マックス、モン・アムール
  監督 : 大島 渚

  製作 : フランス
  作年 : 1986年
  出演 : シャーロット・ランプリング / アンソニー・ヒギンズ / ダイアナ・クイック / ビクトリア・アブリル

 


大島渚 マックス、モン・アムール シャーロット・ランプリング


思えば四半世紀になりますか、ビートたけしのテレビ番組で映画監督の活きのいいところを集めると方や映画評論家をスタジオに呼んでお互い(紙面でネチネチやるのではなく)日頃の不満を正面切って戦わせようじゃないかという企画があって(まあ方方声は掛けたでしょうが)、実際現れた評論家は田山力哉ただひとり。田山のぼやくところでは昔もちょっと大島渚の映画を悪く書くと飲み屋で渡辺文雄、佐藤慶、小松方正、戸浦六宏に取り囲まれて夢にも出てきそうなあの強面がぐるぐるとどやしつけてきたものだと存外平気で、それでも多勢に無勢では集中砲火になってそれっきりです。このときのことを妙に覚えているのは中途で口にした田山のひと言でそれまで新作のたびによろしくお願いしますと大島の方から声を掛けてきたのに『マックス、モン・アムール』を否定してからは目も合わせない、まあ本作を見通せない評論家に映画監督の愛は授けられませんよ。さてときめく美貌の人妻がチンパンジーと恋に落ちるという素っ頓狂な物語につい気を奪われますが本作がハリウッドの古典的な見世物映画『キングコング』を下絵にしているのは明らかで大島の強かさはコングをチンパンジーにダウンサイジングすることで『キングコング』が比量的に不可能にしていた問題を浮かび上がらせます、そうです、美女と類人猿の恋愛に肉体的な関係の可能性を開くわけです。この一線を踏み越えることでもうひとつ、類人猿が種として人間と隣接していることが絡みつきます。ついついひとがひとを貶めて人間の埒外に蹴落とす(<イエローモンキー>だの<サル>だの<ゴリラ>だのいまだに往々にある)差別を体現して、実際(人間相手だと思って)不倫の現場に踏み込んだ夫は裸にシーツをまとうだけの妻の傍らにチンパンジーを見てから彼の脳裏に逆巻くのはチンパンジーが(自分の正当な恋敵とはついぞ思わず)ただただ自分よりも性的な能力に長けているのではないかという恐れであってこれなどまさしく人種差別にまつわる白人男性の劣情でしょう。ただこの夫が素晴らしいのは(正直彼こそ本作の主人公なのであって)懊悩の末にチンパンジーに妻への<愛>を見出します。チンパンジーに愛があるかどうかではなく、目の前の者が自分と同じく愛を抱くことを受け入れることが感動的なのです。そしてそれこそが友愛の始まりでもあります。やがて実母の急病で(後ろ髪を引かれつつ)遠路の看病に出かけた妻の不在をチンパンジーは寂寥に食事を受けつけません。夫の懸命な努力を以てしても死へと衰弱していくチンパンジーに夫は妻の声を聞かせることを思い立ち、遠く隔たった受話器をチンパンジーの耳に当てたとき彼に命を吹き込もうとする妻が彼に歌を歌っていることを漏れ聞いた夫は自分の魂もあやされる感動に震えるでしょう。加えて題名の<マックス>がこのチンパンジーの名前であることがわかるとき、アラン・レネ監督『二十四時間の情事』(1959年)が引き寄せられてそれこそ<ヒロシマ、モン・アムール>、本作に込めた大島渚の並々ならぬ射程が開けてきます。戦争に運命を呑み込まれた男女がまさに暴力の究極的な終わりでありそして悲しむべきことに始まりでもある場所で出会い<何もかもを見た>と<何も見ていない>を交錯させたように、一匹のチンパンジーを目の前にして私たちは愛の新たな広がりとともに暴力の不安と愉悦にふたたび揺さぶられている... 大島の眼差しはいまも生きています。

 

 

 

 

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