田村正和を見ていて私に湧き起こってくる印象は端的に<軽さ>です。あの立ち居のどこに重心があるのかそもそも重心なんてものを知らない不思議な漂うような構え、手ひとつ指差すのでも腰から流れるような流麗さと一方で体は何かマリオネットの、ふわりと吊られて遅れて動きが来るあの感じです。それで美貌がまじまじとこちらを見つめてくるんですから言わば間を外されたあとにとどめが来るわけです。三兄弟を見渡して直に阪妻を引き写したようなひとはいませんが(風貌のいがぐりとしたところはご長男なんでしょうが)場面の構え方、芝居の溜め、間の喰いつきなどは案外田村正和が引き継いでいるように見えます(あ、あとセリフを喉で転がすときのあの声)。阪妻自身前へ前へと押し出していくのではなく、大きく構えて一歩引き、半歩引くような度量の芝居であんな大看板なのに共演者とまみれて絡みよく比重が分け持たれている印象です、いつもは撮影のことなど黙して語らない志村喬が阪妻との初めての絡みに帰宅して誰に言うでもなく(子供のいない夫婦世帯であれば)ぽつりと<阪妻は大きい、こちらがのみこまれてしまうかと思うほど大きい>と呟いた(沢地久枝『男ありて』文藝春秋 1994.2)というんですから。さて田村正和の訃音に接してあの立ち姿のままにゆらゆらと立ち上ってくるのはふたつの思いでして、ひとつはテレビのスターとは何だろうということです、そしてどうして映画は美少年を恐れるのか。

 

 

眠狂四郎は鶴田浩二を嚆矢に数多の役者の演ずるところですが私としては雷蔵で極まれりということでしてそれは美貌や芝居云々を云ってではなく、役に課せられた宿命を飽くまで重く背負うその造形においてです。時代小説にまったく無知なので私の単なる思いつきです(し時代小説をお好きな方の間では至極ありふれた知見かもしれません)が柴田錬三郎が原作の連載を始めるのが1956年、十五代目市村羽左衛門の出生を解き明かして里見弴が『羽左衛門伝説』を発表するのが1954年です。里見のかの本は絶する美貌で客の目を惹きつけて止まない羽左衛門が明治政府に外交顧問として来日していたフランス系アメリカ人を父に持つことを明かして、そのことが<異人との合の子>である故に凄絶たる美貌に貫かれた眠狂四郎の宿命に引き写され美貌にはどこか異形さ、美しすぎるという美を越えた恐れを引きずっています。差別と血が絡み合うあまりに命が透き通った美しさが自分を呪いそして自分もまた自らの美しさを呪っているというのが眠の虚無であってそのことに意識的であったのが雷蔵の狂四郎であるというのが私の思うところです。(羽左衛門がかような出生にあってその美しさによって梨園名代の家に養子となったように見目麗しければ白痴でも構わぬと言い切る芸事の峻烈さと異様さは入り組んだ芸養子を育てて雷蔵もまたそんなひとりなわけで、しかもそう望まれながら梨園を去って映画スターを生きる何とも切り立った雷蔵のいまがやはり役の寄る辺なさと重なっています。)聞くところによると俳優引退の遺作に眠狂四郎を選んだという田村正和もかの役を当たり役とするものですが、彼もそして彼を引き継いだ片岡孝夫もテレビにあって美しさを襲う異形という翳を切り捨てて、そうとなればただ冷淡に身構えた美剣士というもっとも流通しやすい記号に収まっています。田村が眠を演ずるのが1972年、言わずもがな1969年の雷蔵急死でこの当たり狂言を引き継がせたい思惑の上でしょうがそれより早く大映直々の依頼で東映から貸し出されたのが松方弘樹です(森一生監督『眠狂四郎円月殺法』、池広一夫監督『眠狂四郎卍斬り』共に1969年)。慣れない他社の上に稼ぎ頭だった雷蔵の穴を当たり役の代役で埋めてあわよくばシリーズの延長を図りたいという何重もの過大な期待を背負わされた松方の眠は雷蔵の艶やかな冷たさとは違う透明さにその美青年ぶりを映して(ホンは急拵えの上に森一生を以てしても演出に覇気を欠いて何より)松方を支えるだけの体力を大映にもはや望むべくもなく... 。その『眠狂四郎卍斬り』で累々と屍の横たわるなかを眠狂四郎と最後に雌雄を決して自身も同じく<異人との合の子>であると打ち明ける薩摩の美少年こそ田村正和、なかなか味わい深い剣の交わりです。

 

 

 

 

