湯浅誠さん「厚労省の貧困・困窮者支援チームやナショナルミニマム研究会は政権内野党」 | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 昨日の鳩山首相の施政方針演説。国公一般としては、「新しい公共」による国づくりというところに大きな危惧を抱きますが、私、締め切りが迫っている『日本労働年鑑』の原稿等をかかえていて、あらたに書き起こす余裕がありません。ですので、すでにネタ帳にメモされていたものを、強引に関連づけてエントリーします。


 首相官邸のホームページに、鳩山首相の施政方針演説が全文掲載 されていますので、「検索」をかけてみました。「貧困」で検索すると、「貧困や紛争、災害からいのちを救う支援」という中見出しのところにある本文「アフリカをはじめとする発展途上国で飢餓や貧困にあえぐ人々」の1カ所にしか「貧困」という言葉は登場していません。


 昨年の10月20日、民主党政権は、日本の相対的貧困率を15.7%と算出・発表しました。日本政府として44年ぶりに公式の貧困率を発表したこと自体は大きな前進でしたが、その後、民主党政権は「貧困率削減目標とそのための行動計画」を具体化するには至っていません。そして、昨日の鳩山首相の施政方針演説にも、日本の「貧困率」の問題は登場しませんでした。


 この問題にかかわる内閣府参与の湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)の指摘を紹介します。(※過去エントリー「漂流させられる若者たち、派遣労働による日本社会の寄せ場化」 のつづきで、1月7日に行われた湯浅さんの講演の一部です。by文責ノックオン)


 民主党政権というのは、単一の方針を持たない、個々バラバラの個人の集まりという感じを持っています。自公政権のときよりも、貧困問題をなんとかしなくちゃいけないと思っている人は明らかに増えてはいるのですが、政権全体の方針にはなっていません。


 貧困率の削減目標を立てるための下地をつくりたいということで、昨年12月、厚生労働省に「ナショナルミニマム研究会」が立ち上がりました。研究会のメンバーは、私のほかに雨宮処凛さん(作家・反貧困ネットワーク副代表)、岩田正美さん(日本女子大学教授)、橘木俊詔さん(同志社大学教授)、神野直彦さん(関西学院大学教授)らです。


 しかし、いまナショナルミニマム(政府がすべての国民に保障する最低限度の生活水準)は、「地域主権」「地方分権」という流れの中で、軽視されています。最近では、地方自治体の仕事の内容や方法を国が定める「義務づけ」をはずすという流れの中で、保育所の最低基準を無くそうとする動きなどが出ています。


 民主党の政策の中で、いちばん違和感を持つのはこの「地域主権」「地方分権」です。「新自由主義」「自己責任論」が地方にも押しつけられて、地域間の格差が広がったという問題を是正しなければいけないのに、そこを十分ふまえずに「地方分権」をさらに進めていけば、ナショナルミニマムは一層壊され、国民の暮らしはたちゆかなくなります。たとえば就学援助は、小泉政権の「三位一体改革」で地方に財源移譲された結果、財政の厳しい自治体ではどんどん減らされてしまいました。そういうことが他のいろんな施策でも起こりかねません。


 国民の最低限の生活を保障するナショナムミニマムについては、国が責任をきちんと持った上で、その上乗せ部分を地方自治体が独自にやる方向でなければならないと思います。国と地方自治体との関係はそういうかたちにしていくべきで、ナショナルミニマムを壊すような「地域主権」「地方分権」は進めるべきではありません。


 内閣府参与という私の肩書きは、単なるアドバイザーで何の権限もありません。ただ、実際に中に入っていろいろ意見を言ってみて初めて分かったこともあります。中に入るまでは、貧困対策は、政府のやる気の問題だと思っていました。政府さえやる気になれば貧困対策はある程度実現できるのではないかと思っていました。しかし、中に入ってみて、もっと構造的な問題があるということが分かりました。雇用が流動化しているのに(※「雇用の流動化」については、過去エントリー「漂流させられる若者たち、派遣労働による日本社会の寄せ場化」 を参照ください)、セーフティーネット、福祉サービスは自治体単位だという構造に問題があるのです。この構造上の問題があるから、生活困窮者はその狭間に落とされてしまう。この構造上の問題に手をつけないまま、今回の年末年始のように何か対策をやろうとすると、いろんなところでハレーションを起こし、批判にさらされることになります。その批判の中で、漂流させられる生活困窮者たちは、つねに“社会のやっかいもの扱い”されることになる。いわゆる“NIMBY”(ニンビー)、“Not In My Back Yard”、自分の裏庭にはあって欲しくない、公共のために必要な事業であることは理解しているが、自分の居住地域内で行なわれることには反対だということになるのです。


