思い返すほど大島渚は周到であるということです、(何せ松竹の入社試験のときにも<アカ>のつわ者が紛れ込んでいるらしいと社内に噂が広まるなか戦々恐々の上層部に<ははぁん、こいつか>と目をつけられたのが浦山桐郎、理由、見た目が暗いから。とんだとばっちりで弾かれた浦山の屈折した映画人生はここから始まりますが、実は誰なのか松竹が気づいたときにはすでに遅し、大島はしれっとトップ入社なんですから)、さてもさても何の話か、そうです『愛のコリーダ』(1976年)です。製作がアナトール・ドーマンの日仏合作でまずは海外で公開して評判を呼ぶとそれを上げ潮に日本で公開せんとフィルムが運ばれてきますが、ご存知の通り主役の松田暎子と藤竜也は日本ではご法度のあられもない姿の上に本番という楯の突き方なんですから当然税関で差し止められ、この帰趨が私の子供の頃には連日報道されたものです。確か税関はブルーフィルムの扱いでここに芸術と猥褻を巡る大島の広範な戦いが切って落とされるわけですが、私が周到と申しますのはそもそもふたりがすっぽんぽんの版がオリジナルであるということです。すでに警察に摘発されてもいた日活ロマンポルノでは映画としてのオリジナルに初めからぼかしが施されていて検閲という過程が作品の水面下に埋もれていますが、映っているものに改めてぼかしを入れよと官権に命令させることで映画が(いま以て)検閲を受けていることを浮き彫りにするというのがこの輸入という手順にはあります。映倫の認可を得て上映される国内の作品上でどれだけ検閲を巡る闘争を展開しても至らない地平が『愛のコリーダ』には開けるわけです。挙句に海外では自由に見られたものが国によって日本の国民からは遠ざけられるという障壁も可視化されてこれが単に芸術家と国家の争いではなく見ることを巡る国民の権利の戦いであることも明白になります。しかも大島が徹底しているのは猥褻とは申せ陰毛が映っているとか性器が見えましたというところでは収まらず(まあこれとて大目玉ではありますが)男女が実際に性交しているという猥褻の基準として(ひとまずは)これより上位がない一線を突きつけることで警察もそして大島自身も一歩も引き下がれないまさに抜き身の覚悟を示します。これが大島が<本番>を必要とした理由でしょう。ただ官権を相手にしている分には勇ましい正義の刃も返す刀で思わず露呈させるのが映画というものの男性中心主義であって松田暎子が<本番女優>と指差されながら藤竜也を(のちの佐藤慶にしても)<本番男優>とは言い習わすことはついぞないわけですから<本番>とは(行為の対称性ではなく)女性にしか掛からない言わば烙印であるということです。

 

 

 

さてこう見てくると逆に見失ってしまうのが武智鉄二でして大島にはるかに先行して映画での性表現に切り込んでは黒い雪裁判も戦った武智が大島に続く商業映画での本番に拘泥したのはよくひとの知るところです。『白日夢』(1981年)を皮切りに『華魁』(1983年)と続きますが訝るのは武智のこの熱情の赴く先で端的に申して何を目指していたのか映画を見れば見るほどわからなくなります。と言いますのもだいたい国内での上映が第一義であれば猥りがわしい箇所にはぼかしを掛けない限り劇場公開ができないわけで作品にはそもそもぼかしが入っていることになります。大島渚が海外での公開を潜らせることでぼかしがないものをオリジナルに据え(て本番を撮ることの意味を担保し)たのに対してオリジナルにぼかしを入れてしまえばさて本番にどれほどの必要があるのかおいそれとは伝わってきません。『白日夢』でヒロインである愛染恭子のお相手をするのは佐藤慶で(木全公彦『スクリーンの裾をめくってみれば』だったか、本作撮影中の佐藤が<本番>の重圧にすっかり阻喪したまま控室に2時間も籠もって懸命の蘇生に努めたなど涙ぐましいを通り越してなぜ彼がそんな役を引き受けたのか目の眩む思いでして)本作では通常のぼかしではなく(別カットの愛染の横顔や能面をつけた幻夢的な)映像を挿し入れるやり方をしていてお尻に貼りついたそんな映像に揺れながら何とも重怠い佐藤慶です。1964年に石浜朗に坂本武も呼んで監督した自作のリメイクで歯科医院での麻酔に昏迷する青年が(と一応申しますが実際この幻夢を見ているのがこの青年か愛染か医師である佐藤かは判別しにくい描写にはなっていてともあれ)夢のなかに見るめくるめく性とそれからの脱出劇です。ただ何というか目を奪われるのは武智がここぞと決めてくる通俗性で愛欲の魔の手から逃れようとする愛染を行く先々で悪魔的に待ち受ける佐藤はタキシードに黒マントを翻して諧謔とすれすれの仁王立ちですし、更に不可解が足許を泥濘せるのが看護婦役で出演する川口小枝で(弓削太郎監督『女賭博師』で鉄火場の緊迫を自らの肉体に冷たく引き締めるような江波杏子の向こうを張って何か歯並びの悪いでしゃばり方をして名前を売ろうとするあの若い娘で名前からもおわかりの通り武智と夫人である川口秀子とのひとり娘が)胸乳掻き出でて佐藤と戯れる本作への献身ぶり、武智というひとこそ高笑いに仁王立ちして私の前に立つようです。本作のDVDには「美の改革者 武智鉄二全集」と銘打って全作上映されたときの劇場用の予告編も収録されていて武智の映画からあれこれ場面を抜き出しては散りばめられたイメージのひとつひとつは鮮烈で何か映像に瞬発力のあるひとのようですが(まあ忘れていたぐらいですから)実際映画を見るとのっぺりした平板さに呑み込まれてしまいます。<美の改革者>とは武智に与えがちな安易な呼称であって古典の舞台演出はいざ知らず映画については横紙破りと通俗さがくるくると廻っていてふと思い出すのは五社英雄でしょうか。

 

 

 

 

 

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