を教えてください」
そんな風に、言ってるようなモンじゃん。
忘れようと、必死に前を向いている人達がいる。
そのカサブタを剥がすことで、
立ち止まることになったり歩けなくなったりするかも知れない。
「忘れちゃいけない」
「だから、聞かせてくれませんか」
「忘れないために」
それは、
ちょっと違うと思うんだな。
忘れるのは、いつだって外部の人間。
「気持ちを共有してくれ」何て言ったって出来るわけない。
他人の気持ちが「わかる」なんて嘘でしかない。
だから、カサブタ剥がさなくてイイじゃん。
地元に語り継ぐ形でもイイじゃん。
口伝でも良いと思うんだ。
親族で、兄弟で、親戚で、町の住民で、
同じ地域の人達が伝えられることを伝えて残して
語り継いでいく形が良いと思うんだな。
電子書籍を作るときに、
「自分では(文字として)書けないから、書いていいよ」
と言われた話を何人にも聞いた。
だけど、私は書けなかったんだな。
どうしても書けなかった。
だから、未だにしまったまんまでいる。
カサブタを剥ぐ行為になるならば、私はしたくない。
その前に「仕事」でも「義務」でもなかったから。
金をもらってカサブタを剥ぐのであれば、
そういう人間は信用しない。
心よりも金を選ぶ行為だけは生きている内はしたくはない。
「金」の上に成り立っている活動じゃないから、余計かな。
今日聞いた話も、
漁師さんたちと仕事をしているときに
ふと聞いた話だった。
だからすごく不意打ちで、
鼻がツーンとなってしまったんだけど。
そういう人が
「被災地のために」
とか言ってるのはちゃんちゃらおかしいと思うのだ。
会社名出してるから、
本名名乗ってるから、
金もらってるから、
「被災地のために」
「届けたいから、伝えたいから、残したいから」
「だから、聞かせてくれ」
というにしたって。
その人達に対する配慮とか思いやりが少しでもあれば
訊き方も接し方も変わってくる。
「仕事だから仕事だから仕事だから」
って言うのは、すごく機械的。
それは仕事に対するプライドなのかは知らんけど。
仕事(金)に対してのプライドはあるけど
心(人間)に対しての配慮は皆無。
仕事ってのは「対・人」がいるから成り立つモンだと思う。
「対・金」で仕事してるなら、
そりゃ人に対する配慮なんざいらねえよ。
そんなわけであったま来た。
カサブタ剥ぎは大怪我している人が好きなんだろう。
絶対に嫌だ。
お関わりになりたくない人種でありますよ。