映画(20と)ひとつ、ジャ・ジャンクー監督『帰れない二人』
  監督 : ジャ・ジャンクー
  製作 : 中国・フランス

  作年 : 2018年
  出演 : チャオ・タオ / リャオ・ファン / ディアオ・イーナン / シュー・ジェン



ジャ・ジャンクー 帰れない二人 リャオ・ファン チャオ・タオ

何か清志郎の歌声が呼び起こされるような邦題で(実際陽水とのあの曲、当時低迷していた清志郎を思って陽水がアルバムに呼んだというあの曲の叙情が(勝手につけた邦題でしょうに)不思議なほどこの映画の余韻に吹き巻くようで)バブルの、というか戦後体制の瓦礫処理に十年、二十年と費やすこちらを傍目に同じ時間を資金の洪水で目の覚めるような近代化、を通り越して近未来化を続ける中国です。2001年から始まる本作は2018年の元旦を以て終わりますが(2001年にはまだあった極東アジアに重い体を尻もちついたまま当面の憧憬は日本であった感じは後半では綺麗さっぱりなくなって世界の先端に突き出た明るく荒涼とした未来に震えていて)当然ジャ・ジャンクー自身が長江の水面に亡霊のように三峡ダムが聳え立つ姿を捉えた(『長江哀歌』の)2006年も作中を流れて...  ヒロインはやはりダムに打ち捨てられるあの町に立つんですから時間が渦を為して私たちを錐揉むでしょう。この映画を見る多くのひとが映画が追想する時間を実際に過ごしてきて映画が最後に辿り着くいまにこうして自分が立っていることの、不思議な物悲しさです。口あけは何か時代物のヴィデオカメラで撮影したようなバスの光景で座りながら通路に半身を出した一般の乗客を幾分望遠気味に撮って(露出が揃わず車窓が白飛びした気怠い現実感に浮かび上がって)寒さに頬を赤らめたそのひとたちを見るだけで(この映画の面白さは十分予感されて)心を吸い寄せられます。そんな2001年の巷を肩で風切る主人公は勿論ヒロインの恋人ですが落ち着いた毎日を送るにしては角刈りも口髭も気性に逆立って(話の様子ではギンギラなディスコをいくつか経営しているようですがまあそれだけでなく)地域の顔役から表立って解決できない事案を持ち込まれてはふたつ返事で請け負っているんですからヒロインでなくとも将来に不安が募ります。というのも盃を酌み交わした兄弟とそれを取り囲む子分たちが幾重にも肩を寄せて地盤を守る盤石さの上に立っている主人公ですがそんな血盟集団の足許で改革開放の浮ついた金回りのよさが社会を浮つかせ親分なし子分なしの愚連隊が思い上がった闇討ちに息を潜めています。ついに顔役がそんな一撃に落命しますがいまも主人公自身が白昼堂々通りを飛び出してきた少年に滅多打ちに打ちのめされて社会が重しもなく何か大きな河に浮かんでいるような危うさを目の当たりにしているのです。そんなヤクザな恋人の傍らにあってヒロインは2001年のいまから2018年の彼方へまさに濁流に押し流されるように土地から土地へと流れていって映画は彼女を追い続けますがロードムービーという男性的な郷愁とは無縁の、まさに<女ひとり大地を行く>生き意地の強さに怯みません。語りは危うさと滑稽さが入り混じって時間を波打たせて却って茫漠と広がる目の前の、儚いばかりの心許なさを浮かび上がらせます。ともあれそれを私たちは生きていかねばならないことを胸の痛みに響かせるのはいまこの文章を書いている私の額にキム・ギドクの訃報が、しかも異国の空で猖獗する疫病に鷲掴みにされた不慮の死であることが突きつけられて本作のヒロインのように荒れた粒子の光のなかを壁に身を凭せて立ち尽くしています。

 

 

 

ジャ・ジャンクー 帰れない二人

 

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