<切るならフィルムを縦に裂けッ>でしたっけ、いやいや<監督名から俺の名前を削れッ>でしたっけ、どっちにしたってえらい剣幕で公開に臨む自作の映画に刃の言葉を投げつける内田吐夢です。言わずと知れた『飢餓海峡』(1965年)でのことですが、映画監督にこんな血し吹く絶叫をさせるとは会社が勝手に映画を切り刻むときで切り落とされたフィルムの血の滴りがぼたぼたと監督の胸のうちを血溜まりに谺しているのです。こんな目に合うのは勿論内田が始めでもなく終わりでもありませんが、目ぼしいところを挙げてみますと黒澤明監督『白痴』(1951年)...  日干しにあった東宝から他社に出向いて製作しながら4時間25分の長尺に仕上げる黒澤の心臓に感服しますがこれも松竹に切られて2時間46分が現行です。例えば吉田喜重監督『日本脱出』(1964年)、岡田茉莉子との海外での挙式を控えて初号の上がりが出発当日という慌ただしさ、ヨーロッパでの結婚から新婚旅行が40日に及ぶという夢心地から帰国してみると松竹はフィルムから最終巻をこっそり抜いて結末の政治的なメッセージをまさしく骨抜きにして公開しています。興行収入の低迷で一線を退いていた城戸四郎が陣頭に復帰するのがこの頃で監督の地位や著作権、編集権が実に曖昧な日本で公開を見届けずに会社に下駄を預ける不覚です。田坂具隆監督『陽のあたる坂道』(1958年)は戦後の新しい青年の鮮やかさを裕次郎に見入られた田坂によって予定の尺を疾うに越えて映画が完成し(田坂の憤激をよそに)やはり日活に切られて公開されると文芸物でも物ともしない裕次郎人気に映画館が十重二十重になるのを見届けるや会社がちゃっかり元の3時間9分版に差し替えて何とかあるべき姿を守ります。そして『飢餓海峡』です、勝手に切れられた自作を前にクレジットから自分の名前を消せと叫ぶ内田吐夢ですが... 内田を語って触れずに置かないこの挿話に私がまず思うのは今更会社が映画を切る理由がわからぬ内田ではなかろうということです。大島渚監督『日本の夜と霧』に始まる松竹らしからぬ政治性を持て余した吉田の件はさておき黒澤も田坂も内田にしても会社が映画を切った理由は映画館での上映回数を確保したいためで売り上げが掛かっている館主たちからの突き上げが強(く配給網の手薄な東映にしてみればブロックブッキングを維持するためには彼らの意向を聞き入れぬわけにはいかな)い上にいまや1965年、1億に満たない国民が10億を越える観客となっていた絶頂期はとっくに下り坂、会社とて背に腹は変えられないわけです、それが呑み込めない内田とはどうにも思えません。

 

 

 

 

 

 

とまれかくの如き事態と相成った経緯を辿っていきましょう。本人の語るところを聞けば事の始まりは実に鷹揚なものでここ数年時代劇が立て続いたことをひと息つこうと語るうちに撮影所所長である岡田茂が先立って目をつけていた水上勉の原作を持ち出します(内田吐夢『映画監督五十年』三一書房 1968年)。企画はお仕着せだったわけですが(その岡田は程なく京都の撮影所に俊藤浩滋ともども乗り込んで東映時代劇の幕引きとともに任侠映画の始動に舵を切って東京撮影所の後任は辻野公晴)、芸術祭参加を見込んで11月の1本立興行と日程が組まれます。ここで見えるのは東映の内田への(それなりの)気配りで一応興行的な娯楽性には目をつぶってどうぞ芸術的な映画をお作り下さいというまさに『大菩薩峠』に『宮本武蔵』を続けた内田への慰労を感じさせて尺も予め1本興行にしてそれなりの長尺もきちんと想定されています。そう順調に行っていれば何ごとも問題なく内田吐夢の現代劇の長編が鳴り物入りで公開され相応の評価を得て内田は更に『宮本武蔵』の最終部から或いは自らが構想していたいくつかの映画、硫黄島の激戦や札幌農学校の師弟の姿、そして『天皇の世紀』をそのフィルモグラフィーに刻めたのかも知れません(四方田犬彦『無明 内田吐夢』河出書房新社 2019.5)。ましてや東映を退社した不聊を見透かすように吉永小百合から企画が持ち込まれ(まるで事務所のお雇い監督にでもするように)顔合わせも済むか済まぬうちに(吉永の誕生日に合わせた)製作発表に駆り出されて挙句にやはり自分のイメージに煤けた女工は似合わないと(これまた内田にはひと言の相談もなく)製作中止が告げられるという(これを書き記す四方田は<一瞬ではあるが、吉永小百合に殺意を覚えた>とする)こんな恥辱を最晩年に受けることもなかったわけです、そうすべてが順調に行っていれば...  最初に内田が仕上げた尺、3時間12分1秒で『飢餓海峡』はいまもに世にあります。予定を狂わせたのは洞爺丸事故をモデルにした青函連絡船の転覆を物語の導入に押し立てて、1千人を越える死亡、行方不明者に立ち向かう救助現場の騒乱を描くために5百人を越えるエキストラと自動車両、小型船舶を集めながら描くに足る荒れた天候は思うにならず、連日待機させたまま徒に日数を失っていきます。(この辺り内田の際どさを感じさせるのは『宮本武蔵 一乗寺の決斗』(1964年)で自衛隊の駐屯地に作り出された荒涼たる田圃の一帯をわずかな薄明の時間を縫って連日紙一重の撮影を成功させた運と自信を、まあ過信してということはないでしょうが自信は自信としてこのときの判断を支えていたことでしょう。しかし戦前も不動の名声を得るやその自信に打って出た渾身の大作でこれまで得たものを根こそぎ引っこ抜かれる大コケです... )クランクアップは10月、到底11月公開は不可能になり(同時に芸術祭参加という作品のお膳立ても失って)、正月興行は既に組まれていますから1月半ばの公開となりますと2本立ては致し方なく、3時間12分は会社以上に映画館が呑み込みません。しかるに内田が再度の編集を拒否したため会社は助監督であった太田浩児に無理強いして2時間46分に切り詰めさせ(これが冒頭の、内田の憤怒を絞る言葉になって)東映との関係はこじれにこじれます。改めて社長の大川博と話し合うことで内田は3時間3分の修復版を会社に示し、それが現行の『飢餓海峡』です。勿論監督の誰であれ完成した自作に鋏を(しかもわれの知らないところで)入れられることを承服するひとはいないでしょう、しかしそういう監督の矜持という一線から更に踏み込んで内田のなかで譲れないものがこの『飢餓海峡』に生まれていたというのが今回のお話です。

 

 

 

 

内田吐夢 Tom_Uchida 高倉健 Ken_Takakura

 

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内田吐夢 飢餓海峡

 

内田吐夢 飢餓海峡

 

 

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