現代語の〈より〉はAよりBのような比較の使い方が主立っています。古典にこんな歌、
あらたまの年立ち返るあしたより
待たるるものは鶯の声
新年よりも鶯ではなく、古典では起点を表す〈から〉の意味がまずあって、本歌も〈新年この方待ち遠しい〉。この意味がやがて〈から〉に移って比較が残る。

あらたまの年立ち返るあしたより待たるるものは鶯の声

 

 

 

神祭る卯月に咲ける卯の花を
白くもきねがしらげたるかな
〈きね〉で私たちが思い浮かべる杵はこの音に呼び出される縁語の方です。〈きね〉は巫女のこと、〈巫女が卯の花を更に白くした〉。卯月、卯の花、白く、しらげと重ねて杵で精米する〈しらぐ〉に白くするの〈しらく〉を隠して白さを綾なす。

卯の花

卯の花

 

 

〈夜居の僧のあからさまに出でたる跡と見ゆ〉、何やら女犯のなまなましい狼藉を灯の下に見る思いですが、古典の〈あからさま〉に露骨にの意味はありません。動詞〈あかる〉から派生して風に吹かれるたんぽぽの綿毛のような散るイメージ。故にそこからはかなく時間が解きほぐされて〈ほんのしばらく〉。

 

 

 

〈すさむ〉は現代語同様荒れるという意味です。否定が〈すさまず〉、いわゆる四段活用。一方否定が〈すさめず〉となると下二段活用となり、意味が変わります。〈鶯の鳴く声わかみ、ひとのすさめぬ〉、まだ寒い季節に鶯は鳴き慣れていなくて、好むところではない。このときは気に入って持て囃す意味。

冬の鶯

 

 

 

古典における〈あたらし〉に新しいの意味はありません。惜しいがその意味。新しいを担うのは〈あらたし〉で何とも混同しそうです。実際混同されて新しいの意味で〈あたらし〉が用いられるようになると、惜しいの意味は〈惜し〉に吸収されます。言語上新しいの〈あたらし〉は混同から生まれた新語です。

 

 

〈うちはへて〉はやや意味を掴みかねます。こんな使い方、
足引の山ほととぎすうちはへて
誰にまさると音をのみぞ鳴く
現代語の感覚では〈うち映へて〉ですが、〈打ち延へて〉。ずっと続いていることを差します。この歌は後撰集にありますが、同じ意味の〈をりはへて〉に差し替えた歌が古今集に。

足引の山ほととぎすうちはへて誰にまさると音をのみぞ鳴く

 

 

 

〈方〉は方角の他に、気にかかる方面や場所、手段を表して現代と変わりません。こんな具合、〈せむ方もなくて、ただ泣きに泣きにけり〉、どうする術もなくて。現代からやや特異なのは〈なでしこの花ちり方になりにけり〉。このときは時節や頃合いに使って、なでしこが花散る頃になったことを言います。

カワラナデシコ

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