 たとえば、いま私は“公的シェルター”が大事だと思っていますが、この公的シェルターもこの構造上の問題の狭間に落ち込んで実現しません。公的シェルターが無いままだと、漂流させられる人たちは、路上のほかにネットカフェなど有料の民間施設に泊まるしかありませんので、低賃金で不安定な雇用の中で、お金は貯められませんから、漂流させられる生活から抜け出すことは困難になり、かつ、公的なサービスに結びつきません。ネットカフェに泊まっている人が、単に終電に乗り遅れただけの人なのか、生活困窮者なのかどうかなど正確に調べられないからです。公的シェルターが存在しないということは、単に寝る場所が無いというだけではなくて、社会に問題が顕在化しないのです。貧困状態にある人が可視化されないのです。民間施設に点在していて、いったい何人いるかも分からないのですから、そうした問題が存在しないかのように扱われるので、対策は何も立てられず、公的なサービスに結びつかない。ヨーロッパなどの公的シェルターは、そこにソーシャルワーカーなどが常駐していて、そこからいろんな公的サービスにつなげていきます。いわば公的シェルターが貧困対策の“入り口”の役割も果たしているわけです。ところが、日本の場合は、各自治体の押し付けあいと“NIMBY”という状態が社会を覆っているのです。


 住居は雨露をしのぐだけではなくて、とりわけ日本の場合、様々な諸権利が住宅にぶらさがっているという特徴があります。たとえば、もやいに相談に来られた方で、住居を失ってしまったがゆえに、国民年金の振り込みが止まってしまった方がいらっしゃいました。住居は、諸権利のフックみたいなもので、あらゆる諸権利がぶら下がっている。ですから、住居を失うと諸権利も失ってしまう。住居はとても大切なのですが、日本ではずっと持ち家政策がやられてきて、「住居は自己責任」であり、公的住宅も圧倒的に少ない。基本的に日本には、低所得者層の住宅政策は存在しません。貧困の広がりの中で、臨時的にも公的シェルターが必要なのですが、これも国と地方自治体の問題があり暗礁に乗り上げてしまう。この問題も「地方分権」という流れがつくられていて、地方単位で住宅計画をつくるというような枠組みがあり、国として直営でというわけにいかない流れになってしまっています。


 この年末の対策として、ハローワークと自治体などの職員が1カ所に集まり職業訓練と生活支援の相談を受けるワンストップサービスを全国204カ所で実施しました。私はこの中で、生活保護の受付もできるようにしたいと思いましたが駄目でした。生活保護費は国が4分の3、地方自治体が4分の1を負担しています。ワンストップサービスで、生活保護の申請まで受け付けたら自治体の負担が増えてしまう。申請者の掘り起こしになって負担を増やしたくないから、ワンストップサービスで窓口を設けたくないというわけです。生活保護も受け付けるなら協力できないと地方自治体から言われた厚労省や政権側も、結局「地方分権」の流れの中で「国が自治体に命令できる時代ではない」として動こうとはしなかったのです。生活保護の受付はできませんでしたが、今回のワンストップサービスをハローワークで実施できたのは、全国にあるハローワークが国の行政サービスだったからではないでしょうか。


 国民の最低限の生活を保障するナショナムミニマムの取り組みにあたっても、国というのはこんなにも力が無いものなのかと思いました。「地域主権」「地方分権」の流れの中で、国は手足である「国の出先機関」を失っていっているのです。


 こうした「地域主権」「地方分権」の流れの中で、ナショナルミニマムをどうやって実現していくのか。手をこまねいてばかりもいられないので、この問題を整理してみようというのが「ナショナルミニマム研究会」の目的のひとつです。また、生活保護の捕捉率(生活保護の受給要件を満たす世帯がどれだけ実際に生活保護を受けているか)についても政府として発表する予定で、これも自公政権から考えると画期的なことではあります。


 しかし、「貧困率の削減目標」を政府として立てるというところにまで、今の民主党政権は合意が取れていません。私が担当している厚労省の「貧困・困窮者支援チーム」や「ナショナルミニマム研究会」は、いわば「政権内野党」のような状況にあると思います。