一億火の玉の大戦争も負けてみれば敗戦の現実が国のあちらこちらに出てまいります。そんなひとつに... 1947年のまだ寒さも厳しい頃、帝都座の五階劇場に突如額縁が現れなかには胸も顕な女性がお目見えします。西洋名画を現物でお見せするというのがショーの趣旨(というか建前)でそれ故の額縁であり絵画ですから勿論微動だにせず時間にしてもわずか数秒、よそ見をしていたら終わりです。これに世の男たちが押し寄せたことでこれからの数年を狂熱のうちに駆け抜けていくストリップ騒乱記の始まりです。最初こそ額縁にかしこまっておりましたが、すぐに後ろから女性の下着を剥ぎ取る演出が加えられ、女性が動き出し、額縁もなくなって、いよいよダンスが導入されます。裸があれば劇場はひとびとのミシミシした大入りになり、なければ潮が引くとあってはストリップ劇場はわらわらと簇生していき既存の劇場も次々と演し物を鞍替えです。そう言えば敗戦も経営者を替えて乗り越えた新宿ムーランルージュは軽演劇の牙城として断固ストリップを拒否しますが観客の減少に抗し切れずストリップに踏み切った途端に観客を回復、しかし古くからの軽演劇ファンは離れ挙句にストリップの早い時流に取り残されるとあとはジリ貧の末路(橋本与志夫『ヌードさん ストリップ黄金時代』筑摩書房 1995.04)。さてこの空前の、濡れ手の粟踊りに大手劇場もみすみす指を咥えてはいません、いよいよ東宝が乗り出し各小屋の人気ダンサーを引き抜いて1952年日劇ミュージックホールが開場します。この日劇の初期のスターにメリー松原がいますが、まずは彼女の艶姿を拝見してみましょう。市川崑監督『プーサン』(東宝 1953年)です。主人公の伊藤雄之助は土建屋上がりの学校経営者にいいようにこき使われていまや風前の灯の大学教員です。彼の唯一の慰めが下宿先の娘である越路吹雪でして今日は彼女のおねだりでここ日劇ミュージックホールで観劇です。まさに小林一三が掲げる女性も楽しめる裸の芸術という日劇のモットーそのままですがどうも現実はそうも行かず、ダンスが熱を帯びるに従って(身を乗り出す雄之助に)モジモジと居たたまれない越路吹雪。この場面でダンスを踊るのが松原でどういう演目なのか<わたしのラバさん 酋長の娘>のような片言のヒロインを踊っています。 

 

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その日劇ミュージックホールから一般の芸能界で最も成功したのは春川ますみでしょう。それこそ葉山三千子の昔から女性に目のない谷崎潤一郎の戦後のお気に入りのひとりで当時の春川のブロマイドを見たことがありますがストリップのダンサーにあって妖艶とか豊満とか強く女性が迫ってくる感じではなくて、コロコロとした愛嬌が眠たげに微笑んで掴もうとした腕がそのまま呑み込まれるような不思議な包容力は何とも文豪の好みを推察させるところです。私の子供の頃にはテレビ時代劇の『江戸を斬る』『暴れん坊将軍』と恰幅のよさがそのまま気っ風のよさになったような女将役で魚屋に火消しと喧嘩ありの荒っぽい稼業を取りまとめて時に横車の刃を前にしても一歩も引かない男まさりの正義も見せます。晴れやかな佇まいが魅力ですがいまから見ればあれらの役は通常の春川からは少し下駄を履いた役どころでぽちゃとした色白に蝦蟇口の形の顔、裏返りこそしませんがポンと飛び跳ねるような甘く甲高い声ですから、やはりどこか総身に知恵が廻りかねる役が基本です。川島雄三監督『グラマ島の誘惑』(東宝 1959年)は森繁久彌とフランキー堺の宮様兄弟が大戦末期に女だらけの島に漂流するという(世はまさにミッチー・ブームのそんな時代の)政治的な寓意を主張へではなくおふざけの円のなかでくるくると廻してみせたというような作品で森繁なんてややお腹を迫り出した猫背に首だけ前に出す宮様の立ち姿にはんなりと好色を滲ませて川島のおふげさにおふざけの真剣味で応えています。ここでの春川は宮様たちと乗船してともに難破する慰安婦のひとりで固くなった握り飯のような風貌ですが島のすったもんだのうちにあけっぴろげになりながらやはりどこか棒立ちの田舎娘です。同じく川島の『人も歩けば』(東京映画 1960年)ではやや役がこなれて桂小金治の店で仕事そっちのけで探偵小説を読んでいる店員でしてひたむきさと空廻りが(痩せぎすな恋人を包んで)愛らしく春川ますみのひとつの形が出来上がっています。この造形の線上にのちの、渡辺祐介監督『男なんてなにさ』(東映1966年)でアパートのひと部屋を女友達と分け合いつつそれぞれ体ひとつで生きて抜いている女の陽気な力強さとなりそして溢れ返るような子沢山を抱えながら男一匹の、痩せ我慢のぎりぎりを生きて(概ね向こう側にひっくり返)るやもめのジョナサンの恋女房にもなっていくわけです、寺山修司監督『田園に死す』(人力飛行機プロ・ATG 1974年)の懐かしさに冷え冷えとするどこか寂しい空気人形にも。

 

 

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 さて春川ますみの一本というとやはり今村昌平監督『赤い殺意』(日活1964年)でしょうか。押し込んできた逃亡犯に無理やり体を奪われた女性がそのことが開けた穴のなかに自分の、妻であることと女であることを手探りしながら(同時に夫の、夫であることの嘘と本当も露見して)ふたたび家庭というひとつの劇に(しかしそれをそう捉えるしたたかな目を秘めて)戻るあの映画は忘れがたいのですが、ここではやや穿って『赤い殺意』に引き続いて西村晃を夫のまま(日活から東映に移って)出演した佐藤肇監督『散歩する霊柩車』(東映 1964年)を見てみましょう。『赤い殺意』の陰と陽を縫うように同じくせせこましい夫との関係に他の男との関係が楔のように打ち込まれている妻ですが『赤い殺意』が打ち込まれるほどやはり妻であることに自分の未来を嵌め込むのだとすると(どちらもそれなりに夫を騙すことには違いないのですが)『散歩する霊柩車』では春川は女であることに吹っ切っています。若いつばめに身も心も(どころかありったけの金まで)注ぎ込もうとする妻をなじって西村が男の若さなんてあっという間になくなってしまうと嘲笑ってもそうなれば男を換えるだけだと意に介さずそうなったときの自分の年齢を考えろとなけなしに叩きつけたところでそんなこと考えてる暇はないと躱してしまう春川には西村との生活を否定する気持ちしかありません。それは『赤い殺意』の春川とて同じことでしかし(逃亡犯との情事に魅せられるという)本当のことがやはり所詮行き場のない嘘に過ぎないように嘘でしかない夫との生活もそれが嘘であることを見据えて続けることで少なくとも単なる嘘ではなくなるのであり紙一重ながら若いつばめとの情事も所詮かりそめのことと見切る春川はしかし嘘とわかっている夫の生活をわかっていながら続けることには耐えられずやはり背中合わせのふたりの春川ますみがいるように見えます。でもそれは同じひとりの女の、自分の背中を見ることはできない悲しい行く末なのかも知れません。

 

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