田村が映画と果敢に交わったのは60年代から70年代半ばまで有り体に申して映画ではスターと言い切るところまでは上り詰めないまま総じて美貌の青二才という役どころが彼の実際でしょう。30歳に向かう実年齢にあって役では大学出たてというところしかし若さに厚ぼったい風貌はどうかすれば十代にさえ見える美少年ぶりで(増村保造監督『やくざ絶唱』1970年)ついつい考えが及ぶのはこんなことです。例えば長谷川一夫にしても雷蔵にしても大川橋蔵にしてもデビューには前髪のある美少年の仕立てで橋蔵なんて東映入りするに及んで相談した雷蔵の仕立てをそのまま引き写しです。上目瞼に三角の目張りを入れて目尻を下げて瞳を柔和にすると眉は決然とハの字に引き上げますが眉墨は薄めにして飽くまで目を引き立て(例えば萩原遼監督『ふり袖太平記』1956年)前髪も垂らしてまさに少年の出で立ち、しかしこの三人のうちデビューのときの仕立てをそのまま引っ張ったひとはいません。橋蔵を見ればわかる通り少年という面差しは残しつつも両性具有的な年齢のやわらいだ線を引き締め青年の風貌として(三人とも自分たちの実年齢は上がってもこの青年という顔のつくりを生涯通して)のちに平次親分に引き継がれる橋蔵の、目許と等分に物言わせた眉の凛々しさへと顔を変えてきます。美少年というのはお客に初顔であるときには眦を裂く馥郁とした輝きですが輝きであるだけに瞬き揺らいで安定せずひとの心を掻き毟ります。映画が美少年を恐れるのはそれが生々しいからで観客の性的な嗜好に関わりなく少年が美しさによって性の境界を揺るがし名指し難い欲望を喚起してしまって(逆にそうだからこそ女剣劇という女性を強さの記号に転換し男性的というよりも彼女たちが美少年剣士へと性を繰り越すのに男性観客が性的な興奮を覚えるという手の混んだ趣向も可能になるわけで)安定して幅広い人気を必要とするスターとなるために美少年の仕立てを棄てるのは賢明な三人にしてみれば当然なわけです。しかし彼らがそれを可能なのも<書かれた顔>だからで(まあご存知の通り藤村志保曰く素顔の雷蔵は銀行員、橋蔵にしてもお団子顔であの美貌は自らの下地を引き立てる彼らの化粧の技巧に生み出されて)...

 

 

 

では素顔で美少年を生きる面々はこの美少年の軛をどうするのか、それが津川雅彦や田村正和に私が思うことでこの辺りの呼吸を呑み込んでいるマキノ雅弘の映画では津川は吃音とか乞食とかはっきりとした印を刻まれて浮き立つ美少年ぶりを押さえ込みしかしそのため第一線からは一歩も二歩も引く苦しい60年代を過ごします。(同じく紅顔の美少年であった松方弘樹が70年代には過剰とも思える黒鉄色に日焼けして目をひん剝いた造形に自らを落とし込むのも同様でしょう。)年齢の上昇とともにねっとりした中年の色悪に自身を開いてそれから裏返して津川雅彦が主役を張る(というか脇にあって主役に張り合える)役者に返り咲くのは80年代以降でしょう。一方田村が見出したのがテレビで同じ<映す>とは言ってもテレビは映画よりもはるかにラジオに連なるメディアであって全国に同日同時刻を一律に更新し続けることを本質とするためそこでは生々しさよりも記号化が強いられます。田村正和の美少年ぶりは(映画のように欲望を生々しさへ開放するのではなく)記号という空虚によって情報として完結されて(つまり美少年は美少年であるという同語反復に閉じ込められて)流通していくわけです。(だから田村と同じく映画ではいまひとつ身の置きどころのなかった近藤正臣や沖雅也、あおい輝彦がテレビでは難なくその美貌を闊歩させて、逆に言えばあおいなんて画面に漣立つ美少年ぶりがあったればこそ市川崑監督『犬神家の一族』ではそれを逆手にあののっぺらぼうの樹脂製のお面を脱いで立ちのぼる気持ちのざわつきですしね。)さて映画に美貌を燻らせるむらむらとした田村正和の姿を私は磯見忠彦監督『東シナ海』(1968年)に焼きつけて彼の香華としたいと思います。親会社の船舶会社に就職も決まった大学生が荒波の漁船にひと夏肌で海を感じ取ろうと船出です。しかし集められた俄の船員たちは的屋に彼が連れる幼児のような大男、鑑別所から身許を引き受けた札付きにエロ写真の販売で首の廻らなくなった中年男という具合でやがてエンジンの不良で寄港する那覇は返還にざわつく真っ只中。積荷が優先でポンコツ船と船員は現地に置き去りされると(まあ顔ぶれが顔ぶれだけに)沖縄の煮えたぎるいまに一歩一歩踏み込んでいって... 。勿論青二才の大学生が田村で絡み合った沖縄の現実が戦後の矛盾に紐解かれるたびに本土の欺瞞を苛みますが、その矛盾をわが身で生き抜いてきた沖縄人のヒロインははるかに気高くて真摯に求婚までする田村のなかに彼が無意識に踏まえる本土の優位を見過ごしません。自分に誓ってくれるのが東京での見違えるような豊かな生活ではなく、なぜここで一緒に矛盾の只中を戦ってくれる決意ではないのか、ヒロインの面影が遠ざかる荒い波間に少年のような田村の顔が揺れています。

 

 

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